姫と下町の工房の日常97
97)外に出るなら……
九月も半ばとなり、風の端々に涼しさが混じるようになった。
窓から入る空気はどこまでも穏やかだ。
工房の壁には、収穫したハーブの束がいくつも吊るされていて、どれもいい具合に乾燥している。
乾燥したレモングラスやローズマリーの清涼感。ラベンダーの甘い香り。
少しスパイシーな這性のタイムの香りを嗅ぐと、未だ癒えていない心の傷がチクチクしたが、前を向こうと心に決めた工房長は、タイムの香りも大きく吸い込んだ。
「さて、始めましょうか。」
🦊「やっとだな。」
「少し手間のかかるものを作るには勢いが必要ですよね。」
本日は日の出ているうちから書記さんはお出かけしている。暑さに弱い書記さんだが日中でも安心して送り出せる季節になったのだなと、こんなところでも夏の終わりを感じられる。
書記さんはよくいろんなところに手紙を出しているが、会いに行って直接やりとりできるのなら、それに越した事はないだろう。
首には新調したばかりの小銭入れをしっかりかけていて、それを見るだけで工房長の心も弾んだ。
さて、今回工房長が目指すのは、持っているだけで心が弾むような、コロンとした丸みを帯びた可愛いポーチである。
銀ペンを手に取り、あらかじめ何度も描き直して作った型紙を革に当てた。
可愛らしい曲線と、使いやすさのバランスを取るのになかなか苦労したのだ。型取りや裁断で失敗はしたくない……。
型通りに革を裁ち落とす瞬間は、いつも緊張する。
緊張が伝わるのか、白狐さんも呼吸を止めて見つめてくるので尚のこと緊張する……。
だがいつもなら、ここに書記さんの視線も加わるので、いつもに比べればまだ……。
「……。」
🦊「……どうした?」
「いえ……、集中しますね。」
🦊「あぁ。」
心配してくれているので、見ないでくださいとも言えず、工房長はそのまま作業を続けた。
(大きくカットしてしまう分には問題ないのだから……落ち着いて……)
ナイフを握る手にぐっと力を込め、刃先を滑らせる。
サク、サク、と小気味いい音が静かな工房に響いた。
全て切り終えると、二つのため息が同時に吐き出され、思わず顔を見合わせてしまった。
「なんとかなりました。」
🦊「あぁ……。順調だな。」
「ある程度、カットした面を整えて……。丸みをつけるところは先につけてしまいましょうか。」
🦊「縫うのは後か。」
「えぇ。ゆっくり丁寧に行きましょう。」
カットしただけなのに既に愛着の湧いてきた革たちに水を含ませ形を整えていく。
湿度が低いので割とすぐに乾きそうだが……。
🦊「……なぁ。」
「えぇ。私も今白狐さんに声をかけようと思っていたところです。」
🦊「考えることは同じか。」
「おそらく。」
革を風通しの良いところへ置き、二人はそのまま台所へ向かう。
工房長はグラスを二つ用意し、冷たいハーブティーをたっぷり注ぎ、テーブルへと運ぶ。
「ぷは!!今日は冷たいお茶で正解です。」
🦊「あぁ。ごくごくいけるな。」
「今のところ失敗は無しです!!」
🦊「まだ始まったばかりだろ……。」
「……私はまだ先月の、あの呪文のような説明書の第一章の悲劇を忘れていないのですよ……。」
🦊「あ、あぁ……、あれに比べたら、今日はかなり絶好調だ……。」
「ですよねっ。」
二人は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
「そういえば、クッキーがまだ残っているのですが……、書記さんが居ない間に食べていいものか……少々悩みますね。」
🦊「書記が収集してきた情報で買えたものだからか?」
「えぇ、しかも一緒に買いに行ってくれました。」
🦊「だが今、居ないんだ。別に食べてもいいだろう。」
🦉「私もいただきます。」
🦊「あぁ、書記も……っ、うわっ!!」
「わぁ、書記さんおかえりなさい。いつのまに……。」
🦉「今です。」
普段、飛んでいる時にはほとんど音がしないので、いつも書記さんの登場は突然である……。しかも今日は窓が開いていたので窓からのご帰宅のようだ。
工房長は立ち上がり、クッキーと、書記へのお茶を用意する。
「もう用事は終わったのですか?」
🦉「えぇ。……本日は鞄を作る予定ではありませんでしたか?」
「……休憩なのですよ……。」
🦉「そうでしたか。休憩が終わりましたら進んだところまで記録をします。」
「……まだそんなに書くことはありませんよ。何せ、切って濡らして乾かしているだけですから……。」
🦉「ちなみに、革の厚みと使用した道具も記録しておきます。」
「……。」
🦊「記録することが増えたな。」
🦉「休憩中の会話も記録します。」
「それは必要ないと思うのです……。」
🦉「しかし工房長は既に一仕事終えたような表情ですね。」
「……それはもちろん。裁断に全神経注ぎましたから……。その話も記録します?」
🦉「工房長、我々もクッキーを食べないと、無くなります。」
「ちょっ……、えっ?」
気付けば書記さんが帰宅してからずっと静かだった白狐さんが一人で黙々とクッキーを食べていた。
🦊「なんだ?話は終わったのか?」
菓子店で熱い視線を送っていただけあって、やはりこのさつまいものクッキーは白狐さんの食べたかった物のようだ。
「美味しいですか?」
🦊「あぁ、これは販売期間中にまた行くべきだろう。」
「では、またお散歩に行きましょうね。」
🦊「あれは散歩とは言わん。ただの買い物だ。」
「……初心者なので、あれも散歩としてカウントさせてください。」
🦉「また、工房長を外へ連れ出す情報を仕入れてきましょう。」
「……なぜでしょう……。書記さんが女王に性格が似てきたようです……。」
🦊「女王は強制だけどな。」
そのような人物は一人で定員だぞ、と顔を顰めてみたが、兄弟のようで工房長は、なんだか少し嬉しかった。
「では次はどこへ行きましょうね?」
🦉「しばらくは芋、栗、柿、葡萄、梨で釣れそうです。」
🦊「全部食い物じゃないか。」
「わ、私がそんなもので釣れると……?」
🦉「釣れます。」
🦊「釣れるな。だが、散歩ってそういうものじゃないと思うんだが……。」
「ふむ。では、白狐さんは、どこへ行きたいのです?」
🦊「ただ季節の移ろいを感じながら歩くだけだ。」
「でも、せっかく外に出るのですから、目的地は欲しいのですよ。」
🦊「それなら肉屋だな。」
「……やっぱり食べ物じゃないですか!!」
🦊「肉屋まで歩けば立派な散歩だ。」
🦉「異議ありません。」
🦊「むしろ散歩より重要だ。」
「結局私と同じなのです……。」
肉に勝るものはない。と白狐さんが言い切ったところで、食器を片付け、再び気合を入れ直す。
「さて、続きを始めましょうか。」
先ほどの倍になった視線にプレッシャーを感じながら、工房長は革と接着剤を手に取った。
