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たまたま、は運命だった

「た」から始まった、人生のしりとり

「た」から始まるタイトルでエッセイを書いてください。

そう言われて、しばらく考えました。

卵。

旅。

宝物。

楽しい。


……たこ焼き。

いや、なぜだろう。

「た」から始まる言葉を考えていただけなのに、なぜ思考がそのまま食べ物へ着地するのでしょう。

これは深層心理の仕業なのか。

あるいは、単純にお腹が空いていただけなのか。

ここは慎重に分析する必要があります。


人間には、高尚なテーマを求めようとする知性があります。

一方で、

「たこ焼き食べたい」

という、極めて原始的な欲求もあります。


知性と本能。

理性と食欲。

そして、文明とソース。

これぞ人類の歴史そのものを凝縮した、あまりにも壮大な人間ドラマです。

高尚なテーマを絞り出そうとした知性は、原始的な生存本能の前ではあまりにも無力。卵も、旅も、宝物も、楽しい記憶さえも、すべてはメイラード反応の香ばしい煙に巻かれ、あの熱々の鉄板が放つ魔力に逆らえず、最終的には「たこ焼き」という名のブラックホールへ吸い込まれていく。

そう、これはもはや物理法則を超えた、人類共通の引力。

「たこ焼きの引力」です。

もしかすると私は、「た」から始まる言葉を探していたのではなく、

「たこ焼き」にたどり着くための理由を探していたのかもしれません。

そう考えると、恐ろしい。


エッセイを書こうとしている人間の脳内で、密かにたこ焼きが主導権を握っている。

……まあ、たこ焼きなら仕方ありません。


そんな迷走から始まった今回のテーマは、

「たまたま」

です。


今回、コンパス みきさんから「エッセイしりとり」のバトンをいただきました。


みきさんの記事を読んで、

「なるほど、次は『た』なのか」

と思った。


そして、たまたま「たまたま」という言葉が浮かんだ。


……いや、これはもう、

たまたまなのか、必然なのか。

いきなり哲学が始まりました。

さっきまでたこ焼きについて熱弁していた人間とは思えません。

でも考えてみると、

人生そのものが、こんな感じなのかもしれません。


たまたま、見かけた。

たまたま、話した。

たまたま、参加した。

たまたま、クリックした。

その瞬間には、たいした意味なんてない。

ところが何年か経って振り返ると、

「あれが始まりだったんだ」

と思うことがあります。

不思議ですよね。

人生を変える出来事って、意外と大げさな顔をしてやって来ません。

「あなたの人生を変える重要イベントです!」のようなテロップも出ない。

効果音も鳴らない。

スポットライトも当たらない。

だいたい、

「まあ、せっかくだから」

くらいです。

そして後になって、

「えっ、あれ重要イベントだったの?」

となる。

人生、説明不足です。


私たちは、未来を全部見てから人生の選択をしているわけではありません。

そのとき持っている知識。

そのときの氣持ち。

そのとき出会った人。

そのとき、たまたま目に入ったもの。

そんな限られた材料を集めて、

「こっちかな」

と選んでいく。

だから、後から見れば大きな分岐点だった出来事も、その瞬間の本人にとっては、ただの一日だったりします。

人生は、

「ここが分岐点ですよ」

と教えてくれない。

だから面白いし、

だから少し怖い。

そして、だからこそ、

今目の前にある小さな出来事を、あまり雑に扱わないほうがいいのかもしれません。

今回のバトンも、考えてみれば小さな「たまたま」です。

みきさんから「た」を受け取って、こうして文章を書いている。

そして、この文章も、いつか誰かの目に留まるかもしれない。

その誰かが、何かを感じるかもしれない。


その「何か」が、また別の誰かにつながるかもしれない。

そう考えると、

「たまたま」って、案外あなどれません。

偶然に見えた出来事に、その後の自分の選択が重なっていく。

その積み重ねが、いつか「運命」と呼ばれるものになる。

私は、そんなふうにも思っています。

だから最近、

「たまたま」が起きたとき、

「まあ、偶然だよね」

だけで終わらせないようにしています。

「さて、ここから何が始まるのだろう?」

と、少しだけ眺めてみる。

もちろん、何も始まらないこともあります。

たまたま買ったプリンが、

ただ美味しかっただけ。

それもまた、人生です。

……いや、むしろ、それはそれで大事です。

人生には、壮大な意味より、美味しいプリンのほうが必要な日もあります。

たこ焼きの日もあります。

ここまで来ると、私は何の話をしているのでしょう。

「たまたま」と「たこ焼き」が、頭の中で完全に同じグループに所属し始めています。

そして、もうひとつ。

「たまたま」を大切にすると、人生の見え方が少し変わります。

「なんでこんなことが起きたんだろう」

と考える代わりに、

「ここから何ができるだろう」

と考えられるようになる。

起きたことを変えられなくても、その後の一手は選べる。

偶然そのものを運命に変えるのは、案外その一手なのかもしれません。

だから私は、「たまたま」を運命の完成品だとは思いません。

むしろ、

運命の材料。

そう考えています。


今回の「エッセイしりとり」も、そんな材料のひとつです。

コンパス みきさんから、

「た」

という一文字を受け取った。

たった一文字です。

でも、その一文字から、こうして一つの文章が生まれました。

そして、この文章を読んでくださった方の中に、また何かが生まれるかもしれない。

そう思うと、言葉のバトンって面白いですね。


コンパス みきさん。

素敵な「た」を届けてくださって、ありがとうございました。

「たまたま」が、次の誰かの「何か」につながっていったら嬉しいです。

そして、もし次の方が、

「たまたま」

で始めて、

「たまたま」

で終わったら。

しりとりとしては、

もう完全にルール破壊です。

競技放棄。

審判も首をかしげる。

観客もざわつく。

そして、たぶん主催者が一番困る。

でも、考えてみてください。


人生なんて、その程度のルール破壊でいいんじゃないか。

予定通りに進まなくてもいい。

遠回りしてもいい。

途中で、

「なんで私はこんなところにいるんだろう」

となってもいい。


たまたま生まれて。

たまたま転んで。

たまたま笑って。

たまたま誰かに出会って。

たまたま失敗して。

たまたま成功して。

たまたま、たこ焼きを食べて。

そして、あとから振り返ったとき、氣づくのです。

あの時の「たまたま」は、実は「たまたま」ではなかったのだと。


私たちは、未来を知らないまま、予想外の道を歩いている。

その道に、あとから意味が生まれる。

そんな予想外の積み重ねを、世間では「運命」と呼んでいるだけなのかもしれません。


だから今日も、

何かが「たまたま」起きたら、

少しだけ笑って、

少しだけ眺めてみる。


もしかすると、その先に何かが待っているかもしれない。

……たこ焼きかもしれない。

でも、それだって悪くない。


なぜなら人生は、

何が起きるか分からないから面白い。

そして、

何が起きるか分からないからこそ、

あとから「運命だった」と思えるのです。

たまたま始まって。

たまたま迷って。

たまたま笑って。

そして、たまたま誰かと出会う。

その全部が、あとから一本の道になる。

それを私たちは、

運命と呼んでいるのかもしれません。

……さて。

ここまで書いておいて何ですが、

「た」から始まるエッセイで、

本当にたこ焼きについてここまで語る必要があったのでしょうか。

たぶん、ありません。

でも、

たまたまです。



さて、このエッセイのタイトルの最後の文字は「た」です。

次の方は「た」から始まるタイトルで、お願いいたします。

バトンをお渡ししたいのは、このお二方です。

一人目は、SANACO(さなこ)さん。

自己否定から自己信頼へ、心の安心を取り戻すまでの道のりを綴った記事に、深く心を動かされました。「起きたことを変えられなくても、その後の一手は選べる」。このエッセイで書いたことが、さなこさんの言葉で実践されています。「た」の一文字を、どう料理していただけるか楽しみです。


二人目は、LaLaLaさん。

「ペイフォワードプロジェクト」で、受け取った恩を次の誰かへ送る活動をされています。バトンを受け取り、次へ渡す。今回のしりとりと、LaLaLaさんの活動は、どこか似ている気がします。「た」の一文字が、どんな物語になるのか楽しみです。


#エッセイしりとり
締め切りは8月31日23時59分です。

〜 開運シェルパ / 運命デザインラボ 〜


◆ ◆ ◆

関連リンク

メインアカウント連載『運命レボリューション』 → 開運シェルパ @hanamiti369(https://note.com/hanamiti369)

このラボについて → 運命デザインラボ @hanamiti369labo(https://note.com/hanamiti369labo)




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