美術史第98章『桃山文化の絵画と工芸-日本美術12-』

絵画の分野では城郭や寺院の内部の壁、襖、屏風、天井に金箔の上に青や緑の線で彩色する「濃絵(ダミエ)」という技法を用いた「障壁画」もとい「屏風絵」が権威の象徴や灯火では足りない明るさを補完する役割として多く描かれるようになり、題材には中国の唐獅子や龍虎などを実物大で描くことが好まれた。
また、屏風絵には濃絵の他にも水墨画で描いたものもあり、これらは濃絵の技法を用いた屏風絵は表座敷や客間など公的な場所、そして水墨画を用いた屏風絵は個人的な空間に於いて用いられるというふうに分けて描かれていたとされる。





青系統の色を用いた濃絵(金碧画)で中心となったのは狩野派と呼ばれる流派で、その中でも秀吉に仕えた狩野永徳は豊かな色彩、力強い線、雄大な構図を特徴とする新たな絵画を作り上げ、「唐獅子図屏風」「源氏物語屏風」「洛中洛外図屏風」「花鳥図」などの傑作を描いて、狩野派の全盛期を築き、永徳の弟子、狩野山楽はその様式を継承して「牡丹図」や水墨画の「松鷹図」などを描いた。



また、狩野派の躍進の一方で、以前から栄えていた土佐派は衰退、しかし、海北友松を始祖とする海北派、有名な「松林図屏風」の作者である長谷川等伯を始祖とする長谷川派、雲谷等顔を始祖とする毛利氏に仕えた雲谷派などの小さな流派は繁栄した。

また、都市の庶民の生活・風俗などを主に置いて描いた「洛中洛外図」なども風俗画もこの時期に現れており、これらの日本の風俗画の俯瞰の表現などの土台は大和絵であるといえる。
他にも、この時代には風景画では花や鳥、物のみを単体で、人物画でも高尚な人物だけでなく一般民衆も描くようになっており、風俗画は基本的に調度品で持ち運びも可能な物で、狩野派の画家により多く描かれたが狩野派が上層の画家となると町絵師に描かれるようになった。
https://assets.st-note.com/img/1733705665-oHy1TPMZ8x5rvVOt4Aa0nb2F.png 西本願寺 白書院 襖絵と欄間彫刻
彫刻の分野では仏像が衰退するとともに家の門扉への彫刻や、鴨居と天井の間に嵌め込まれた欄間などへの彫刻が盛んとなり、城郭などでの欄間への彫刻では「透彫」などの手法も用いられ、建物の外観で最も目のいく屋根の「破風」の部分にも様々な工夫や彫刻が施された。
https://assets.st-note.com/img/1733705809-Ub2zRm4PepGc6uJ1howTC5AB.png 瀬戸焼
https://assets.st-note.com/img/1733705828-lhvt9LKFRYAkP4s1zq7BXI3M.png 美濃焼
https://assets.st-note.com/img/1733705847-PE6kD5yZUGKcuLsbtCJOiRnF.png 備前焼
https://assets.st-note.com/img/1733705860-i7APRTzEZVx3lHcYehaNIJtM.png 信楽焼
https://assets.st-note.com/img/1733705886-jB9bSdYv1ZR6pwWfhtEoOqcn.png 丹波焼
https://assets.st-note.com/img/1733705919-AFE3wVC6JPIvQ5deYZz9Gb4s.png 唐津焼
https://assets.st-note.com/img/1733705958-aOr3USQ8tyPf4JZ6AkqLWDKR.png 志野焼
https://assets.st-note.com/img/1733705983-Hi6yLYhTFtMbQzU0BmKw4Ar2.png 織部焼
陶芸の分野では今まで上流階級に好まれた天目や青磁が侘茶の大流行により地味なものが好まれるようになり、釉薬を施した陶器の瀬戸焼や美濃焼、釉薬を使わない陶器の備前焼、信楽焼、丹波焼、伊賀焼、唐津焼など日本の陶器がこの時代の代表するものとなっており、美濃焼には志野焼、織部焼などが含まれた。
https://assets.st-note.com/img/1733706145-wUrkf3s05hFPlxM2gjoSu8IW.png 伊万里焼
https://assets.st-note.com/img/1733706260-RUFL8szqG5wBdHNSCZmbfvT1.png 高取焼
https://assets.st-note.com/img/1733706282-yKgATnwI5GRq3uPmBJdQiYSH.png 上野焼
https://assets.st-note.com/img/1733706322-z4G3dyELq8nKmFNSYfab1cpM.png 薩摩焼
https://assets.st-note.com/img/1733706341-TB5o0wbspnLVuSDrQjKAHWC3.png 萩焼
また、この時代には今まで日本では作れなかった高度な磁器の製作が肥前の「伊万里焼」で開始、これは肥前の磁石を原料とした磁器で中国の粘土を用いたものとは違い、この製法の開発には多くの朝鮮人の職人が関わっており、朝鮮出兵で多くの朝鮮の陶工がやってきた九州あたりでは窯業が盛んになり肥前の平戸焼、筑前の高取焼、豊前の上野焼、薩摩の薩摩焼、長門の萩焼が誕生し、各国の「御国焼」と呼ばれた。

(https://en.m.wikipedia.org/wiki/File:Fukuro_obi.JPG)



陶芸以外の工芸品では「高台寺蒔絵」に代表される蒔絵を施した装飾的な調度品が作られ、染色では明の影響から堺で唐織、金襴、紗、紋紗、緞子、縮緬などの制作が盛んに行われ、さらに、秀吉が京都の西陣織を保護したことでこちらが大きな発展を遂げ、金襴や緞子、西洋由来のビロードやサラサ模様の西陣や珍重され、さらに小袖にも精巧な刺繍が施され金箔を併用した装飾法なども生まれたが、特に絞り染めの技法を用いた「辻ヶ花」は江戸初期まで非常に流行した。

(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:Antique_Japanese_(samurai)_kawari_kabuto_with_a_ushirodate.jpg)

(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:Periodo_azuchi-momoyama,_armatura_di_tipo_gusoku,_stile_nanbando,_XVI_sec.JPG)
金属加工の分野ではポルトガルや倭寇、明の影響で鉄砲が日本に定着したことで対抗するための甲冑が強化された新型の「当世具足」に喉輪、籠手、膝甲、脛当、頬当などを装着する形が誕生、刀剣も片手持ちから両手持ちの大きなものに変化、指揮官が大軍の中で自分を認識させるための「変わり兜」なども流行した。
