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「宇宙船地球号」と叫んだ国が、一番ナイフを捨てられないという現実 宇宙から解く地球超解析

「この地球は、限られた資源と乗組員を乗せて宇宙を旅する一隻の船だ」

1968年、アメリカの思想家バックミンスター・フラーは『宇宙船地球号操縦マニュアル』という本を世に送り出しました。国家や民族の境界を越え、全人類が一つの船のクルー(乗組員)として助け合わなければ、この船はいつか沈んでしまう――。あまりにも美しく、完璧な理想論です。子供の頃世の中はすごいと感じた一説でした。

しかし、今ふと立ち止まって現代の世界を見渡したとき、私たちは強烈な違和感を覚えます。

「船の操縦マニュアルを書いた当の本人が、一番でかいナイフを握りしめて暴れていないか?」

これが、私たちが生きる現実の正体です。

一等客室の乗組員が犯している矛盾

アメリカという国は、自由や民主主義、そして「宇宙船地球号」のような素晴らしい概念を生み出す天才です。しかし同時に、自国の利益がかかれば圧倒的な軍事力と経済力で他国を押し切ろうとします。

地球という船の中で最も広い部屋を占め、最も多くの資源を食いつぶし、後ろ手には世界を何度も滅ぼせる「核という毒の花」を隠し持っている。

「みんなで助け合おう」と笑顔で握手を求めながら、もう片方の手にはナイフを握っている。過渡期を迎えた世界で繰り返されるこの生々しい現実を前に、私たちは「良かれと思って親切にしたのに」「優しくすれば伝わるはずなのに」と傷つき、途方に暮れてしまいます。

優劣などない。あるのは「行いの良し悪し」だけ

かつて日本も、技術を教えたお隣さんに手のひらを返されたり、約束をあっさりと反故にされたりして痛い目を見てきました。「もう誰も助けたくない」と心を閉ざしたくなる瞬間は、歴史の中で何度もありました。

けれど、ここで私たちが思い出すべき大切な事実があります。

誰かが上で、誰かが下だという「優劣」なんてものは、特定の立場から見た人間の勝手な幻に過ぎません。自分を上に見たり、相手を「三国人」だと見下したり、選民思想に走った先人たちの過ちも、すべてその「傲慢なメガネ」が原因でした。石原さんね。これ

世界にあるのは、ただ一つ。 「その行いが良いか、悪いか」それだけです。

裏切られたからといって、こちらもナイフを握り締めれば、宇宙船地球号はただの「泥沼の喧嘩場」と化します。私たちが目指すべきは、力で相手を服従させることではありません。

首筋を差し出す「お辞儀」の覚悟

日本の「お辞儀」という文化の深さを、多くの外国人はまだ知りません。ただペコペコ頭を下げている服従のポーズだと思ったら大間違いです。

刀を差した侍の時代、相手の前で頭を下げる(=首筋を見せる)ことは、いつ斬られても文句が言えない最大の隙を晒す行為でした。つまりお辞儀とは、「私はあなたに対して何の敵意も持っていません。命を預けるほどあなたを信頼しています」という、命を懸けた平和の誓いです。

圧倒的な力を内に秘めたまま、あえて武器を捨て、無防備な姿勢で見つめ返す。 これこそが、人間が到達し得る最高峰の対人哲学であり、真の強さです。

拳を合わせる時代から、お辞儀を交わす時代へ

華の国には、拳をもう片方の手で包む「抱拳礼」という伝統的な挨拶があります。「手に武器はありません」と示す素晴らしい所作です。

しかし、互いに後ろ手にナイフや核の花を隠し持ち、表面上の力や安さで優劣を競い合う今の時代だからこそ、私は切に願います。

いつの日か、拳を合わせる挨拶から、互いの命と尊厳を預け合う「お辞儀」へと変わっていってほしい。そして、一番大きな部屋でナイフを振り回すアメリカもまた、自ら書いたマニュアル通りにその手をひらき、一人の乗組員として頭を下げる日が来てほしい、と。

侵略されようが、手のひらを返されようが、私たちがこの地球から出て行くわけではありません。私たちは奴隷としてではなく、同じ船に乗る一人の「人」として、いまもここに必要とされています。

誰が上か下かを決める裁判官に自分がなる必要はありません。 ただ、自らの「行い」を誇り高く、正しく保ち続けること。

宇宙船地球号のデッキで風を受けながら、今日も私は静かに、お隣さんたちと向き合う覚悟を固めています。

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あるといえばある いるといえばいる 闇と音 目を瞑り 深呼吸 貯まることないと思いますが念のため、人のために使います。