Mrs. GREEN APPLE | 君を知らない は社会構造に言及している
Mrs. GREEN APPLEに『君を知らない』という曲がある。この曲は一般的には「僕」と「君」の関係の破綻についての歌だと捉えられている。
しかし、丹念に読み込んでいくと、この曲の別の顔が浮かび上がってくる。「縄跳び」や「泳ぐ」がメタファーとして機能しはじめる。
この曲は、社会のとある構造に絡めとられて孤独を募らせる現代人について書かれた曲なのではないか。
私はそう思っている。
ここからは、私の解釈を紹介していこうと思う。
―泳ぐことと、縄跳びと、刺される恐怖の話
Mrs. GREEN APPLE の『君を知らない』は、一見するとよくある「うまくいかなかった恋」の歌に見えると思う。
僕と君がいて、
僕は君のことを分かっていたつもりだったけれど、実は君の一部しか見ていなかった。
君もまた、僕の一部しか見ていなかった。
そのズレや噛み合わなさの積み重ねで関係が壊れていく。
ざっくり言えば、
君の全部を知りたかったけど、それは叶わなかった人の失恋ソング
として読めるし、それだけでも十分に成立している。
ただ、歌詞を丁寧に追っていくと、ほとんどの部分は「君」との関係の話をしているのに、一部だけ、まったく“君”を介していない行が挿入されていることに気づく。
その2箇所が、今回の読み解きの出発点になっている。
「君を介さない」2つのブロック
私が引っかかったのは、次の2つのブロックだ。
冒頭あたりの「分かり合える事はない」から始まり、「誰かがしてる縄跳びの中に 僕も入れたなら変われるかな」までのブロック
真ん中あたりの、「大体そうさ」から始まり、「後ろから刺されてしまうのを恐れてる」「いい加減無理をするのを辞めたい」までのブロック
前者は、「僕」の人間関係の傾向をメタ的な視点から振り返ると同時に、
「自分はどんなふうに世界に向き合っているのか」という、僕個人の生き方についての考えが述べられている部分だと読める。
後者は、よりピュアに「僕がどう生きているか/どう生きざるを得ないか」という心情が吐き出されている部分に見える。
それ以外の歌詞の多くは、
僕が君のことをどう捉えていたか
僕が君に対してどう振る舞っていたか
君が僕をどう扱っていたか
といった、“対・君” の視点で書かれている。
それに対して、この2つのブロックでは、“対・君” の視点が欠落している。
「分かり合える事はない」は、「僕と君は分かり合えない」とも読めるし、「誰とも完全には分かり合えない」とも読める曖昧な書き方になっている。
ただ、続くフレーズで「誰かがしてる縄跳び」という、不特定の「誰か」という言い方が出てくることも踏まえると、「分かり合える事はない」も「僕と他の人とは」「わかりあえない」という意味なのではないだろうか。
それを踏まえると、このブロックは、
僕が「世界そのもの」とどう付き合っているか、についての話
として読める。
また、「大体そうさ」「後ろから刺されてしまうのを恐れてる」「いい加減無理をするのを辞めたい」といったラインは、
僕がこの社会の中で、いつもどんな不安を抱えて生きているか
をむき出しにしている部分に見える。
つまりこの2箇所は、
君と関係なく、僕という人間が元々どんな世界観と生き方を持っているか
が垣間見えている箇所だと読める。
そしてこの2つのブロックを読み解くと、『君を知らない』は単なる個人的な失恋ソングではなく、競争社会の中で生きている僕たちの歌としても立ち上がってくる。
「泳ぐ」と「縄跳び」の対比
まず、冒頭の「分かり合える事はない」のブロックを見てみたい。
ここでの「僕」は、自分自身の生き方を「泳ぐ」と表現している一方で、
「誰かがしてる縄跳びの中に 僕も入れたなら変われるかな」と歌う。
この段階では、「泳ぐ」と「縄跳び」が何の象徴なのかは直感的には分かりづらい。
しかし、後で出てくる「大体そうさ」のブロックを見ると、「泳ぐ」と「縄跳び」が何を暗示しているのかが少しずつ浮かび上がってくる。
なので、一度「大体そうさ」の方のブロックを先に見てみる。
「無理をやめたい」×「刺される恐怖」=競争社会モード
このブロックには、「後ろから刺されてしまうのを恐れてる」というフレーズと、「いい加減無理をするのを辞めたい」というフレーズが出てくる。
この2つをセットで読むと、僕が競争社会の中で疲弊している姿が見えてくる。
日常会話で「後ろから刺される」と言う時、もちろん物理的に刺されるイメージもあるが、多くの場合、
信頼していた人に裏切られる
陰で足を引っ張られて、名誉やポジションを失う
頑張って築いてきた場所を、後から来た誰かに奪われる
といった 社会的に“殺される”感覚も含んでいると思う。
そこに「いい加減無理をするのを辞めたい」というラインが隣り合っている。
この二つを並べて読むと、
「刺される」=スピードを落とした瞬間、後ろから来た誰かに出し抜かれたり、立場を奪われたりすること
「無理をする」=誰にも追いつかれないように、誰にも追い抜かれないように、常に全力で前に進み続けること
というふうに読めてくる。
つまりこの一帯は、
本当はしんどいし、無理をするのはもうやめたい。
でも、少しでも気を抜いたら誰かに追いつかれて、立場を奪われたり、刺されたりするかもしれない。
それが怖くて、無理をし続けてしまう。
という、「無理をするのはつらいけれど、無理をしないのは怖い」というジレンマを描いているように見える。
ここでの「無理をする」というのは、単に「たくさん働く」だけではなく、
隙がないように取り繕う
弱みを見せない
弱音を吐かない
といったニュアンスも含んでいると感じる。
つまり、「弱い自分」を隠して、「強い自分」という一部だけを見せ続ける生き方を選び続けるということだ。
そして、この「強い自分だけを前に出すモード」を、僕は「君」といるときにもオフにできなかった。
その結果、君にも「僕の一部」だけを見せることになった――そういう風に読み進めることができる。
同時に、君もまた「一部」しか僕に見せていなかった。
君は君で、競争社会の中で疲弊していて、誰かに刺されないように、壊れないようにするために、自分の一部だけを見せて生きていく癖が染みついていたのだろう。そして僕の前とて、弱さを覆い隠す鎧を脱ぐことはできなかったのだろう。
つまり、
僕も、君も、競争社会の中で「無理をし続けるモード」に適応した結果として、公的な空間でも、私的な空間でも、一部だけを提示する生き方を選んでいた
と読める。
また、この「無理をするのはしんどいけど、無理をしないのは怖い」という感覚は、「僕」と「君」だけでなく、競争社会を生きる現代の多くの人が共有している感覚だと思う。
「勝ち続けるためにはボロを出してはいけない」「隙を見せてはいけない」という内面化された規範が、職場や学校だけでなく、プライベートな領域にまで浸み込んでいき、その結果、人間関係の中でも「全部を見せること」が難しくなり、孤独が個々人の内側で膨らんでいく。
『君を知らない』のこのブロックは、現代に特有の孤独感が生まれる構造を端的にあぶり出しているように感じる。
そうなると、この曲はもはや「一組のカップルの話」にとどまらず、社会構造のいびつさについて歌った社会派の曲という側面も持ち始める。
「泳ぐ」と「縄跳び」に戻る
ここまで読むと、冒頭に出てきた「泳ぐ」と「縄跳び」の意味も、少しずつ輪郭がはっきりしてくる。
人間にとって「泳ぐ」という行為は、歩くのと違って、
陸につくまで泳ぎ続けなければ沈んでしまう、生きるか沈むかの行為
だ。
生き延びたければ、自分の好きなタイミングで自由に休憩することはできない。
そう考えると、この「泳ぐ」という言葉は、
競争社会における競争そのもののメタファーとして読むことができる。
一方で、「縄跳び」は遊びだ。
それも、ここで言及されている縄跳びは、おそらく大縄、すなわち縄を回している人と跳んでいる人が全員で協力する遊びだ。協力というところがミソで、「縄跳び」はメンバー同士で競争する遊びではない。
そう考えると、「縄跳び」は競争社会の外側にある協力的な遊びの場として捉えられる。
私たちが生きる社会はたしかに、多くの領域が競争社会のルールに呑み込まれている。
それでもまだ、「縄跳び」のような場――勝ち負けを決めるのではなく、協力して遊ぶ場所――は、たしかに残っている。
しかし、協力的な遊びの場は、いわゆる資産をほとんど生まない。
モノも、サービスも、それらを提供する対価としての富も、生まない。
これを踏まえると、冒頭のブロックは、
「分かり合える」協力的な遊びの場に憧れながらも、
富やポジションなどの限られたパイを他者と「分かち合」うこと、すなわちパイの奪い合いをやめることができない、僕、君、そして多くの現代人の生き様
を描いた部分、と読むことができるのではないだろうか。
『君を知らない』は何について歌った曲なのか
ここまでの読みをまとめると、この曲は、
競争社会で疲弊している人間たち
そんな人間たちの「協力的な遊びの場」への淡い憧れ
競争社会のルールがプライベートの領域にも浸潤していることに伴う孤独の蔓延
その一つの具体例としての「僕」と「君」の関係の破綻
について歌った、かなりスケールの大きな失恋ソングなのではないか、と私は捉えている。
僕は君の一部を全部だと思い込んでいた。
君もまた、自分の一部しか僕に見せることができなかった。
その背後には、「後ろから刺されるのを恐れて」「無理をするのをやめられない」僕と君、そして僕たちの世界がある。
協力的な縄跳びの輪に入ることができないまま、
生きるか沈むかの海を泳ぎ続けている僕たちの一場面として、
『君を知らない』という曲がある。
そんな風に、読めると思うのだ。
もちろん、これはあくまで私個人の読みであって、これが唯一の正解だと言いたいわけではない。
「自分はこう読んだ」「あの縄跳びはこういう意味に感じた」「『刺される』はもっと別のイメージだ」という解釈もきっとたくさんあると思う。
そのどれもがきっと正解であり、同時に、自分の影に染まって変色しているのだろう。
