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小説 : アンミカラロンド【合体版16,519文字】

第1話 : アンミカ VS ラロンド


テレビの画面の中で、きらびやかなドレスを着た女性タレントが「白って200色あんねん」と弾けるような笑顔で言った。ご存知、アンミカさんだ。


スタジオはドッと沸き、SNSにはすぐさまその言葉が溢れかえった。彼女も、司会者も、視聴者も笑った。それは、それらの笑顔を誰が配ったのかわからないくらいの素敵な事件だった。けれど、僕のひねくれた頭は、そのポジティブな感性へ素直に乗っかることをためらった。

「白が200色」

僕はその言葉を頭の中で反芻する。彼女の感性に対抗するように僕の中にある「白」のイメージが浮かぶ。

僕が思い出すのは「SPEAK WHITE(白く話せ)」という言葉だ。

いつだったか、カナダの歴史や文学について書かれた本で読んだ。かつてカナダの英語圏で、フランス語を話す人々が公の場で言葉を発したとき、支配層である英語系住民から投げつけられた侮辱の言葉。

「白人の言葉(=英語)を話せ」「文明人の言葉を話せ」という意味の、支配と抑圧が染みついた「白」。それは1960年代のケベックで、詩人ミシェル・ラロンドが怒りを込めて告発した詩のタイトルでもあった。

テレビの中の「200種類の白」は世界に広がる豊かな感性だ。

一方で、僕の頭をよぎる「白」は、他者の色を塗りつぶし、均一化を強要し、黙らせようとする色だった。

白は200色ある。

けれど、201色目には、言葉を奪うための恐ろしい「白」が隠されているのだと思えた。

僕はテレビの音を消した。静寂が部屋を満たす。これも一つの「空白」かもしれない。僕はノートを開き、自分の「白」について新しく言葉を紡ぎ始めたくなっている。


***


成田からのフライトと乗り継ぎの待ち時間は長かった。なけなしの貯金を叩いて僕が降り立ったのは、モントリオール・ピエール・エリオット・トルドー国際空港。

はっきりとしたあてはない。ただ、「SPEAK WHITE」という言葉が生まれた土地の空気を確かめてみたかった。

12月のカナダは冷えている。インナーダウンとステンカラーコートの中に身を縮めながらバスを探していると、僕の耳が日本語を捕まえた。

彼女は小さく鼻歌を歌っていた。聞き覚えのあるメロディ。アメイジング・グレイス。日本語詞だった。

「驚くばかりの めぐみなりき この身の汚れを 知れるわれに」

白い息を吐きながら石造りの壁に背を預け、大きなキャンバスに向かって絵筆を走らせている日本人がいた。ショートカットの髪、絵の具の飛び跳ねたスニーカー。年齢は二十四、五といったところだろうか。

異国の、ひんやりとした風の中で歌われる『アメイジング・グレイス』。その曲が彼女の少し低くて乾いた声に乗ると、どこかあやふやに聴こえる。

彼女と向き合うキャンバスには、うねるような巨大な針葉樹が描かれていた。鮮やかな緑ではない。深く、暗く、重たい濃緑の塊だ。

傍には絵葉書だろうか。数十枚がコルクボードに貼られている。全て5カナダドル。僕は一枚購入した。深い緑の一本の樹木の絵だ。

「サンクス、May the Queen’s breath be upon you」

サンクスのあと、冷たい風のせいで聞き取れなかった。彼女は紙幣をポケットに突っ込み、再び大きなキャンバスへと向き直る。

「木が好きなのですか?」

声をかけると、彼女は手を止めずにチラリと僕を見上げた。その瞳は、驚くほど色がないというか、すりガラスの向こう側を見つめているよう。

「違うよ」

「え?」

「気持ち悪いから描いてるの」

彼女は迷いなく言った。絵の具をナイフでキャンバスになすりつけながら。

「木って、気持ち悪くない? 土の中から外を求めて、必死に指を伸ばしてる。隣の木の邪魔をして自分自身とも競争しながらさ。意味がわかんない。それに、あの幹や枝の中には動物やら虫が山ほど住み着いてるでしょう。他人の都合で勝手に巣にされて立ってる。土の底にどんな汚いものが埋まってるかもわからないのに根を広げていくの。気持ち悪いのよ」

過剰な言葉だった。
5ドルと、少しの日本語との交換として、それはおかしかった。

「君は、それを消したくて描いてるの?」

「まさか。描いて、キャンバスの中に閉じ込めておかないと、夢に出てくるから」

彼女は鼻で笑い、絵の具のついた手で寒さに赤くなった鼻の頭をこすった。

「で? あんた誰? なんでこんなところに突っ立ってるの」

「僕は──」

本名を名乗ろうとして、一瞬口ごもる。偽名を使おうか、と迷った僕を彼女は見逃さなかった。

「あ、いいよ。面倒くさいからニックネームで呼び合おう」

彼女はキャンバスから視線を外し、僕の全身を上から下まで品定めするように眺める。

「あんたは『クーラー』ね」

「クーラー?」

「うん。なんか冷たそうだし」

苦笑いしか出なかった。

「じゃあ、君のことはなんて呼べばいい?」

「好きに呼べば。あ、そういえばこれから、ケベック・シティーの北にある森の方へ行くんだよね。樹氷を描くんだ。借りた車で。クーラー暇なら乗っていく?」

言葉を奪う「白」を求めてやってきた僕と、生命の気持ち悪さを閉じ込めるために「緑」を描く彼女。

こうして、僕たちの旅が始まった。


***


何代目かもわからない、使い古されたフォルクスワーゲン・ゴルフの白。その助手席に僕は乗っている。車窓からは、崖の上にそびえ立つシャトー・フロントナックの威容が見えていた。中世のお城のような高級ホテルだ。そういや、今日の宿はどうしようか。いや、今は彼女をどう呼ぶかの方が問題か。

「君は絵を描いて生活してる?」

「まさか。夜はバイト、朝から夕方まで絵を描いてる」

彼女はステアリングを叩きながら、気怠げに視線を前方に向けたまま答える。

「ご家族とか、ああ、別に詮索するつもりはないけど」

「日本にいるよ。飛び出してきたから、連絡とってないけど」

シフトレバーを荒っぽく叩き込み、彼女は一度、バックミラーに眼を向けた。

「兄がいるの。なんでも大丈夫な兄貴がね。だからわたしは自由でいられる」

「そう、僕は」

「なにか探しもの?」

彼女がチラリと横顔をこちらに向けた。

「いや、来てみたかっただけかな。特に目的があるわけじゃない」

「ふーん」

気のない返事が返ってくる。僕は少し考え、舌でその言葉を転がした。

「ナハトでいい? 君のあだ名、なんとなくなんだが。ドイツ語で夜だ」

「夜? ナハト? なぜドイツ?」

ナハトは吹き出した。車体がわずかに揺れるほど、彼女は肩を揺らして笑い続けた。運転が心配になるくらいに。たぶん、ここが畳の上だったらゴロゴロ転がりながら笑ったのだと思う。


***


12月初頭のケベックを甘く見ていた。本格的な冬の到来にはまだ早い、そう高をくくっていた僕たちの甘さは、突如として襲いかかった自然の白によって一瞬で砕かれた。

ナハトが笑い転げた少しあと。
突然に、視界が文字通り消えた。

世界のすべてが塗りつぶされ、上下も左右も分からない乳白色の渦──ホワイトアウト。アンミカの言う200色のどこにも属さないだろう、狂暴な白。

「──うわっ、ちょっと!?」

ナハトの軽い叫びと、急ブレーキの乾いた金属音。車体が激しく横滑りし、遠心力で視界が回転する。次の瞬間、ガガガッという鈍い衝撃とともに、白いゴルフのフロントが、雪の中にそびえ立つ巨大な樹木へ突っ込んだ。

エアバッグのビニールの臭い。

エンジンが沈黙し、車内を急速に極寒の空気が侵食してくる。運転席のドアは凹んだうえ木に挟まれて開かない。助手席のドアも雪の圧力でびくともしなかった。僕はシートベルトを外してエアバッグの前に身を乗り出した。

「まず、出ないと」

僕は助手席の足元から絵の具まみれの真鍮製筆洗バケツと、硬い油彩用のナイフの柄を掴んだ。

「ちょっと支えてて」

ナハトに腰を抑えさせる。僕はためらいなく、フロントガラスのヒビが入った一点に向けて、金属の塊を全力で叩きつけた。何度も何度も。鋭い音が狭い車内に響き渡り、網目状に亀裂が走る。最後は二人で足を揃えて思い切り蹴り飛ばすと、氷のフレームが外れ、雪風がどっと車内に雪崩れ込んできた。

這うようにして車外へ脱出した僕たちを待っていたのは、街から完全に隔離された極寒の森林だった。吹雪が肌を刺す。

「クーラー、こっち」

ナハトが指さしたのは、車が突っ込んだまさにその巨木の裏側の根本だった。落雷か樹病かで穿たれた、大人二人がすっぽり収まるほどの巨大なウロ(洞)。ナハトがあれほど「気持ち悪い」と嫌悪していた樹木の、暗く生々しい胎内のような空間。

僕たちは滑り込み、背中をぴったりと合わせるようにして座り込んだ。

寒さで指先の感覚が失われていく。僕は震える手でポケットからスマートフォンを取り出して画面を開く。

「アンテナが立たない。歩こう。電波が届くところまで、少しでも道路に戻って──」

立ち上がろうとする僕のコートの裾を、ナハトが強い力で引っ張った。

「動かない方がいい」

ナハトの声は冷静だった。吹き荒れる雪音の中で、彼女は僕の耳元まで口を寄せて低い声を鼓膜に届かせる。

「ホワイトアウトの森で歩いたら死ぬよ。体力を温存する」

「でも、ここにいたら凍死する」

「体温を落とさなければ死なない。背中、もっとくっつけて」

彼女の背中から体温が伝わってくる。彼女の言う通りだ。僕の知識やスマホの便利さは、いま、意味をなさない。

「水はあるから」

ナハトは足元に積もった綺麗な粉雪を指さした。

「あとは排泄かな」

「え?」

「尿意を我慢すると、体はそれを温めようとして無駄なエネルギーを使うの。我慢しちゃダメ。冷えるから。クーラー、恥ずかしがってる場合じゃないよ」

温度を奪う「白」の世界で、僕たちはナハトが嫌悪した「生命のウザさ」に身を寄せて生き延びようとしていた。


***


ナハト、ここでは夜のこと。

「すまない。僕がナハトなんて言って、笑わせてしまったのがいけなかったかもしれない」

「クーラー、あんた頭悪いの? それとも冗談?」

背中越しに振動が伝わってくる。苦笑だ。

「寝たら死ぬって聞くよ」

「体温だよ。眠ったって体温を奪われなければ平気」

彼女の落ち着いた声が、吹雪の音を押し返した。

「眠らないに越したことはない」

僕はウロの奥に向かって応えた。そうすれば声は届きやすい。震えを隠すために、あえて滑舌よく応えた。

「話すのはいいよ。カロリー消費するけど、メリットの方が多い」

ナハトはそう言った。暗闇の中で、彼女の白い息が風に流されて僕の頬を掠める。

「白は200色あるって本当? 君は画家だから知ってるんじゃない?」

「はあ? 200? 白は白よ。何も塗られていない白」

心底呆れたような声が、冷えた闇に溶ける。

「SPEAK WHITEって知ってる?」

「人種差別でしょ。最悪の気持ち悪さ。いつか絵に描いてやるわ」

「芸術家はそんな風に考えるんだ」

「みんなそんな風に考えてると思うけど?」

彼女はそっけなく答えて、僕の背中にグッと体重をあずけてきた。

「そうかな」

「知らない」

会話が途切れ、木を打つ雪の音だけがウロに響く。

「バイトって何やってんの?」

「ウェイトレスとかハウスキープとか色々」

「絵を描けることを活かせばいいのに」

「まさか。そんな最悪なことできるわけないでしょう?」

きっぱりと言い捨てられた。

「怖くないの? 若い女性が一人で外国で」

風の隙間を縫うように問いかけると、彼女は少しだけ僕の方へ首を動かした。

「画家は眼がいいの。悪い奴は見ればわかる。だいたいね」



僕とナハトは話を続けた。ときどき、どちらの順番かわからなくなって、会話は白くなった。その度に僕が慌てて空白を埋めた。腕と手を背中に回して挟んで温めた。寒い。小便がしたいと言った。タイミングを合わせてその辺で用を足す。寒すぎて尿を出すにも苦労した。早くウロの中に戻りたい。戻ると、ナハトは少し遅れてやってきた。もう、話の種もない。

「驚くばかりの めぐみなりき この身の汚れを 知れるわれに」

「恵みはわが身の 恐れを消し 任する心を おこさせたり」

「危険をも罠をも 避け得たるは 恵みの御業と いうほかなし」

先がわからない。

「次は?」

「忘れた。英語でいいよ」

「Amazing grace how sweet the sound」

「That saved a wretch like me」

心底バカらしいと思った。なにが恵みだ。なにが私のような咎人を救っただ。目の前は白い、気持ちの悪い、信じられないほど気持ちの悪い、冷たい世界が広がっているだけだった。


***


ナハト、ここではまだ夜のこと。

風は静かさを増していく。雪は癇癪をやめていく。

そこに薄日が差す前に、僕たちは脚を念入りに擦った。歩かなければいけない。歩けるだろうか。

「エアコン、大丈夫だよ。除雪車が来るはずなんだ。それほど歩かなくても平気」

「エアコン?」

「クーラーから格上げ。縁起悪いしね」

僕たちはウロから出て、大破した白いゴルフを眺めた。

「画材、けっこう高価なんだ。出せるかな」

「出せるよ。救助隊に甘えよう」

「悪かったね。わたしがエアコンを誘ったから」

「一泊分の宿代が浮いたよ。ああ? 救助とか車とか、もしかして、金かかるか?」

二人は笑った。白い息が光る。ダイヤモンドダストというやつか?

「200色って言った人、誰だっけ?」

「アンミカさん。モデルさんだよ」

「その人、きっといい人だよ。画家の勘」

再び、白い息が光る。会ったことあるのかよ。ここが畳のうえだったら、転げ回っていたと僕は思う。




第2話 : そんなことが可能なのか


信じられない。
そんなことが可能なのか。

僕の傍らには、専用のプライヤーとリンゴほどの大きさをした鉄の金型がある。そして、プラスチックの洗濯バサミのようなもの3000個がダンボールに入れられたところだ。これが家賃になる。

どこから書けばいいか。できるだけ早く書かなければいけないが、まず、事実と結果を記すべきと思う。僕はカナダへ赴き、ケベック・シティで画家の日本人女性と出会った。僕とナハト(彼女のニックネームだ)は自動車の自損事故を起こして吹雪の森で野宿をする羽目になった。明けた朝に救助された。これが事実だ。

結果は、まず金の話だ。

全損したフォルクス・ワーゲン、ゴルフはナハトが友人に借りたものだった。無保険。7000カナダドルを二人で折半した。レッカー費、救助費用など5000カナダドル、これも折半。軽い凍傷の治療に300カナダドル。計66万円。帰国費用を考えるとキャッシングが僕の視野に入る。貯金が尽きる。もう金がない。

12月初頭のケベック・シティ郊外。一階は工場だ。「こうば」の方。僕はその二階にあるナハトの居室にいる。油絵の具の匂いには慣れてきた。イーゼルと対になるスツールを除くと、座れるところは僕の身長より200mmほど短い古ソファーだけ。この部屋には鏡が一枚もない。無駄に広い部屋だが(元々は二部屋だったのをぶち抜いたそうだ)、セントラルヒーティングのおかげであの晩のように凍えることはない。排泄にも風呂にも困らない。共同バスルームがある。共同といっても、僕とナハトの二人が使うだけだが。

まず、洗濯バサミが家賃なんだ。

一カ月の家賃として1万個を内職で組み上げて工場へ納入すること。ナハトと工場主との間で交わされた契約だそうだ。1個あたり0.005カナダドル。1万個つくってようやく50ドル。家賃としては破格だ。こんなことが可能なのか。

「その人と結婚してるの。形だけ」

ナハトはパレットナイフを動かしながら、事も無げに言った。
ナハトは人妻だった。

工場の主人? オーナーが彼女の夫だった。彼はことし古希だそうだ。カナダ人だけど。Permanent Resident Card、永住権カードの取得のためだけにした形だけの結婚。双方ともサイン入りの離婚合意書を持っているそうだ。何か覚え書きのような紙も付随しているらしい。とにかく、ナハトはいつでも彼女だけの意思で古希の彼と離婚できる。なんなんだそれ、そんなことが可能なのか。信じられない。

「結婚する前に一回だけ彼と寝た。これも契約」

「エアコンは? 一人者?」

エアコンとは僕のことだ。彼女が僕につけたニックネームだ。僕は今月に33歳になる成人日本人男性だ。僕は二千数十個目の洗濯バサミを組み立てながら彼女の話を聞かされていた。なんでも、果物だか野菜だかのツルだか実だかをクリップするためのものらしい。あ、洗濯バサミのこと。屋外で使用されプラスチックが朽ちてしまうために一定の需要が発生し続けているらしい。信じられない。こんな洗濯バサミなんか大量オートメーションで一挙に作れるだろうに。なんで手工業なんだ。

「エアコン! あんたに聞いてんのよ」

あのなあ。なんでそんなに変にあけすけなんだよ。ナハトはペラペラと聞いてもいない身の上話を続ける。イーゼルに向かい、パレットに新たな色を作りながら。

「独身だよ。僕は」

「あっ、ああそう。ひひひ。誰かと話しながら絵を描くなんて久しぶりで楽しくてさ。ああ、そう。エアコンあんた独身なんだ。だろうね、うん。納得だよ」

寝た? 70の老人と? いや、いつからナハトはここにいるんだ? 専用のプライヤーでバネリングを広げ、プラスチックのハサミに嵌め込む。一個の完成に最初は6秒かかっていた。だが、無駄なストロークを削ぎ落とすうちに、5秒に1個──0.2個/秒のペースを掴み始める。1分で12個、1時間で750個。僕は午後1時から一心不乱にそれを続けている。ナハトは絵を描き続ける。こんなことが可能なのか? 僕の頭はぐちゃぐちゃになっている。野宿の帰りに僕たちは病院に寄って凍傷の治療をした。そのときナハトの身分証明書がチラリと見えた。生年月日、彼女は1990年生まれで間違いない。36歳。僕より3つ年上の人妻が、からからと笑いながら話を続ける。

「ところで、エアコンって何歳なの? あ、待ってわたしが当ててやる。あんた子供みたいな顔してるよね」

君に言われたくない。どう見たってナハトは20代に見えた。下手すりゃハイティーンでも通用するんじゃないか。信じられない。僕は3000個目の洗濯バサミに手を伸ばして、遠くなっていく現実とそれとを手に取った。とにかく僕には金がない。金を稼がなければならない。目標は一人で2万、いや3万個だ。

こうして、僕たちの生活が始まった。


***


ナハトの夫は入院していた。

名はクリストフ・パプティスマ。クリスと呼ばれている。とても人懐こい表情をする老人だった。ナハトが事情を説明する。

「クリス。そんなわけで、こいつを二階に住まわせてる。男手があって助かってるの」

老人はにこやかに頷いた。




第3話 : 金はないし絵は未完成


僕はカナダのケベック・シティを訪れている。旅のつもりだったが働く羽目になった。ビザ的に大丈夫なのだろうか。郊外の工場の二階に寝床を得て、洗濯バサミ作りの内職をしている。僕は自分の銀行口座のことを何度か繰り返し考える。

正確には、口座には十数万円が残されている。しかし、賃貸アパートの家賃(もちろん日本の)、電気水道通信費、諸々のサブスク等を考えると一切手をつけられない。僕は借金を恐れていた。

コートの内ポケットには5カナダドル紙幣が一枚ある。洗濯バサミ一個0.5セント1000個分だ。

今朝、洗濯バサミ11000個の内職を終えた僕は二階居室と一階工場との間をダンボールを抱えて往復した。工場(「こうば」だ)のパートのおばちゃんは「お前が責任をとれ。数の違いやそのほかのトラブルが発覚したら」と僕に言って、家賃の差額の紙幣をその辺に置いた。

僕は数え間違えてはいないだろうかと不安になった。

12月のケベック。十数万五百円。帰りのチケットはなんとか買えるはず。日本に帰った方が良いかもしれない。そもそも僕は何をしにきたのだっけ。

ふらふらと歩を進める。この辺にいるはずだ。

いた。ナハトだ。彼女は絵を描いている。

そのキャンバスには相変わらず樹木が濃い緑で描かれている。それはほとんど黒色に見えた。

「今月の家賃、払ったよ」

「サンクス、May the Queen’s breath be upon you」

ダメだ。まだ、帰れない。僕はこの日本人画家に何かを奪われたままだ。いや、なにかを借りている気もする。それらを返して貰うか返すまでは帰れないと僕は思った。

「ランチ行こう」

彼女はナイフを置いて、手早く片付けを始めた。イーゼルは畳まれてキャンバスは絵の具を外にして背負われる。のこりの道具は綺麗にボストンバッグに吸い込まれた。僕はそのバッグを担ぐ。

「ファイブダラーしかないんだ」

「んじゃパンと水ね」

僕たちはベンチに腰掛けた。荷物を足元に置いてパンをかじる。

「しけた面しないでよ、エアコン。雑巾に格下げするよ」

エアコン。彼女は僕をそう呼ぶ。僕は彼女をナハトと呼ぶ。ナハトとはドイツ語で夜のこと。まあ、それはともかく、とにかく雑巾に格下げされたらたまらない。僕は固いパンを嚥下して元気よくナハトへ応えた。

「うまい! うまいなこのパン!」

「雑巾さあ。まあ、別にいいけど」

金がない。タクシーはもちろんバスにも乗れない。僕の世界は極端に狭まった。なんの因果かカナダのケベックで徒歩の範囲に狭まった。歩いて工場の二階へ帰った。この場合、警戒すべきは病気と怪我だ。治療に金がかかるから。そういえば、ナハトの形だけの夫、クリスの入院にはいくらぐらい費用がかかっているのだろうか。僕は念入りにうがいをして、内職に取り掛かる。雑巾にできることをやろう。

1時間で750個。洗濯バサミ一個で0.005だから3.75カナダドルは日本円で時給410円。速度は0.2個/secを超えてきた。僕は研ぎ澄まされている。僕よりも速く洗濯バサミを作れる奴がいるだろうか。いるかもしれない。しかし、そいつにもすぐに追いつける気がする。僕は0.3個/secを追い越すだろう。

指がプライヤーと一体になってきた。鉄の金型は僕の一部になってきた。洗濯バサミは僕の吐く息になってきた。僕は洗濯バサミ内職の達人だ。

思考もつられて研ぎ澄まされていく。

この部屋はアトリエだ。ナハトのアトリエだ。

ナハトのベッドがある。このベッドで古希の老人と寝たのだろうか。僕の寝床がある。このソファーは僕以外と寝ただろうか。それらの問いに答えはない。カセット式のガスコンロが床に置いてある。おそらく数年は使用されている。ナハトのイーゼルもそのくらいの年輪かもしれない。

3、4年。長くても5年。この部屋で、おそらくは一人で(食器類が最少だ)過ごしてきたのだ、彼女は。

ナハトを感じる。
洗濯バサミは751個。

元々は二つの部屋だった。
それをぶち抜いて一つの部屋にした。
その理由が、これだ。

たたみ三畳ほどの大きなキャンバス。それが壁にもたれかかっている。描かれているのは一本の樹木。しかし、枝は腕だ。葉は指だ。暗い幹から無数の腕が、細い腕から無数の指が、外気を、あるいは光を求めて伸びている。凄まじい絵だと僕は思う。ナハトは「描きかけ」と言っていた。

大地から根が飛び出している。いや、まるでキャンバスから飛び出しているみたいだ。これは絡まったスパゲッティか。そういや、スパゲッティの神の存在を聞いたことがある。

洗濯バサミは755個。
プライヤーを握る右手。プラスチックを金型へ供える左手。いや、僕の両手は触手なんだ。洗濯バサミ職人のスパゲッティなんだ。バネを挟み、バチンとハメる。0.2秒の快感。僕は人間ではない。エアコンですらない。雑巾だ。ナハトのアトリエの床を拭い、彼女の生活の匂いを吸い取る、湿った一枚の雑巾。

僕は雑巾だ。雑巾でこの部屋を拭いて行く。
ナハトの気配を吸い取りながら。

3600個。18カナダドル。
これで明日は栄養のあるものを食べよう。風邪をひいてる場合じゃない。

ナハト、僕は君に借りがある。大袈裟だが、命の借りがある。それを返すことができるだろうか。君が帰ってくるまで3時間はあるはずだ。5400個の洗濯バサミは27カナダドル。明日は、ましなランチぐらい奢らせてくれ。




第4話 : 彼の笑顔が嫌い


電話は嫌い。どうせろくなニュースじゃない。朝に鳴る電話なんか特に出たくない。

クリスの容体が悪く、会いに来いという病院からの指令だった。わたしは形だけとはいえ彼の配偶者。配偶者に下される指令を無視するわけにはいかない。

お金、ないのに。

エアコンはダンボールを抱えて一階に向かった。何往復するんだろ。手伝おうかと思ったけど、なんか楽しそうだから邪魔しない。彼を見てるのは面白かった。

ダウンタウンまでいくらかかるのだっけ。バス代。いっそ歩いて行こうかと考えていた。するとエアコンが近づいてきて、花束を渡すようにそれをわたしに差し出した。150カナダドル。紙幣の花束。

***

クリスとエアコンは似たところもあった。バスに揺られながらわたしは過去を思い出している。表情の癖がない二人の顔を。

たいていの大人は、感情の癖が顔に描かれる。

いつも笑っている人は笑い顔になる。
いつも怒ってる人は怒り顔になる。

感情が顔に刻まれる。

昔のクリスにはそれがなかった。昔と言っても4年ほど前だけど。

笑いにも怒りにも悲しみにも寄らない顔。感情のどれにも属さないのに、それらにすぐに駆け出せるようなスタートラインの表情。たまに、一千人に一人くらいかな、そんな顔の人がいる。わたしは隣に座って景色を眺めているエアコンの横顔をのぞいた。

そう、この顔だ。
なんだろうな。イルカの顔に近いのかな。
クリスもかつてはそうだった。

でも、入院生活が長くなるにつれ、彼の顔は変わっていった。

笑顔に。

わたしはあの顔が嫌いだった。何も楽しいことなどないのに、何も面白いことなどないのに笑っている顔が嫌だった。

これからまた、クリスのその顔を見ると思うと、憂鬱だった。

エアコンには付いて来てもらうようわたしがねだった。悪いね、エアコン。また、あんたを巻き込んでしまうかもしれない。


***

病室の前で待っていると伝えると、ナハトは僕のコートの裾を強く引っ張った。あの巨木のウロに入ったことを思い出す。その日、目の前は雪で白かった。ウロの中で過ごした夜は暗かった。病室の中に滑り込むと、静かな白い部屋の中に老人が一人きりでいる。とても狭い一人部屋だった。




第5話 : 涙のあとにおこること


ナハトは語気を強める。

「それは契約に違反してる」

彼女の形だけの夫、クリストフ・パプティスマはベッドに横になったまま「弁護士」という単語を口にしたと思う。僕はネイティブの英語の速さについていけないことが、しばしばある。

クリスの命は長くはないようだ。そして彼は工場(こうば)の主だ。彼は形式のうえで妻であるナハトに工場を譲ると言ってきた。

セクレタリー、ロウヤー、リーガル。その辺が問題ないと彼は言った。人懐こい笑顔で「問題がない」と繰り返した。それは病を振り切るように強く語られた。場違いな僕はその強調に押されてここから出ていかなくてはいけないと思ったが、足がすくんで動かなかった。

ナハトは彼の申し出を繰り返し拒否した。彼女は工場の主になる気がないと言った。まあ、それはそうだろう。ナハトには似合わないと僕も思う。洗濯バサミ工場のオーナー、兼、画家ナハト。二人には悪いが、想像したら少し面白かった。

「死にゆく者の最後の頼みだ」
「契約に反するのは承知している。お願いだ」

ベッドに横たわった老人は「hope」と言った。デザイアと言った。少しあとにウイッシュとも言った。願いにもさまざまな言い方がある。僕は少し落ち着いてそれらを聴いていた。

「わたしでなく従業員の誰かに譲ればいい」

「信頼できるのはミホ、君だけなんだ」

ナハトの本名はミホというらしい。そこまで言うなら譲ってもらえばいいと僕は思った。早めにこの取引を終わらせた方がいい。譲ってもらってから売ってしまえばいいとナハトに言おうとするが、僕の喉が岩みたいに重かった。何が問題なのだろう。

「それは契約違反よ」

ナハトは繰り返した。

クリスは「wish」と「pray」を増やしていく。彼の顔から笑顔が消えて、涙が流れ出した。願いは懇願に代わったのだ。可哀想な彼に僕は同情した。

「契約違反」
ナハトは繰り返す。

「ミホ、私には君しかいないんだ」
老人は繰り返す。

老人は「あの工場は私のたった一人の息子なのだ」と涙した。僕はそうなのかと思った。古い小さな工場だ。僕はその二階を仮の寝床にさせてもらっている。自分までその「息子」の背に乗っかっているような気がして、自然と申し訳なく思えた。噛み合わぬ問答が続いて、疲れを癒すハーフタイムのような空白があった。あとに続いた彼女の動作は自然だった。

ナハトは、僕の背後に隠れた。

その瞬間

老人は怒った。


「ミホ! You owe me!」「Pay me back!」

「You are an ungrateful traitor! and God will not forgive you!」

「You ungrateful piece of trash!」

トレイター、裏切り者という意味だ。そのあと彼は「ネズミ」と言った。スラングと思う。トレイター、ターンコート。真っ黒い怒号と共にそれらの言葉が僕を襲った。ビッチとも彼は言った。ナハトは日本語で小さく「助けて」と僕に通信を送る。僕はなおも言葉を浴びせようとする老人からあとずさり、ナハトを背中で押すようにして病室を後にした。

軽いドアを閉める間際、それが叩きつけられた。

「SPEAK WHITE!」





第6話 : 契約


「今後、関わりを持たない」

それが、わたしたちの交わした契約。

わたしがケベックに来たのは、今から4年前のこと。絵は売れず、貯金は底をついた。日本大使館に頼って母国に帰ること、その手立てを考え始めたとき、わたしはクリスに出会った。

わたしが31才、彼は66才。彼はわたしの身の上を熱心に、でも、軽く聞いてくれたんだ。本当だよ。

彼は、よく切れるペーパーナイフのような提案を、導きを、恵みを、わたしにくれたんだ。形だけの結婚、PRカードというただの紙と、内職と交換の暖かいベッド。わたしは彼に深くお礼を言った。クリスは「いい絵が描けることを願っている」と言った。わたしは幸福のなかで自分の絵に没頭した。



ある夜のこと。
工場の隅で彼は一人で泣いていた。

理由をわたしは聞かなかった。近づいていって隣に座る。何かできることはないかと考えて、わたしは歌うことにした。讃美歌『アメイジング・グレイス』あえて日本語の歌詞で。


「驚くばかりの めぐみなりき この身の汚れを 知れるわれに」


クリスは子供のように泣いている。

彼はわたしの手を握り、少しの間、咳をして、鼻水をすする。だいぶ間が空いて、彼はわたしを抱きしめた。わたしは彼の背と薄くなった頭髪を撫でた。少しの間がまた空いた。



わたしたちは抱き合ったまま立ち上がった。
彼が勃起しているのが、わたしにはわかった。
わたしは少しあきらめた。

彼がわたしの手を引いて、二階へ上がって行こうとする。それは、何かが終わりを告げるラッパの順列だった。一つのラッパがなり、二つ目のラッパがなる。三つ四つと階段をあがる。六つのラッパが鳴ったあと、わたしは条件を突きつけた。

「それが終わったら、関わり合いをもたない。わたしたちは互いに踏み込まない。神に誓って約束して。その御前で、わたしと契約して」

彼はわたしの眼を見つめて、少し悲しそうに頷いた。わたしはクリス・パプティスマとベッドを共にした。わたしは彼が眠りに落ちたのを見届けて、朝の街を散歩した。7つのラッパが鳴った後なのに、街は何も変わってはいない。天国でも地獄でもないケベックの街は、昨日をただ、繰り返す。わたしは自分のために歌を歌った。





第7話 : レッツ野宿アンドゴー


病院をあとにして、僕はナハトを誘う。

「ちょうどいい時間だし、ランチを──」

「野宿しよう」

遮られた。野宿?

「レンタカー借りるよ。それで、北に走らせる」

どういう? もしかしてアレか。思わずツッコミを入れそうになるがタイミングを外した。病院を出て僕たちは近くのレンタルカーカウンターに赴いた。フォルクス・ワーゲン、ゴルフはなかった。僕は心底ほっとした。代わりに僕らが選んだのはホンダ、アコード。数年前に発売された新型でカッコいい。特に色が気に入った。赤だ。少しだけくすんだワインレッド。これなら雪に埋もれないかもしれない。ナハトは運転席に乗り込んだ。

十二分に凍えるケベック・シティのさらに北へ、ホンダ・アコードを走らせる。

助手席からは高級ホテル、シャトー・フロントナックの威容が見える。今日の宿は野宿か。いや、せめて車中泊というわけにはいかないだろうか。凍傷はもうごめんだ。

ナハトはまっすぐ前を向いている。この辺で僕が笑わせたのだっけと思い出が僕をノックする。あのとき、僕はなぜ彼女に「ナハト」と名付けたのだろう。なんだそのセンスは。少し恥ずかしくなって、恥ずかしくなっている自分に失笑した。

そうして見えてくる。
忘れるはずもない。あの巨木だ。

道路からも見えるほどの巨大な樹木は森を従える王とも思えた。僕は方角を確かめた。直近に車を停めれば徒歩400mといったところか。案外に近い。

ナハトは路肩に車を停めた。雪はそれなりに積もっている。ただ、木々の下を通れば行きやすそうだ。僕たちは歩みを進められる。

彼女の夫が病室で発した「SPEAK WHITE」。聞き間違えかもしれないと思った。目の前の白い景色が静かすぎて、色の繋がりがわからなくなる。僕がそんなことを考えていると、後ろでどさりと音がした。ナハトが尻もちをついている。僕が右手を差し出すと、その手を掴まれて強く雪床に引っ張られた。僕は転ばなかった。よろけて、片膝をつく形になった。

子供かよ。ナハトを起こして、雪にまみれた自分の膝を払いながらそう思った。声に出てしまったかもしれない。比較的今日は暖かくて、マイナス3、4度の森の中で、なぜか僕の喉は軽かったから。ナハトは立ったまま、なぜか不満そうにしてじっと僕の手元を見ていた。

一歩ずつの歩みを繰り返して、僕らはあのウロの前まで来た。

まだ、午後3時くらい。低い日の光でもそのウロの奥までは届かない。それは吸い込まれそうな穴に見えた。僕たちはその穴に落ちてみる。あの日のように背中を合わせた。「あのときは大変だったなあ」としみじみと思う。ナハトは何を考えているのだろう。さっきからほとんど喋っていない。

「やっぱ、帰ろう」

ナハトはそう言って立ち上がろうとする。ごつん、とウロの天井に頭をぶつけた鈍い音がした。痛そうだ。僕は腰を曲げたままそろそろと穴から出た。振り返るとナハトはしゃがみ込み頭を抱えて震えていた。彼女から、まるで僕が悪いとでも言いたげな非難のこもった下から目線を一度だけ受け取った。かなり痛かったのだと思う。

ホンダ・アコードまで400m。彼女は喋らない。なんだろう。いつもより慎重に、まるで頭の中の水をこぼさないようにして歩いている。きっと、さっき転んだり頭をぶつけたので慎重にしているんだろう。

僕はアコードの助手席に乗り込むとドアをバタンと閉めた。するとナハトは苛立った声を出した。

「強すぎる。ドアは静かに閉めて」
「あと、帰るまで話しかけないで」

なんだろう。八つ当たりかな。身に覚えのない怒りを向けられている。まあ、いい。泣かれるよりずっといい。人はたぶん、元気がないと怒らない。元気があればなんとかなる。誰かがそう言っていたはずだ。




最終話 : アンミカラロンド


アトリエの壁にもたれた三畳ほどの大きなキャンバス。ナハトはそれを睨みつけている。

僕らは工場の二階に帰ってきた。

そこに描かれているのは一本の針葉樹。しかし枝は腕、葉は手と指だ。外を求めて伸ばされる無数の腕と手と指は、率直に言って気味が悪い。ナハトはこの絵が未完成だと言っていた。


わたしはこの木にウロを描く。それは決定しているの。あの病室の恐ろしさと、エアコンと明かした夜の冷たさ、それと、今日わかった──なにがわかった? わたしはそれを忘れないようにここに運んだつもりでいる。忘れてはいない。そのはず。

パレットに色を作る。まずそこから。

赤はいる。あの赤はどう作る?
青もいるはず。どの青?
影もいる。そして引くんだ。なにを、どう引く?


僕はナハトの背中をぼんやりと眺めている。彼女はアトリエに帰るなりオーバーオールに着替えてキャンバスを睨みだした。水と食料を買い込んでレンタカー代を払ったら140カナダドルが吹っ飛んだ。少し豪勢なランチでもと思っていたのに、金は計画とは異なるものと交換されてしまった。まあ、いいか。僕は洗濯バサミ内職の達人だ。寝る前に12000個は作れるだろう。


大丈夫。心配ない。わかっているのは間違いない。

ナイフが知っている。最初の一振りはここだ。あのフロントガラスを割るように。間違いようがない。わたしはそれを叩きつけた。次の色と場所が自動的に浮かぶ。わたしにはあの暗いウロがわかる。生命の黒と白がなんなのかが手に取るようにわかっている。わたしはここまでそれを運んできたのだから。


僕が洗濯バサミ内職に取り掛かろうとしてプライヤーを手に取ると、そのわずかな音に反応して、ナハトが振り向いて叫んだ。

「うるさい!」
「わたしの絵の邪魔をしないで!」

さすがに頭にきた!

なんなんだよさっきから。あの病室のことなら、わからないよそもそも。ナハトと彼の関係がわからないんだよ。僕に話して気が済むなら話してくれ。話せないのなら黙っていればいい。なにをさっきからケンケンしてるんだよ、ナハトよ。女性特有のアレならすまないけど、僕は洗濯バサミを作るくらいしか能がないんだ。できるだけ静かにはするけれども、なんならバスルームでやるけれど、居候だから。いいよバスルームに持っていくから。なにかあったら呼んでください。

「違う!エアコン!なにか話して」
「わたしに話しかけて。たぶんそれだ」

「なにかって何を」

「早く洗濯バサミ作ってよ」

僕の頭の中はぐちゃぐちゃになった。「白は200色あんねん」アンミカさんの言葉がフラッシュバックした。全ての始まりはここだった。彼女のせいで僕はカナダで洗濯バサミを……。いや、それはおかしい。ミシェル・ラロンドの詩「SPEAK WHITE」が発表されたのは1968年だ。それを始まりと捉えるべきだ。彼女のせいで貯金が死んで僕は洗濯バサミを……。

内職用にこしらえられた、専用のプライヤーを僕は軽く握る。プライヤーだ。ペンチに似ていると書けば伝わるだろうか。それでバネを掴むんだ。

このプライヤーは僕の6本目の指だ。おそらく、おそらくもなにも、日本に帰ったらなんの役にも立ちようがない身体に染みついた僕の技能。「僕より速く洗濯バサミを作れる奴が世界にいるのか」。僕はそう独りごちて内職を始める。「時給750円はとうにクリアした」。ナハトに伝わっているだろうか。この凄みが。

「ナハトも洗濯バサミを作っていたんだろう?」

「水曜日を内職の日と決めてたよ」

「一時間に何個作れる?」

「数えたことない。アホらしくてつまんないもん」

「喧嘩を売ってるのか」

「違う! 褒めてるんだよ!」

わたしはウロの色を決めた。ウロの色がわたしを通して絵の具を選んだ。それを掬った絵筆を滑らす。思い通りの筆致が重なっていく。あ、まさにこの色だよ。嬉しい。────ダメだ、気分が浮かれすぎている。こんな気持ちを重ねてはいけない。色と筆に聞かないといけない。どんな気分がいいの? どんな感情が欲しいの? 耳を澄まして彼女たちの声を聴くときだ。

「今のを『褒め』と受け取る人間はいない」

「うるさい!ちょっと黙ってて!」

僕は僕の6本目の指を床に叩きつけた。ガツンと嫌な音がアトリエに響いて、それが跳ねた。僕の内職がアホらしいだと? 言っていいことと悪いことがある。その内職のおかげでレンタカーだって借りられたんだ。なのに「やっぱり、帰ろう」ってなんなんだよ! 内職のおかげで食料だって買えた。本当は健康的なランチでもと思っていたのに。金が僕たちには無いんだ。いま、病気にでもなったらどうするつもりなんだ。ナハト、いま、君が治療に金のかかる病気にでもなったら……


「泣かないでよ、エアコン」

彼女はつぶやいた。筆と眼はキャンバスに向いたまま。
僕は涙をぬぐった。

「でもいいよ、この感情だ。これを描けたら完成する。完成させられる。エアコン! そのままわたしのために泣いて! それがいま、まさに欲しいんだよ!」

彼女の絵はもう少しで完成する。





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