アーリーマジョリティを含め、可能な限りぜーんぶまとめてギバーにする——今年度取り組んでいる生徒会の民主化のために
一昨日の記事の続きです。
ゼロから1をつくった人にしか、わからない喜びや悲しみがある、という話を書きました。 そして、ゼロイチで生まれたものを、誰かが「渡された」と感じて受け取ってくれる時、それが新しい喜びになる、と。
では、どうすればソースを「受け取れる」人を増やしていけるのか。
ソースを渡そうにも、受け取ってくれる人がいなければ渡せない。 そして、ソースを受け取れる人——自分のものとして引き受けて、それを大きくしていける人——は、決して多くはありません。
学校の改革をしても、それを始めた人がいなくなると、あっという間に形骸化する。これをなんとかしたいんですよね。
これが今日のテーマです。
前にも書いたことがある気がしますが、解像度が深まったので再考してみます。
学校に限った話じゃないけど、世の中には誰も得しない構造が、たくさんある
少し回り道をして、学校の話から始めます。
学校に限った話でもないのですが、学校には、不思議な構造がたくさんあります。
たとえば、職員会議。(本校では数年前に改革がありかなり短くなりましたが) 本当に話し合うべき議題は、全体の1割か2割くらい。 残りは「念のため共有しておきます」「報告だけです」という、聞いていても聞いていなくても変わらないような話。 それでも、毎週、決まった時間に決まった人数が集まって、決まった長さで会議をします。 誰もが「もう少し短くできるよね」と思いながら、誰も「短くしよう」と言い出さないまま、それが続いていくことが、結構あります。
たとえば、行事の前例踏襲。 「去年こうだったから、今年もこうしよう」で動いている工程が、本当にたくさんあります。 誰かが何年も前に、何かの理由で決めたやり方が、その理由がもう失効しているのに、形だけが残って続いている。 「これって今、要るんだっけ?」と問う人がいないまま、毎年同じことが繰り返される。生徒の学びが一番大きくなるよう設計されているか?という観点が放っておかれることもある——
こういう話——つまり、日本中の学校で、同じような「誰も得しない、けれど誰も変えられない構造」は、学校に限らず世の中に実にたくさん存在しています。
そして、不思議なのは、それを変えようとする声がその周囲で、ないわけではない、ということです。 「会議を減らそう」「前例踏襲をやめよう」と言う人は、実は結構いるのです。 本やSNSやセミナーでも、そういう発信はずっと前からされています。 正論として、それが正しいことは、ほぼ全員がわかっている。 でも、変わらない。
これがなぜなのかという話を、今日は書きたいのです。
はっきり言って問題は「キャズム」です。
マーケティングの世界に、「キャズム理論」という有名な考え方があります。 ジェフリー・ムーアという人が提唱した理論です。
新しい商品やサービスが世の中に広まっていくとき、人々はだいたい五つのタイプに分かれる、と言われています。
一番先に飛びつくのが「イノベーター」。新しいものに目がない少数派です。 次が「アーリーアダプター」。ビジョンに共感して、自分も乗ってみようと動く人たち。 そして、ここから先が「アーリーマジョリティ」「レイトマジョリティ」「ラガード」と続いていく。
キャズム理論の核心は、アーリーアダプターとアーリーマジョリティの間に、深い溝(キャズム)がある、というところにあります。
この溝はなぜ生まれるのか。
答えは、両者の判断基準がまったく違うからです。
アーリーアダプターは「面白そう」「変革になりそう」で動きます。ビジョンに共感したら飛びつく人たち。 一方、アーリーマジョリティは「失敗したくない」「リスクを取りたくない」で判断する人たちです。 彼らが動くのは、「自分にもできそう」「前例がある」「失敗しても大丈夫そう」と感じた時だけ。
だから、いくらアーリーアダプター向けの語り方を洗練させても、その言葉はアーリーマジョリティには届きません。 両者は、同じ言葉を聞いていても、まったく違う基準で受け取っているからです。
そもそも「正しさ」では、人は動かない
学校に限らない組織の中で何かを変えようとして、なかなか変わらないとき。 そこには、たいていキャズムがあります。
先進的な声(イノベーターやアーリーアダプター)は、「これは正しい」「だから変えるべきだ」と言います。 でも、その「正しさ」は、アーリーマジョリティには届きません。
なぜなら、正しさは抽象的だからです。 抽象的な正しさは、自分の日常との接点が見えにくい。 「正論はわかるけど、自分には関係ない」「自分にできるかわからない」「失敗したら困る」——そういう壁の前で、アーリーマジョリティはたいてい止まってしまう。
これは、アーリーマジョリティが鈍いとか、考えが浅いとか、そういう話ではないと思っています。 彼らの判断基準が、ただ違うだけなんだろうと思います。 「リスクを取りたくない」というのは、ある意味で誠実な判断でもあります。 彼らには彼らの責任があるし、守らなければならないものがある。 正論で押し切られて変わるのは、彼らにとってむしろ怖いことなのです。
先進的なソースが「正しい」と叫ぶだけでは、世の中の大半は動かない。 これは、世の中の大半が悪いのではなく、構造の問題です。 そして、この構造を放置しておくと、ある悲劇が起きます。
先進的、革新的なソースが、孤立してしまうのです。
「自分は正しいことを言っているのに、誰もわかってくれない」 「あの人たちは何もわかっていない」 そう感じてしまう。 そして、ソースは消耗するか、わかってくれない人たちを切り捨てる方向に進んでしまう。 どちらにしても、主導性や拡張性は止まります。
イノベーターに必要な翻訳者というバディ
ここで必要になるのが、翻訳者の存在です。
翻訳者というのは、先進的なソースのビジョンを、アーリーマジョリティが受け取れる形に組み替える人のこと。 ソースのビジョン自体は変えない。 でも、それをどう語るか、どう見せるかを変える。あとは、始めた人も気づいてなかったことをさらに追加して伝えることができる人です。
これは、昨日の記事で書いた「1を1.5にする人」とは、少し違う役割です。 1を1.5にする人は、ソースが立ち上げたものを整える人。 翻訳者は、ソースが立ち上げたビジョンが届く範囲を広げる人。 両方とも大事ですが、別のはたらきです。
翻訳者は、何をするのか。
ひとつは、物語を使いこなして伝わる人を増やすことです。
「正しさ」では人は動かないけれど、物語ではある程度動きます。 なぜなら、物語には具体的な人物がいて、状況があって、その人がどう感じたかが描かれているからです。 聞き手は、登場人物に自分を重ねながら、「自分だったらどうするだろう」と考え始める。 物語は、抽象的な原則を、身体感覚で受け取れる形に変換する装置なのです。
もうひとつは、理屈で構造を可視化することです。
感情論や正義論ではなく、「この構造はこうなっています」「これを変えるとこういう良いことがあります」と淡々と示す。 アーリーマジョリティは、感情で押し切られると反発しますが、構造を見せられて納得すると、自分から変わってくれます。 彼らは「変わりたくない」のではなく、「リスクの見えない変化が怖い」だけなのです。 構造が見えれば、リスクの大きさが計算できる。計算できれば、動ける。
物語と理屈。 両方とも、抽象的な正しさを「自分ごと」に翻訳する装置です。 翻訳者は、この二つの道具を使って、ソースのビジョンとアーリーマジョリティの日常をつなぎます。
そして、この翻訳者の存在がなぜ大きいかというと、翻訳者にもよくわからないことをイノベーターが始めたとき、イノベーター本人にも分かりきらない部分が多々あるけれども、始めないとどうなるのかわからないのですが——それでも、多分なんか意味があるんだよね?と言ってとりあえず周りの反対を抑制してくれたりもするんです。イノベーターは周囲の非難轟々だと無力感を感じ、諦めてしまうこともあります。でも、周りにそっとしておいてくれるように促してくれる人がいると、やり切れる。
これはイノベーターにとって、非常に大きいんじゃないかと、特に昨年度あたりから私は実感をもって思います。いわばイノベーターの伴走者なんですね。たぶんジェネレーター的資質能力がある人なんだと思います。
蛇足かもしれませんが、私の場合翻訳者は年上であることが多かったことを付け加えておきます。価値観が少し違う世代の人に翻訳者になっていただけたとき、この上ない心強さを感じます。
学校に多いアーリーマジョリティの中にも、たくさんのギバーがいる
ここで、アダム・グラントの『GIVE & TAKE』という本の話を少し挟みます。 グラントは、人を「ギバー(他者に与える人)」「テイカー(他者から奪う人)」「マッチャー(損得のバランスを取る人)」の三つに分けて分析しました。
ゼロイチをやる人は、ほぼ定義的にギバーです。 リスクを取って、自分の時間とエネルギーを差し出して、何かを立ち上げる。 これはギバー的なふるまい以外のなにものでもない。
では、アーリーマジョリティはどうか。
ここが大事なポイントなのですが、アーリーマジョリティは、ギバーになれない人ではないのです。 彼らはただ、「学校の中での革新」という領域では、まだ自分のソース性を発見していないだけ。
学校の先生で考えてみます。 職員会議の改革にはなかなか乗らない先生が、部活では後輩の面倒を本当に丁寧に見ていたりします。 保護者向けプリントの形式を変えることには反対する先生が、学級経営では生徒一人ひとりと深く向き合っていたりします。 別領域では、立派にギバーとして動いている。
つまり、彼らがギバーになれないのではなく、この領域では、まだギバーとして動くスイッチが入っていないだけなのです。
そして、実はこの別領域ではギバーになっている人が多いのは教育業界の特徴かと思います。
子どもの笑顔が見たくて教員になった人や、保護者や地域と良好な関係を築いていきたいと思っている人ばかりが教員になっていると思うのです。
ギバーのスイッチが入るとき、何が起きているか。 その人が、その領域の物語を「自分の物語」として受け取った瞬間です。 あるいは、その領域の構造が「自分にも変えられる」と理屈で見えた瞬間です。
このスイッチを入れる役割を担うのが、翻訳者なんだと思うのです。
学校を含むセクト主義的な職場ではサブソースを見つけると多分うまくいく
昨日の記事で書いたソース原理に、もう一度戻ります。
ソース原理には、「サブソース」という考え方があります。 全体のソースが大きなビジョンを持っているとき、その中のある一部分について、別の人が自分のイニシアチブとして引き受ける。 その人は、自分が引き受けた領域においては、正真正銘のソースです。 階層構造ではなく、フラクタルのように、ソースが広がっていくイメージ。
アーリーマジョリティの中にいるギバー候補が、自分のソース性を発見するとき。 彼らは、サブソースになります。 全体のビジョンに乗りつつ、その中の一部を、自分のものとして引き受けて動き始める。
これが起きると、何が変わるか。
イニシアチブが、一人のソースに依存しなくなります。 サブソースが増えていけば、もとのソースが消耗しても、孤立しても、イニシアチブは続いていく。 そして、サブソース自身も、自分の領域で次のサブソースを生み出していく。 このフラクタルな広がりが、構造を変えていくのです。
「アーリーマジョリティを含め、可能な限りぜーんぶギバーにする」というタイトルにしたのは、こういう意味です。 全員をいきなりイノベーターにする、という話ではない。 それぞれの人が、それぞれの領域で、自分のサブソース性を発見していく。 そういう状態をつくっていきたい、ということです。
こうなったとき、縦割り的な文化が割と強い職場でも、どうにか、なんとかなっていくような気がします。
生徒会の民主化に向けて
そして、ここから本題です(やっと)。
私は今年度、腹を括って、生徒会の民主化に取り組んでいます。
「民主化」と書くと大げさに聞こえるかもしれませんが、私の中ではシンプルです。 生徒一人ひとりが、自分の領域で、自分のソース性を発見できる学校にしたい。 そういうことです。
生徒会というと、「意識の高い一部の生徒がやるもの」と思われがちです。 立候補して、選挙で選ばれて、役職について、毎週集まる。 このモデルでは、生徒の中のアーリーアダプター層までしか参画できません。 アーリーマジョリティの生徒たち——たとえば、部活に全力を注いでいる生徒、地域の活動に熱心な生徒、家のことで忙しい生徒——は、生徒会という箱の外に置かれてしまう。
でも、彼らは本来的には「動かない生徒」ではないんです。 別領域では、立派にギバーとして動いている。 部活で後輩を育てている。地域の祭りを支えている。家族のために時間を使っている。 彼らはギバー候補なのです。
箱の大きさが違うだけです。大カッコなのか中カッコなのか小カッコなのか、それだけの違いです。
比較的立派なお菓子屋さんの、いろいろな種類を詰め込んだギフトか、一種類の小箱か、そんな感じです。(生まれ故郷のお土産で言うと、石屋製菓のギフトなのか、白い恋人だけなのか、ホワイトチョコだけか、チョコのものもあるのか、美冬や雪だるまくんチョコレートも入っているのか、そんな感じ)
であれば、生徒会という箱の方を、彼らが入れるように組み替えればいい。 彼らがすでに持っている物語と、生徒会の物語が重なる点を見つけられたら、彼らはそこでもサブソースになっていける。 「部活ガチ勢が参画できる生徒会は、生きた生徒会になる」と、私は信じています。
高校生までのうちにその経験ができたら、自分の箱の大きさを悠々乗り越えられる子どもたちになる。子どものうちにその経験があると、大人になったとき、箱のサイズが違ったとき、乗り換えられるはずです。
しかも、生徒会文脈でこれを始めたのは生徒会長です。
彼が具体的に何をどうやっているか、私が何を後方支援しているかは、また別の機会に書きます。 今はまだ、種を蒔いている段階です。 でも、たぶん、どんどん進みます。というか、もう進みまくっています。
なぜなら、これは私一人の意志ではなくて、すでに動き始めている生徒たちの物語に、私が翻訳者として寄り添っているだけだからです。 ソースは、生徒の中にいる。 私はそのソースを孤立させないために、横にいる。 そういう感じです。
ソースを縦割り組織の中で孤立させないために
最後に、もう一度書いておきたいことがあります。
先進的なソースは、周りが何もしないでいると、孤立します。 彼らの言葉は、アーリーマジョリティには届きにくい。 そして、アーリーアダプターはその他大勢の意見で、賛同できない。
正しいのに届かない、というのは、本当に苦しいことです。 そして、孤立したソースは、消耗するか、攻撃的になるか、諦めるかします。 どれも、そのイニシアチブにとって致命的です。
だからこそ、翻訳者が必要なのです。
ソースを否定するのではなく、ソースの言葉を組み替える人。 レールを敷くのではなく、梯子の段差を緩やかにする人。 1を1.5にするのではなく、1を「自分ごと」として受け取れる人を増やす人。
そして、翻訳者が機能すると、アーリーマジョリティの中からサブソースが生まれてきます。 彼らがそれぞれの領域で動き始めれば、構造はゆっくりと、でも確実に変わっていく。
評価軸そのものを変える戦いをするより、サブソースを増やしていく方が、たぶん射程が長いのです。 そしてそのために、私は翻訳者として、今日も学校の中に立っています。
ゼロから1をつくった人にしか、わからない喜びや悲しみがある。 そして、その1を「自分ごと」として受け取った人にしか、わからない喜びもある。 その両方の喜びを、できるだけ多くの人に手渡していけたらいいな、そして一緒に「お互いがんばってるね」と、称え合いたいと思っています。
参考:
ジェフリー・ムーア著、川又政治訳『キャズム Ver.2 増補改訂版 新商品をブレイクさせる「超」マーケティング理論』翔泳社、2014年
アダム・グラント著、楠木建監訳『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』三笠書房、2014年
トム・ニクソン『すべては1人から始まる——ビッグアイデアに向かって人と組織が動き出す「ソース原理」の力』英治出版、2022年
ステファン・メルケルバッハ著、青野英明・嘉村賢州訳『ソース原理[入門+探求ガイド]——「エネルギーの源流」から自然な協力関係をつむぎ出す』英治出版、2024年
