シティ・ポップ誕生前夜 [3]
東京という都市が育んだ音楽コミュニティ
前回取り上げた、はっぴいえんどについて、その成立の過程を見てみよう。
大滝詠一は、出身の岩手の高校を卒業して1967年に上京。都内の企業に就職するが、3ヶ月ほどで退職。そして翌年、早稲田大学に入学。この頃、細野晴臣が在籍していた立教大学の友人を通じて交流を持つ。二人を繋いだ縁はお互いに「洋楽好き」という同人的なものであった。
一方の細野は、大学3年生の時、慶應大学に通う松本隆から「バーンズ」というバンドに誘われる。松本が細野を知った経緯はこうである。バーンズのメンバーが千葉に海水浴に行ったときの事、たまたま合宿中の立教大学の音楽サークルと仲良くなった。このことがきっかけで、松本は、当時天才ベーシストと呼ばれていた細野のことを知った。後に細野は「エイプリル・フール」という比較的メジャーなバンドへ加入するが、この時細野は、林立夫をドラマーとして推薦している。しかし、これは叶わずドラマーとしてエイプリル・フールに加入したのは、第2候補の松本隆であった。ちなみに、細野がYMO結成の際に、真っ先に声をかけたのは高橋幸宏ではなく、林だったという話もある。
もう一人のメンバー鈴木茂は、立教大学の音楽イベントで細野晴臣に見いだされる。その後、鈴木はこの音楽イベントで知り合った青山学院高等部の林立夫、小原礼などと「SKYE」というアマチュアバンドを結成。なお、このバンドでキーボードを担当したのは、後にユーミンのバックバンドを務めることになる「ティン・パン・アレー」の松任谷正隆である。林の誘いで加入した。松任谷は言わずと知れたユーミンの夫であり、ユーミンの楽曲のプロデューサーであり、アレンジャーでもある。
1972年にはっぴいえんどが正式に解散すると、大滝はナイアガラ・レーベルを立ち上げ本格的なソロ活動へ、松本は職業的な作詞家へ、細野と鈴木はキャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)へと活動の場を移す。
さて、このように「はっぴいえんど」とその周辺の人物だけを見ていくだけでも、日本のロックの黎明期に、東京という狭い都市のなかで、友人の紹介や、「どこどこに、ベース(あるいは、ドラム、ギター)の上手いやつがいるぞ」などの口コミなどによって、今や名だたるミュージシャン達の音楽コミュニティが形成されていたことがわかる。
なお、ここに登場した人物は、そのほとんどが比較的裕福な家庭に生まれ育っている。鉄道官僚であった細野晴臣の祖父が、タイタニック号に乗船した唯一の日本人、というのは有名な話である。他にも、松本隆の父は南九州財務局長、松任谷正隆の父は東京銀行の支店長、妻の由実も大正3年創業の呉服屋の娘である。
当時は楽器を買うにも、レコードを買って聴くにも、金銭的な負担が大きかった。このことにも少し触れておきたい。
プラスティック・ラブ 考
竹内まりやの「プラスティック・ラブ(1984)」が、最近になって海外で再評価された経緯について簡単に書いておくと、
2010年頃、懐古主義と批評性が混ざり合った Vaporwave が勃興。この頃、日本の80年代の楽曲も盛んにサンプリングされる。
2013〜2015年頃、Vaporwave の流れをくむ Future Funk が 台頭。Night Tempo らが、プラスティック・ラブ や、松原みきの「真夜中のドア(1979)」などを Daft Punk 風のクラブ仕様でリミックスし Youtube に投稿。海外で盛んに再生されて広まる。
2016〜2018年頃、海外フォーラムや Reddit で、これらの楽曲が「Japanese City Pop」として話題になる。同時期、プラスティック・ラブの原曲の非公式な動画が Youtube のアルゴリズムによってバズる。
2019〜2020年頃、Spotify などで、主に80年代にリリースされた日本のダンサブルな音楽が、チャートの上位に登るという現象が起こる。
概ね以上が、シティ・ポップが、「一過性のネット現象」から「国際的に認知されたジャンル」となった経緯とされている。
ところで、「日本のシティ・ポップが世界的に大ヒット!」的な言説をよく見かけるが、これはちょっと違うと思う。この手の音楽を好む海外のリスナーの耳に届いた、つまり、好き者がその存在を知った、というだけで、大ヒットというほどのことでもなかろう。これはもう、インターネットありきの現象である。
さて、プラスティック・ラブは、竹内まりやの復帰第1作となる「VARIETY(1984)」に収録の曲である。このアルバムの特徴は文字通り、多様な音楽の詰め合わせであって、他にも彼女お得意のアメリカン・ポップス的な要素が満載のもの、リバプールサウンド的なもの、ロックンロールっぽいものなどあり、実に多彩である。
つい最近まで、このアルバムリリース直後の山下夫婦による掛け合い的なラジオ番組の音源(おそらくは、当時の「サウンドストリート」の音源)が Youtube にあったのだが、現在は削除されているようだ。それによると、プラスティック・ラブのくだりでは、竹内自身の話として、歌詞の「上手に打ち込んで」というあたりは、その頃普及しだした家庭用のパーソナルコンピュータを意識したものとのことだった。つまり、頭にあったのは、当時流行の、最先端の、恋、といったところなのだろう。そういえば、「跳んでる女」という言葉が、これよりだいぶ前に流行したりもしていた。
では、それほどプラスティック・ラブは先進的な曲か? というと、私自身はそうは思えず、5曲目の「Broken Heart」の方が、よほど都会的でコンテンポラリーである。むしろ、プラスティック・ラブの方は、日本の歌謡曲っぽいとさえ思える。このアルバムのプロデューサーでもある山下達郎はこの曲のデモテープを聴いて、全曲オリジナル(当初は、竹内の今までの路線を引き継いで、外部の作家を迎える予定だった)を決めたようだが、良くも悪くもこの曲には、竹内らしさがにじみ出ていると思う。
竹内は、歌謡曲の歌手に多くの楽曲を提供している。後にセルフカバーしてヒットした「駅(中森明菜)」「元気を出して(薬師丸ひろ子)」などは有名である。
話は突然変わるが、泰葉の「フライディ・チャイナタウン(1981)」も、2020年頃になって Future Funk 勢に発掘され、海外で人気だと言うが、これなどはもう、メロディーから何から、まんま日本の歌謡曲である。
最近になって、海外の若者らを引きつけた「シティ・ポップ」の魅力は、日本語の歌詞を乗せて歌うとちょうど良い、日本の歌謡曲(あるいは、演歌)的なものにあるのではないか?
その延長線上に、洋楽の影響を受けた70年代の「(日本の)ニューミュージック」というものがあり、両者がほどよくクロスオーバーした時期がちょうど80年代あたりだった、というのは、ちょっと都合が良いし、あまりにも穿った見方とも思えるのだが、どうだろう?
