本阿弥光悦の《赤壁賦》をトーハクで堪能……その字に惚れました
意味を知らずに文字だけを見て、これだけ感動というか見入ったのは初めてのことかもしれません。先日、東京国立博物館(トーハク)のコレクション展へ行った時に、近世書画の展示室を散歩していたら、本阿弥光悦の《赤壁賦(せきへきふ)》が展示されていたんです。
「赤壁賦」というのは、もともと北宋の蘇軾(そしょく)という政治家が、左遷された先の黄州で詠んだ歌なのだそうです。ちなみに、三国志のハイライトの一つに「赤壁の戦い(レッドクリフ)」がありますが、同じ長江の景勝ですが、場所としては全く別のところにあります。そしてこの「赤壁賦」は、「赤壁に舟を浮かべて遊んだ際の体験と、そこから得た人生の悟りを、前後2編の美しい文章で綴っている」というのが一般的な解釈です。前後2編と言っても、それぞれ完結しているようです。
現在も中国はもちろん日本の様々な能筆により記された「赤壁賦」が残っていて、わたしもトーハクで、特に中国能筆の作品を東洋館で見る機会が少なくありませんでした。でも「ふ〜ん……」という感じで見て回ったくらいなものです。それが今回、本阿弥光悦の《赤壁賦》……正確には《後赤壁賦》を見てきて……なんだか分かりませんが、その文字に意味もわからず見入ってしまいました。

わたしは、どうも「書」を鑑賞するってことに、まだ慣れておらず、その書かれている意味が分からないと感情が揺れることがないのですが……本阿弥光悦さんの文字は、なんだか分からないけど「いいなぁ〜」って思うんですよね。なんで良いと思うのかは、分かりませんけど。

「霜露(そうろ)はすでに降り、木葉(このは)はことごとく脱(お)ち尽くし、人影はくっきりと地に在り、仰げば明月が見える」の部分です。「人」という文字を落ち着いた……筆を流すように「影」という字へ繋げつつ、力強さを出しつつ(「在」を挟んでいますが)、一気に「地」の字で仕上げている感じでしょうか。

「已(すで)にして歎(たん)じて言う。客は有れど酒は無く、酒は有れど肴(さかな)が無い。月は白く風は清(すがすが)しい。此の良夜(りょうや)を如何(いか)に過ごすべきか」あたりの文字です。
「已而歎曰(やがて、ため息をついてこう言った。)有客無酒(客は有れど酒は無く)」まで書いて墨のカスレが気になったのか、ひと息つきながら光悦は筆に墨を含ませてから筆先を整えて、また書に向き合い「無」の文字を綴り始めたようです。筆を置いて線を引き……線の最後で留めるのが普通だと思うのですが、光悦さんの筆は留まらずに次の線を書き始めています。その流れが感じられるのが心地よいです。「まぁそれは草書だから」と言われればそれまでなのですけどね。

「断岸千尺(断岸は千尺も切り立っている)」の「岸」と「千」の、きっちりとした……凛とした文字が、とても気に入って撮ってきました。今、意味を知りながら改めて見ると、その文字がまさに「断岸千尺」を表現しているように感じます。横の線もですが、特に縦のスゥーッと引かれた線が「さすが寛永の三筆だな」と。わたしが書を始めたら、この線が書けるようになるまで、どのくらいかかるでしょうか……そこまで時間が残されていない気がします。

「断岸千尺」に続く「山高月小(山は高くして月は小さく見え)」の4文字は、なんとなく、背景に月に照らされてかすかに浮かぶ山のシルエットが頭に浮かぶような文字……のように、わたしには思えます。文字が柔らかい……。

こちらは「登虯龍(虯龍のような老樹に登る)」です。見た時には「龍」という文字だとは全く分からず……でもなんか力強くも流れを感じる文字が心地よくて、できるだけ「龍」の文字の流れる雰囲気を撮りたいと思ってレンズを向けた記憶が残っています。
ちなみに虯龍(きゅうりょう)とは、ツノのない若い龍や体をくねらせた龍のことを指すそうです。文字を見た限りだと、ここでは後者の「くねらせた龍」を表しているようにも思えます……どうですかね?

「草木震動、山鳴谷応、風起水涌(草木は震動し山は鳴り谷は応え風が起りて水が涌き立つ)」のあたりです。赤壁賦は自然の情景を言語化している部分が多く、先ほどから「木」「葉」「山」「月」「水」などの文字があちこちに散りばめられていますが、いずれも脱力感がとても素敵というか詩的な雰囲気があって……最後に改めて「草木」を写真に残しておきたいと思ったのだったと記憶しています。そうして見ると、次の行にある「風」や「水」も「いいなぁ〜」と、ちょっとうっとりしてしまいます。
ということで《赤壁賦》のところで、時々ほかの観覧者が近づいてきたら近くのソファに座って待ち、軽く20〜30分くらいは居たような気がします。今季の展示は10月18日まで続くということで、また見た時に、わたしがどんな風に感じるのかが楽しみです。
※今回のnoteの最後に《後赤壁賦》の原文とAIのGeminiによる現代語訳をコピペしておきました。
■“伝”本阿弥光悦の漆器《芦舟蒔絵硯箱》
本阿弥光悦については、もともと興味があったわけではなく、2年目(2024年)の特別展「本阿弥光悦の大宇宙」の開催前には「なんか聞いたことがある名前だけれど、どんな人なんだろう?」というくらいしか知りませんでした。この展示や図録を見て、一気に興味が湧いて主にトーハクで作品を見るたびにわけもわからず「なんか良い作品なんだろうなぁ」と思いながら眺めています。
そうして考えてみると、江戸時代の書家や藝術家、工芸家で彼の影響下にない人はいないだろうとまで思うようになりました。今季、漆器の部屋に展示されている《芦舟蒔絵硯箱(あしふねまきえすずりばこ)》などは典型的な作品だろうと思います。
解説パネルには「“伝”本阿弥光悦」と記されていますが、その解説文を読むと、これを記した研究者は、この硯箱が本阿弥光悦の作だとは全く思っていないんだろうな……と感じます。“伝”なんてそんなもののようです。

トーハク本館にある漆器の部屋は、漆器という特性上からだと思いますが、異常に照明が暗く、わたしのカメラで撮ると細部までパッキリと写せないので、観賞用としては「ちょっとなぁ……」という感じです。そこでChatGPTに色補正してもらいました(細かい部分が変更されてしまっているかもしれません)。AIが嫌いな方は飛ばしてください。

ChatGPTは、見た時の雰囲気を忠実に再現してくれているような気がします。解説文を読むと「角や段差を持たず、丸みを帯びた姿は江戸時代を通じて好まれた硯箱の一形態です」とあります。トーハクに所蔵されている本阿弥光悦作の漆器といえば、国宝の《舟橋蒔絵硯箱》が有名です。その《舟橋蒔絵硯箱》も、フタに角のない丸みを帯びた箱でしたね。作るのに手間もかかるでしょうから、高級品の代名詞的な作りだったのかもしれませんね。
さらに「蓋表には鉛の薄板でつくる舟を斜めに大きく配しています」とあります。先日は、同時期に作られた尾形光琳の国宝《八橋蒔絵螺鈿硯箱》を見ましたが、やはり「橋」が鉛の板で表現されていました。本阿弥光悦や尾形光琳が始めたのかは知りませんが、その後にそうとう流行ったのでしょう。

フタの表側に舞っている千鳥は、フタの内側や硯箱の受け箱の方にも描かれています。このへんは琳派っぽい雰囲気ですけれど、やはり本阿弥光悦と比べると繊細さに欠けるような気がする……なんて、偉そうに思ってしまいましたが……どうなんでしょう。

■仲良しの俵屋宗達が学んだかもしれない《駿牛図断簡》
光悦とタッグを組んでいくつも作品を製作していた「俵屋宗達」。彼は鎌倉時代の絵巻『北野天神縁起絵巻』などを熱心に模写し、そこから大和絵の技法を学んだそうです。同絵巻には当時の貴族乗り物である牛車が多く描かれていますが、宗達はそれらを参考にして、または咀嚼したうえで水墨画の『牛図』(日蓮宗 聞法山 頂妙寺蔵・重要文化財など)を残しています。
というつながりを想起させたかったのだろう、鎌倉時代に描かれた《駿牛図断簡》が、水墨画のコーナーに展示されています。

上の断簡は、トーハクで1974年に発刊された『絵巻 : 特別展』(図録?)によれば、「五島美術館,瀬津家, 田美術館などに分蔵される図と合せて、もと1巻の絵巻であった。」としています。さらに「本図は、その第7番目の牛にあたる」と続けているので、もともとは李公麟の《五馬図巻》の「牛バージョン」のような感じだったのかもしれません(わたしの想像)。
スケッチを基本として、細線を引き重ねて濃淡の調子をつけ、立体感をあらわそうという工夫が施される似絵風の表現法がされています。つまりは日本版の写実画法という感じでしょうか。鎌倉時代は、神護寺の伝源頼朝像や仏師・運慶らもですが、写実主義が隆盛したのでしょう。
ColBaseによれば「本図を納める箱書に拠ればもとは御室仁和寺にあった八葉の内の一図で、残る七幅が国内外に伝わる」とあります。今季は、もう一幅の個人蔵の《駿牛図断簡》が展示されていますが、同じ人が描いた同じ一巻にあった断簡とは解説されていないので、また別物なのでしょう。

■光悦の孫……光甫(こうほ)が作った碗
主に水墨画が展示されているエリアを抜けると、茶器を紹介する部屋があります。普段のわたしは、時々しか茶器の部屋を見ることもないのですが、先日はたまたま人が少なかったのでじっくりと見てみました。
少しクシャッとした、感じの良い碗があったので近づいてみると、《信楽不二文茶碗》と名付けられたそれは、本阿弥光悦の孫、本阿弥光甫(こうほ)の作品だということです。かれは「空中斎」と号したそうで、見ることはできませんが、碗の高台脇には「空中」の彫銘があるそうです。

広田松繁氏寄贈
「光悦の孫」とサラッと流してしまったが、Wikipediaには「寛永14年(1637年)、37歳の時に祖父光悦が没するまで、茶の湯、香道、書画、陶芸、彫刻を学ぶ。(中略)加賀藩前田家より300石の扶持を受ける。」と記されているので、光悦の作風を色濃く継承した人なのでしょう。また先日開催された特別展「加賀前田家」に関連する作品が展示されていてもおかしくないなぁと思いましたが、少なくとも出品リストには、その名前を見つけられませんでした。
そのほか形や色が気に入った碗をメモとして写真だけnoteしておきます。いずれも広田松繁氏寄贈ですね。ありがたいことです。

広田松繁氏寄贈

広田松繁氏寄贈

広田松繁氏寄贈
■本阿弥光悦のDNAが入っている? 池大雅の山水画
さらに進んでいくと、茶器の部屋の対となる部屋が近世の屏風と襖絵の部屋です。いつも3件が展示されていますが、今回のハイライトは池大雅の山水画《西湖春景銭塘観潮図屏風》です。

(加工無し)
ここからは少し無理やりに本阿弥光悦と池大雅を結びつけようと思うので、飛ばしてもらってもけっこうです。本阿弥光悦の美意識は刀剣や書画にとどまることなく、漆器や茶器、能楽などにも及びましたが、それらの美意識は先述した孫の本阿弥光甫や、血縁関係にもある尾形光琳や乾山などに継がれていき、18世紀の京都の芸術的または文化的な土壌に深く浸透していったと考えられます。
当然、乾山と同時代に京都で活躍し、日本における文人画(南画)を大成させたとされる池大雅(いけのたいが)も、かれらの影響下にあったのでしょう。池大雅は、中国の文人画をそのまま受け容れたのではなく、日本の美意識と融合させたことが高く評価されたはずです。わたしは池大雅の絵が「なんか中国っぽいんだよな」と感じてしまいます。例えば中国文人がが墨の濃淡や淡彩を主体とした余白を活かした表現を理想としています。池大雅の絵にも、そうした要素が色濃く残っていますが、そこに岩絵具を用いて明るい色調を多用しました。
池大雅の作品に、それほどグッとくることもないわたしですが《西湖春景銭塘観潮図屏風》は、時間があったのでよくよく見てみました。いつも思うのですが、中国の文人画は特に草木がドット絵のように描かれているものが多いなぁとか、ところどころに人や家屋が雑に描かれているのですが、それが雑な感じがしないのはなぜだろう? とか、こうやって細かく描かれた人や家屋を見ていると、のちの北斎や広重の風景画に繋がっている感じがします。そうやって右隻から左隻へと見ていくと……やたらと開けられた空白があるんです。

左隻の右……中央寄りの2.5扇には何も描かれていません。この空白と思われたエリアが、すごく気になりました。気になったというか、いいなと思ったんです。なぜ気になるのか、気に入ったのか分からなかったので、気になった部分をパシャパシャと撮っておこうと思ったら、下の写真のように何枚も撮っていました。



気がついたのは……いや「さっさと気づけよ!」なんですけど……空白だと思ったエリアは、空白ではなかったんですね。淡い青色の絵の具が波のように……まぁなんかシミのように……描かれていました。でも良く見ると、これは波として描いたのもあるけれど、この屏風を描き始めた時に、池大雅は大きめの刷毛で屏風全体に、この淡い青色の絵の具を塗ったような気がします。

伝雪舟だか誰かの作品を見た時に、青系の岩絵具は褪色しやすいと書かれていた気がします。で、その絵の青色を濃く加工したものをnoteにも添付した記憶があるのですが……今回も、もしも青色が褪色せずに残っていたらバージョンを作ってみました。




こうして描かれた当時の色彩を再現していくと、池大雅が大成したという日本における文人画の印象は、いま感じているものとはだいぶんに異なるんじゃないかと思います。なんでもかんでも再現したいとは思わないけれど、特にわたしが苦手としている池大雅作品については、再現してほしいなぁと思いました。もしかすると、実に素敵な絵なの……かも……しれませんから。

そして、こうして細部まで見てみると、やっぱり全く墨の濃淡だけで描かれていたという印象はなく、水色や緑、肌色など様々な絵の具が使われていますね。

この部屋には、。谷文晁の門下にも関わらず池大雅にに傾倒したという高久靄厓(たかく あいがい)の描いた重要美術品に指定されている《西園雅集図屛風》も展示されています。この後の近世書画の部屋では、先に挙げた本阿弥光悦の《後赤壁賦》のほかに、谷文晁の《公余探勝図巻 上巻》もスペースを広く割いて展示しています。その谷文晁の弟子だった高久靄厓の《西園雅集図屛風》は、谷文晁の作品を紹介する前の“匂わせ”的な展示なのかもしれません。

個人蔵
そして谷文晁の《公余探勝図巻》のほかに、英一蝶(はなぶさいっちょう)の《富士山図 A-510》もありました。今回の……というか、いつもどおりというか……コレクション展のテーマは山水画から近世風景画への変遷……といったところです。

もう一つ……池大雅の作品以降は、青い顔料の歴史を裏テーマにしているのかもしれません。池大雅→英一蝶→北斎・広重といった流れです。
そして、まだ始まっていませんが、広重の特別企画「内山コレクション受贈記念」の歌川広重展が9月29日から始まりますよぉ〜! ということのようでもあります。ただし、今季の浮世絵のコレクション展での作品では、広重のものより北斎の方が好みだったので、ここでは北斎の《富嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽 A-11176-4》をnoteしておきます。




■江戸期の刀剣といえは本阿弥家
本来であれば、漆器の次に書くべき刀剣ですが……詳しく語ることもできないので、最後の章として記しました。
トーハク本館の漆器・漆芸の部屋を抜けると、そこは金工と刀剣の部屋へ続きます。いうまでもなく江戸期に名刀の価値を確立し、研ぎ・鑑定・保存を代々担ってきたのが光悦の家系である本阿弥家でした。
今季のトーハクには本阿弥家の鑑定書「折り紙」付きだと解説文に明記されているものは見つかりませんでしたが、国宝の《太刀 三条宗近 名物 三日月宗近》を筆頭に、トーハクが有する名刀の数々が展示されていました。この部屋には、国宝指定の刀剣3振が同時にコレクション展に展示されるのは、それほど多くありません。また、静嘉堂文庫の国宝《手搔包永(てがいかねなが)》と同じ、手搔派の創始、手搔包永が手掛けた太刀も展示されています。

渡邊誠一郎氏寄贈

渡邊誠一郎氏寄贈

渡邊誠一郎氏寄贈




《直刀(号 水龍劍)》は、正倉院に伝来した奈良時代の直刀です。明治時代には刀剣マニアの明治天皇のもとに移されたそうです。正倉院はもともと天皇の倉庫ですから、「あの直刀を手元に置いておきたい」とご所望されたのでしょう。





■《後赤壁賦》の全文と現代語訳
赤壁賦
是歳十月之望、
歩自雪堂、将帰于
臨皋、二客従予、過
黄泥之坂、霜露既降、木
葉尽脱、人影在地、
仰見明月、顧而樂之、
行歌相答、已而歎曰、
有客無酒、有酒無肴、
月白風清、如此良夜何、
客曰、今者薄暮、挙網
得魚、巨口細鱗、状如松
江之鱸、顧安所得酒乎、
帰而謀諸婦、婦曰、我有
斗酒、蔵之久矣、以待子
不時之需、於是携酒
与魚、復遊於赤壁之
下。江流有声、断岸千
尺、山高月小、水落石
出、曽日月之幾何、而
江山不可復識矣、予乃
攝衣而上、履巉巖、披蒙
茸、踞虎豹、登虯龍、
攀棲鶻之危巣、俯
馮夷之幽宮、蓋二客
不能従焉、劃然長
嘯、草木震動、山鳴
谷応、風起水涌、予亦
悄然而悲、粛然而恐、凛
乎其不可留也、反而登
舟、放乎中流、聴其所
止而休焉。時夜将半、四
顧寂寥、適有孤鶴、横
江東来、翅如車輪、玄
裳縞衣、戛然長鳴、掠
予舟而西也、須臾客
去、予亦就睡、夢一道士、
羽衣蹁躚、過臨皋之
下、揖予而言曰、赤壁
之遊樂乎、問其姓名、俛
而不答、嗚呼、噫嘻、我
知之矣、疇昔之夜、
飛鳴而過我者、非
子也耶、道士顧笑、予
亦警寤、開戸視之、
不見其処。
以下現代語訳
是(こ)の年の十月の望(十五夜の満月)、雪堂(せつどう)から歩み出て、まさに臨皋(りんこう)へ帰ろうとしていた。二人の客が予(わたし)に従い、黄泥(こうでい)の坂を過ぎゆく。霜露(そうろ)はすでに降り、木葉(このは)はことごとく脱(お)ち尽くし、人影はくっきりと地に在り、仰げば明月が見える。周囲を顧(かえり)みて之(これ)を楽しみ、歩きながら歌い、互いに唱和した。
已(すで)にして歎(たん)じて言う。 「客は有れど酒は無く、酒は有れど肴(さかな)が無い。月は白く風は清(すがすが)しい。此の良夜(りょうや)を如何(いか)に過ごすべきか」 客が言うには、 「今しがた、薄暮(はくぼ)に網を打って魚を得ました。巨口細鱗(きょこうさいりん)、その状(かたち)は松江(しょうこう)の鱸(すずき)の如し。しかし、顧(おも)うに安(いずく)にか酒を得る所としましょうか」 家に帰り、この事を婦(つま)に謀(はか)った。婦が言うには、 「私に一斗の酒が有ります。之を蔵(かく)して久しくなります。以て子(あなた)の不時(ふじ)の需(もとめ)を待っていたのです」
是(ここ)に於て、酒と魚とを携(たずさ)え、復(ま)た赤壁の下(もと)に遊ぶ。 江流(こうりゅう)は音を立てて流れ、断岸(だんがん)は千尺も切り立っている。山は高くして月は小さく見え、水が落ちて川底の石が出(あらわ)れている。曽(かつ)てここを訪れてから日月(じつげつ)の幾何(いくばく)が過ぎたというのか。しかし、江山(こうざん)の風景は以前とはすっかり変わり、復(ま)た識(し)ることもできないほどだ。
予は乃(すなわ)ち衣(ころも)の裾を攝(かか)げて上(のぼ)り、険しい巉巖(さんがん)を履(ふ)み、生い茂る蒙茸(もうじょう)の草を披(ひら)き、虎豹(こひょう)のような奇岩に踞(きょ)し、虯龍(きゅうりょう)のような老樹に登る。棲鶻(せいこつ=ハヤブサ)の危巣(きそう)を攀(よ)じ、馮夷(ひょうい=水神)の幽宮(ゆうきゅう)を俯(ふしおが)む。 蓋(けだ)し、二人の客はこれに従うこと能(あた)わず。 劃然(かくぜん)として長く嘯(うそぶ)けば、草木は震動し、山は鳴り谷は応え、風が起りて水が涌(わ)き立つ。予も亦(ま)た悄然(しょうぜん)として悲しみ、粛然(しゅくぜん)として恐れ、凛乎(りんこ)として其処(そこ)に留(とどま)るべきではないと感じた。
反(かえ)りて舟に登り、中流へと放ち、其の舟の止まる所に聴(まか)せて休(いこ)うた。 時(とき)に夜は将(まさ)に半(なかば)になろうとし、四顧(しこ)すれば寂寥(せきりょう)としている。 適(たまたま)一羽の孤鶴(こかく)が有り、江(かわ)を横切って東から飛来した。翅(つばさ)は車輪の如く、玄裳縞衣(げんしょうこうい=黒い袴に白い衣)、戛然(かつぜん)として長鳴(ちょうめい)し、予の舟を掠(かす)めて西へと飛び去ってゆく。
須臾(しゅゆ)にして客は去り、予も亦た睡(ねむり)に就いた。 夢に一人の道士を見る。羽衣(うい)を蹁躚(へんせん=ひらひらと舞う)とさせて、臨皋(りんこう)の下を過ぎ、予に揖(ゆう=挨拶)して言った。 「赤壁の遊びは楽しかったか」 其の姓名を問うも、俛(うつむ)いて答えない。 「嗚呼(ああ)、噫嘻(ああ)、我は之を知れり。疇昔(ちゅうせき=きのう)の夜、飛び鳴いて我を過ぎし者は、子(あなた)に非(あら)ずや」 道士は顧(かえり)みて笑い、予も亦た警寤(けいご=ハッと目を覚ます)した。 戸を開いて之を視(み)るも、最早その姿は何処(いずこ)にも見えなかった。
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