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ボルボックス博士の多細胞的「次の一冊」の選び方

はじめに

こんにちは、浜地です。多細胞生物がどうやって進化したかを研究しています。

読書は楽しいですね。

一冊読み終えるのも楽しいですが、その次に読む本を探すのも、実は同じくらい楽しい。
いや、場合によっては、次の本をどう選ぶか考えている時間のほうが面白いことすらあります。

「次の本をどう選ぶと面白いだろうか?」と考えたことはないでしょうか。

半年前に、ダン・ブラウンの『オリジン』という小説を読みました。
これは「オリジン」(起源)が、明らかに『種の起源』(Origin of Species)を指すように進化に絡む話でした。
しかしそれだけではなく、(ダン・ブラウンの作品はいつもそうですが)藝術やヨーロッパの歴史や宗教、最新テクノロジーの交錯するジェットコースターでもあり、ミステリーでもありました。
実際、とても面白くて、一気に読み切ってしまいました。

次にどの本を読もうかと考えたとき、一瞬、ダン・ブラウンの他の作品をそのまま掘っていく案が頭に浮かびました。
同じ著者を続けて読む。これは自然です。外れにくい。

でも、そのとき私が選んだのは、テッド・チャンの『息吹』でした。

そして、これも文句なく面白かったのです。

ある本を読んで、次の本も楽しむ。
味をしめると、繰り返したくなる。
そのうち、これは方法論にできるのではないか、と思いはじめる。

こういう感覚、ありませんか。私はあります。

今日は、その話をしてみたい。
ある本を読んだあと、次の一冊をどう選ぶか。

あなたの読書生活が豊かになる一助になれば幸いです。


次の一冊は、単なる続きではない

読書のあと、次に何を読むかを決めるとき、多くの人はまず近いものを探します。

同じ著者。
同じジャンル。
同じテーマ。
同じ棚。

これはもちろん正しい選び方です。
面白かったものの近くには、だいたい次の面白さがあります。

ただ、ここには一つがあります。

近い本だけを選んでいると、読書体験は安定しますが、意外と世界は広がりません。
言い換えると、読んだ本の余韻を延長することはできても、思考の地形そのものはあまり変わりません。

逆に、遠すぎる本に飛ぶとどうなるか。
今度はせっかく立ち上がった問題意識や興奮が切れてしまいます。
読書の連鎖が起こらない。

だから大事なのは、次の一冊を、単なる続編として選ぶことでも、完全な気分転換として選ぶことでもありません。
前の本とのあいだに、ちょうどよい関係を持った本を選ぶことです。

ここで少し生物の比喩を使います。

多細胞生物の面白さは、細胞が全部が同じではないことにあります。
神経細胞は神経細胞の仕事をし、筋肉細胞は筋肉細胞の仕事をし、上皮細胞は上皮細胞の仕事をする。
それぞれは違う。けれどバラバラでもない。つながっている。
これを分化といいます。

読書も同じです。

一冊一冊が、全部同じ役割を持っていてはつまらない。
しかし、何の関係もなく散らばっていても、ただの雑多な摂取になってしまう。

次の一冊とは、前の一冊とちょうどよく分化し、ちょうどよく接続された一冊である。
有機的で三次元的な身体が立ち上がる。
これが私の考える、多細胞的な読書です。

本と本のあいだには、いくつもの軸がある

本を読んだあと、次に何を読むか。
このとき私たちは無意識に、いくつもののうえで次の本を選んでいます。

抽象か具体か。
疎結合か密結合か。
賛成か反対か。
前史か後日談か。
上位プロセスか下位要素か。

つまり、次の一冊は一本の線のうえで選ばれるのではなく、多次元空間の中で選ばれているわけです。

これは少し大げさに聞こえるかもしれませんが、実際そうです。

たとえば、ある哲学書を読んだあとに哲学者の伝記を読むのは、抽象から具体への移動です。
ある概説書(平井靖史『世界は時間でできている』)のあとに原典(ベルクソン『物質と記憶』)を読むのは、下流から上流、あるいは周縁からコアへの移動です。
ある主張に強く納得したあとに反対派の本を読むのは、意見の順逆をひっくり返す移動です。
ある理論の形成史をたどるのは時間的に前へ行くことであり、その理論がどんな影響を与えたかを見るのは時間的に後ろへ行くことです。

私はこれを、読書の細胞分化と呼びたいくらいです。
次の一冊は、前の一冊と同じ細胞にならなくていい。
むしろ違う役割を持っていたほうが、全体として強い読書体験になる。

以下、いくつかの軸を順に見ていきます。

1. 抽象から具体へ、具体から抽象へ

これはかなり使いやすい軸です。

たとえば、進化論の概説書(佐倉統『進化論という考えかた』)を読んだあと、具体的な生物群のケーススタディ(『眼の誕生』)を読む。
あるいは逆に、具体的な歴史や事件や事例を読んだあと、その背後の構造を説明する理論書に行く。

抽象とは、個別のものごとを貫くパターンのことです。
具体とは、そのパターンが実際にどう現れるかという現場のことです。

抽象だけ読んでいると、頭はよく回るようになりますが、現実の手触りが失われます。
何でも説明できる気になる反面、何もつかめていない状態にもなりやすい。
逆に具体だけ読んでいると、面白い話はたくさん手に入るのですが、それらのあいだのつながりが見えにくい。

だから、抽象と具体は往復したほうがよい。

読書が強くなるのは、この往復運動が生まれたときです。
理論が事例に降り、事例が理論を押し返す。
この往復があると、読書は単なる知識の蓄積ではなく、思考の循環になります。

2. 密結合の本と、疎結合の本

次に面白いのが、前の本と次の本がどれくらい密接につながっているか、という軸です。

密結合というのは、かなり直接的なつながりです。
同じ著者。
同じシリーズ。
同じ論争。
同じ問題を別の角度から扱った本。
これは理解を深めるのに向いています。

一方で疎結合というのは、直接つながってはいないけれど、どこかで響き合う本です。
主題は違う。ジャンルも違う。時代も違う。
でも、読後に残った問いや気分や構図のようなものが、別の場所で再登場する。

私がダン・ブラウンのあとにテッド・チャンを選んだのは、まさにこの疎結合でした。
ミステリの続きを探したわけではない。
でも、人間とは何か、知とは何か、起源とは何か、という感触のレベルではつながっていた。

密結合の読書は、知識を深くします。
疎結合の読書は、思考を広くします。

どちらも必要です。
毎回密結合ばかりだと、堀り進めるけれど景色が変わらない。
毎回疎結合ばかりだと、発見は多いけれど地盤が固まらない。

いい読書は、この二つのリズムでできています。

3. 意見が順か、逆か

ある本に感動したときほど、次に読むべきは、その本に反対する立場の本かもしれません。

でも基本的にこれは少しイヤな作業です。
読後の高揚感に水を差すからです。

でも、知的にはとても重要です。

本に感動した直後というのは、その本の世界観に一時的に乗っ取られている状態でもあります。
その状態で似た本ばかり読んでいると、自分が理解を深めているのか、ただ気持ちよく強化されているのかが分からなくなる。

だからこそ、あえて逆向きに行く。

賛成したくなる本のあとに、懐疑的な本を読む。
英雄的な物語のあとに、構造を冷たく見る本を読む。
科学礼賛の本のあとに、科学の限界を突く本を読む。
市場を称賛する本のあとに、市場の失敗を扱う本を読む。

たとえば吉川浩満『理不尽な進化』ドーキンス『利己的な遺伝子』グールド『ダーウィン以来』ステレルニー『ドーキンス vs グールド』などは、相互に読み合わせる価値のある組み合わせです。

これをやると、読書が信仰ではなくなります。
ある立場に立ちつつ、その立場の輪郭も見えるようになる。

もちろん、毎回わざわざ反対本を挟む必要はありません。
ただ、ある本があまりにも気持ちよく、あまりにも全面的に正しく見えたときには、逆向きの一冊を入れる価値が高い。
これは読書の免疫系みたいなものです。

4. 時間的に前へ行くか、後ろへ行くか

時間の軸も、とても便利です。

ある本を読んだとき、私たちはその本の中身だけでなく、その本がどこから来たのか、そしてどこへ影響したのか、という二方向に進めます。

前へ行くとは、その本の前史をたどることです。
著者が何を読んで育ったのか。
どの時代背景のなかで、その本は書かれたのか。
どんな議論や事件や学説が、その本を必要としたのか。

後ろへ行くとは、その本の余波を見ることです。
その本が何を変えたのか。
誰が受け継ぎ、誰が批判したのか。
どんな分野に飛び火したのか。

読書というのは、ともすると完成品を読む行為に見えます。
でも本当は、一冊の本はいつも流れの途中にあります。

前にさかのぼると、本は必然だったことがわかる。
後ろに進むと、本は起点にもなりうることがわかる。

この時間軸を入れると、読書が点ではなく線になります。
一冊が孤立せず、知の系譜の中で見えてきます。

5. ミクロか、マクロか

これも大事な軸です。

この世界で起きていることは現象といいます。
現象にはたいてい階層があります。

私たちは生物ですが、生物には分子→細胞→器官→個体→集団→生態系という現象のレベルがあります。
この考え方は難問に取り組む際も役立ちます

たとえば、ある事件を扱った本なら、その上には時代構造や制度の話があり、その下には個別の犯行方法や毒の作用機序があります。

それぞれのレイヤーはどれも理解に必要になってきます。

あるテーマに関して、いきなり上のレイヤーばかり読むと、ミクロな過程が抜ける。
いきなりミクロな過程ばかり読むと、全体像が薄くなる。

だから、階層の上下を行き来するのがよい。

私は研究でもよく思いますが、ものごとは拡大しても縮小しても、同じではありません。
見るスケールが変わると、現れる因果も、見える輪郭も変わる。

読書も同じです。
一冊の本を読んだら、その一段上か一段下を見に行く。
それだけで理解の立体感がぐっと増します。

では、どう選べばよいのか

ここまでいろいろ軸を並べてきました。
では実際にはどうすればいいのか。

次の一冊を選ぶときに、全部の軸を一度にいじらないことです。

一冊読んだあとに、次の本で一つか二つだけ軸をずらす。
これがちょうどいい。

たとえば、テーマは近いまま、抽象から具体へずらす。
あるいは、階層は近いまま、意見だけ逆にする。
あるいは、内容は遠めにして、問いだけをつなぐ。
そうやって、前の本との関係を少しだけ変える。

これが一番続きます。

全部を変えると、飛びすぎる。
何も変えないと、停滞する。

多細胞生物も、すべての細胞が同時に極端に変わるわけではありません。
少しずつ役割が分かれ、しかし全体はつながっている。
読書もそのくらいがいいのです。

読後に自分へ投げる問い

私は、次の一冊に迷ったとき、次のようなことを考えるとよいと思っています。

この本で一番面白かったのは、主張か、事例か、雰囲気か、問いか。
この本を読んで、自分は納得したのか、混乱したのか、反発したのか。
次は深めたいのか、広げたいのか、疑いたいのか。
この本の上流を見たいのか、下流を見たいのか。
今の自分には、密結合が必要か、疎結合が必要か。

この問いに少し答えるだけで、次の本の候補はかなり絞られます。

大事なのは、次の本の書名をすぐ決めることではありません。
まず、どの軸で次に動くかを決めることです。

先に地図を決め、あとから目的地を探す。
そうすると、読書はかなり面白くなります。

次の一冊は、次の自分を選ぶことでもある

少し大げさに言えば、次に読む本を選ぶというのは、次の自分をどちらへ動かすかを選ぶことでもあります。

もっと整理された自分になるのか。
もっと揺さぶられた自分になるのか。
もっと手触りを持った自分になるのか。
もっと上から眺める自分になるのか。
もっと反対意見に耐えられる自分になるのか。

本は内容だけでなく、読む順番でも効いてきます。

だから私は、一冊ごとに完結して読書を終えるのではなく、本と本のあいだの関係まで含めて、読書体験だと思っています。

面白い本を読む。
その余韻をもとに、少しずらして次の本を選ぶ。
すると、その次もまた面白くなる。

この繰り返しが起こると、読書はただの消費ではなくなります。
本棚が、あなただけの多細胞生物みたいになっている。
一冊一冊は違う役割を持っていて、でも全体としてつながっている。

そういう読書は楽しいものです。

おわりに

ある本を読んだあと、次に何を読むか。
これは単なるおすすめ探しではありません。

前の一冊をどう変形し、どう延長し、どう裏切るか。
その設計の問題です。

抽象と具体。
疎結合と密結合。
意見の順と逆。
時間的な前後。
階層的な上下。

こうした軸を少し意識するだけで、次の一冊は単なる続きではなくなります。
読書は、一冊ずつではなく、連なりとして面白くなる。

私自身、これからもたぶん、本を読み終えるたびに同じことを考えるでしょう。
これは次に何を読んだら面白いだろうか、と。

そして、その問いそのものが、すでに読書の楽しみの一部なのだと思います。

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