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明智光秀はなぜ織田信長に謀反したのか?――朝廷黒幕説、失う恐怖、野心、恋の恨み説

天正10年6月2日、1582年6月21日。

京都の本能寺に滞在していた織田信長は、家臣である明智光秀の軍勢に襲撃され、天下統一を目前にして命を落としました。

日本史最大級の謎とされる「本能寺の変」です。

光秀は、なぜ自分を大名にまで引き上げてくれた信長を裏切ったのでしょうか。

  • 信長から受けた仕打ちへの怨恨

  • 長宗我部氏をめぐる対立

  • 領地を失うことへの恐怖

  • 天下を狙う野心

  • 将軍・足利義昭や朝廷による工作

さまざまな説が唱えられてきましたが、光秀自身が動機を明確に書き残していないため、真相は現在も分かっていません。

しかし、本能寺の変を単なる「個人的な恨み」だけで説明するのも不自然です。
そこには、信長によって壊されつつあった旧来の秩序、朝廷や公家社会の不安、織田家内部での立場の変化、そして光秀自身の恐怖と野心が複雑に絡み合っていたのではないでしょうか。


信長の殺害を朝廷は望んでいたのか

織田信長は、天皇や朝廷を否定していたわけではありません。

荒廃していた京都の治安を回復させ、朝廷に経済的な援助を行い、その権威を政治に利用していました。

一方で、信長の力があまりにも大きくなったことで、朝廷や公家の側に不安が生じていた可能性はあります。

正親町天皇の譲位問題や暦をめぐる対立など、信長が朝廷の領域にまで強く介入しようとしていたように見える場面もありました。

天下統一が完成した後、信長は朝廷をどのように扱うつもりだったのでしょうか。

従来の官位や権威を尊重し続けるのか。

それとも、自らを中心とする新たな秩序の中へ、朝廷を組み込もうとしていたのか。

朝廷や公家の中に、

信長には消えてもらった方がよい

と考える者がいたとしても、不思議ではありません。

ただし、朝廷が組織として光秀に信長暗殺を命じたことを示す、確実な証拠はありません。

「朝廷黒幕説」は魅力的な仮説ですが、歴史的事実として断定することはできないのです。

旧体制に通じた光秀には断りにくかったのか

光秀は、信長が作り出そうとした新しい秩序だけで生きてきた人物ではありません。

若い頃の経歴には不明な部分が多いものの、越前の朝倉氏や室町幕府最後の将軍・足利義昭と関係を持ち、その後に信長へ仕えたと考えられています。

光秀は、将軍、朝廷、公家、寺社といった、中世以来の権威を理解していました。

和歌や連歌にも通じ、朝廷や公家社会と交渉できる教養を持っていたことも、光秀の大きな特徴です。

もし朝廷や有力公家から、

信長の専横を止めてほしい
天下の秩序を守ってほしい

という期待や示唆を受けていたなら、光秀には無視しにくい話だったかもしれません。

光秀にとって朝廷は、信長が政治に利用するためだけの権威ではなく、守るべき日本の秩序の一部だった可能性があります。

ただし、これも朝廷からの直接命令があったという意味ではありません。

朝廷は黒幕ではなくても、光秀が信長を討つことに「大義」を見いだすための、政治的・精神的な背景になったのではないでしょうか。

光秀を襲った「すべてを失う恐怖」

光秀は信長のもとで異例の出世を遂げました。

近江の坂本城を与えられ、長い丹波攻略を成功させ、織田家の中でも有力な武将の一人となります。

しかし、その地位も領地も、最終的にはすべて信長の判断によって与えられたものでした。

信長の評価が変われば、光秀は一夜にして多くを失う可能性があったのです。

特に光秀が支配していた坂本と丹波は、京都に非常に近い重要地域でした。

坂本城は京都と近江を結ぶ交通の要所であり、琵琶湖や比叡山にも近い場所です。

丹波もまた、京都の西側を守る軍事上の重要地域でした。

しかし、重要な土地であるからこそ、信長が天下統一後の領国再編を進めた場合、光秀がそのまま領有を続けられる保証はありませんでした。

信長にとって家臣の領地は、固定された世襲財産ではありません。

軍事や政策上の必要があれば国替えを命じ、役割を果たせない家臣からは領地を取り上げることもありました。

京都に近い坂本や丹波は、織田政権の中枢を固めるため、将来的に再配置の対象となる可能性が高い地域でもあったのです。

重臣追放ーー林秀貞と佐久間信盛という前例

光秀は、信長に長く仕えた重臣であっても、一度見限られれば容赦なく追放されることを知っていました。

織田家の宿老だった林秀貞は、長年信長に仕えていたにもかかわらず、過去の謀反への関与などを理由に突然追放されました。

佐久間信盛もまた、織田家を代表する重臣の一人でした。

しかし、石山本願寺攻めで十分な成果を上げられなかったとして、信長から厳しい折檻状を突きつけられます。

その後、佐久間は領地を没収され、織田家から追放されました。

光秀から見れば、これは決して他人事ではありません。

長く仕えたから安全だ
大きな功績を挙げたから領地は保証される

そのような常識が、信長には通用しなかったのです。

本能寺の変直前、光秀の近江・丹波を召し上げ、まだ占領していない出雲・石見などの毛利領へ国替えする予定だったという話もあります。

この国替え話は後世の史料に基づくものであり、確実な事実とは断定できません。しかし、仮に事実であれば、それは単なる転勤や加増ではありませんでした。

光秀は現在の安定した領地を取り上げられたうえで、敵国へ送り込まれ、自分の力で新しい領地を奪い取ることになります。

毛利氏との戦いに失敗すれば、領地を失ったまま失脚し、林秀貞や佐久間信盛のように追放される可能性さえありました。

近江・丹波召し上げの話そのものが事実でなかったとしても、信長が実際に重臣の領地を没収し、追放した前例は存在します。

そのため光秀が、

次に見限られるのは自分かもしれない
坂本と丹波を失えば、これまで築いてきたものがすべて消える

と恐れていたと考えることには、十分な現実味があります。

光秀の信長への忠誠心に陰りが生じた背景には、個人的な恨みだけでなく、左遷、領地没収、失脚、そして追放に対する切迫した恐怖があったのではないでしょうか。

秀吉に追い越される焦り

光秀が強く意識していた可能性があるのが、羽柴秀吉の存在です。

光秀も秀吉も、織田家の古参一族ではありません。

ともに実力で出世した新参者でした。

しかし、中国地方攻略を任された秀吉は、各地の大名を服属させながら急速に勢力を拡大していました。

一方の光秀は、長宗我部元親との外交交渉を担当していましたが、信長が四国政策を変更したことで、それまで築いてきた交渉関係が無意味になりかねない状況に置かれます。

自分はいずれ秀吉に追い越される。
信長から「もはや必要のない家臣」と判断されるかもしれない。

光秀の中に、そのような焦りが生まれていたとしても不思議ではありません。

晩年まで恵まれなかった光秀の野心

光秀は比較的遅い時期に信長へ仕え、そこから急速に出世した人物です。

それ以前の人生については不明な部分が多く、長い浪人生活を経験したともいわれています。

若い頃から恵まれた大名の後継者だったわけではなく、中年以降になってようやく大きな領地と軍勢を持つ立場に到達しました。

苦労して手に入れた地位だからこそ、失う恐怖も大きかったはずです。

同時に、ここまで上り詰めたのなら、さらに上を目指したいという野心も生まれたのではないでしょうか。

目の前には信長がいる。

しかし、その信長さえ消えれば、自分が天下の中心に立てるかもしれない。
朝廷や将軍を支えるという大義と、自らが武家の最高権力者になるという野心は、必ずしも矛盾しません。

人は自分の野心を、正義や使命の言葉で説明することがあります。

光秀もまた、

信長を討つことは天下のためである

と考えることで、自分自身の野心を正当化した可能性があります。

濃姫の婿である信長への対抗意識

光秀と信長の正室・濃姫は、従兄妹だったという伝承があります。

この関係が事実であれば、光秀にとって信長は、単なる主君ではなく、親族である濃姫の夫でもありました。

濃姫は元美濃領主 斎藤道三の娘であり、この道三とつながりがあったとも言われる光秀。

同じ美濃出身者としての誇りや、濃姫を通じた信長への複雑な対抗意識があったのではないか、と考えることもできます。

また後世の物語や映像作品では、若き日の光秀と濃姫が親しく、互いに想いを寄せていたという設定が描かれることがあります。

本来は光秀と結ばれる可能性もあった濃姫を、信長が政略結婚によって妻にした

という物語が作られたのでしょう。

若き日の光秀と濃姫(イメージです)

この見方に立てば、信長は光秀にとって、主君であると同時に、若い日の大切な女性を奪った男でもあったことになります。

光秀が信長に抱いた対抗意識や屈折した感情を説明するうえで、非常に魅力的な物語です。

しかし、光秀と濃姫が恋仲だったことを示す同時代史料はありません。
光秀と濃姫が従兄妹だったという系譜も、確実な同時代史料で確認されたものではありません。

そのため、濃姫をめぐる対抗意識を本能寺の変の直接的な動機とするのは慎重であるべきです。

信長が少人数で本能寺にいるという隙

本能寺の変当時、織田家の主力軍は各地に分散していました。

柴田勝家は北陸、滝川一益は関東、羽柴秀吉は中国地方にいました。
信長の三男・織田信孝と丹羽長秀は、四国出兵の準備を進めていました。

一方、信長自身は中国地方へ向かう途中、少人数の供回りだけを連れて京都の本能寺に滞在していました。

さらに嫡男の信忠も京都にいました。

信長と信忠が同時に、少ない兵力で京都にいるーー
織田家の最高指導者と世継ぎである長男。
この二人を、一度に排除できる機会でした。

光秀にとって、これほど都合のよい状況は二度と訪れないかもしれません。

ここから、

信長が少人数で本能寺に入るよう、朝廷や公家が工作したのではないか

という推測も生まれます。

朝廷や公家社会は京都の情報に通じています。
しかし、信長を本能寺へ誘導した朝廷の工作を裏付ける証拠はありません。

信長が少人数だったのは、畿内に大きな敵対勢力が残っておらず、まさか自分の重臣が裏切るとは考えていなかったためとも説明できます。

朝廷の工作だった可能性を完全に否定することはできませんが、偶然訪れた絶好の機会を見て、光秀が決断したと考える方が自然です。

軍事作戦は成功したが、政治工作は不十分だった

光秀は約1万3000の兵を率いて丹波亀山城を出発しました。

表向きは、中国地方で毛利氏と戦っている秀吉を支援するための出陣でした。

しかし、光秀軍は途中で進路を変更し、京都へ向かいます。

本能寺を包囲された信長は抵抗しましたが、やがて寺に火が放たれ、自害したとされています。

続いて二条御所にいた信忠も攻撃を受け、自害しました。

軍事作戦として見れば、本能寺の変は完全な成功でした。

ところが、その後の光秀の行動を見ると、十分な政治的準備があったようには見えませんでした。

これは本能寺の変が、長期間準備された巨大な共同謀議ではなく、突発性の強い行動だった可能性を示しています。

光秀は信長を倒す方法は考えていました。

しかし、信長を倒した後に誰が自分を支えてくれるのかまでは、十分に読み切れていなかったのです。

「謀反人」光秀は、同僚たちの支持を得られなかった

戦国時代には主君を裏切る例も珍しくありませんでした。

しかし、信長の重臣でありながら、主君の宿所を急襲して殺害した光秀の行為は、周囲から見れば明白な「謀反」でした。

たとえ信長に不満を持つ武将がいたとしても、光秀に味方すれば、自分まで主君殺しの共犯と見なされます。

光秀を新たな天下人として認めたとしても、謀反によって主君を倒した人物を、本当に信用できるのかという問題も残りました。

自分の主君を討った人物が、新しい家臣たちには忠誠を求める。

それだけで、光秀の政権には大きな矛盾がありました。

特に光秀が頼りにしていたのが、細川藤孝・忠興親子と筒井順慶です。

細川家は光秀と縁戚関係にあり、藤孝とは足利義昭に仕えていた頃からの関係もありました。

筒井順慶も畿内の有力大名であり、両者が味方すれば、光秀は京都周辺の支配を固められる可能性がありました。

しかし、細川も筒井も積極的には動きませんでした。

彼らから見れば、信長が死んだからといって、織田家そのものが滅びたわけではありません。

中国地方には羽柴秀吉、北陸には柴田勝家がいました。
さらに、信長の次男・織田信雄、三男・織田信孝も健在です。
丹羽長秀をはじめとする有力武将も残っていました。

光秀が倒したのは信長と嫡男・信忠でしたが、
織田家には依然として大軍を率いる武将と、信長の血を引く後継候補が残っていたのです。

細川や筒井から見れば、光秀に味方することは、

羽柴秀吉や柴田勝家、織田一族をすべて敵に回す

ことを意味します。

一方で、光秀が単独でそれらの勢力に勝てるかと考えれば、その可能性は高くありませんでした。

光秀の本拠地は近江と丹波です。

京都を一時的に押さえることはできても、織田家全体と長期戦を行えるほどの圧倒的な兵力や領土を持っていたわけではありません。

細川藤孝は信長の死を悼んで剃髪し、光秀への協力を拒みました。

筒井順慶も態度を明確にしないまま情勢を見守り、最終的に光秀側には加わりませんでした。

これは単なる友情や忠義の問題ではありません。

両者は冷静に戦力を比較し、

光秀は最終的に、羽柴や柴田、織田一族には勝てない

と判断したのでしょう。

光秀が信長を討った瞬間、細川や筒井にとって光秀は、新たな天下人候補というよりも、いずれ織田家の残存勢力に討たれる可能性の高い「謀反人」になっていたのです。

光秀の最大の誤算は秀吉だった

光秀の最大の誤算は、秀吉の行動の速さでした。

秀吉は信長の死を知ると、毛利氏と急いで講和し、中国地方から驚異的な速さで畿内へ引き返します。

いわゆる「中国大返し」です。

秀吉にとって、信長の仇を討つことには大きな意味がありました。

光秀を倒せば、秀吉は単なる織田家の一武将ではなく、

主君の仇を討った忠臣

として、織田家中で強い正統性を得られます。

一方の光秀は、細川や筒井など畿内の有力者を味方につけられないまま、戻ってきた秀吉軍と山崎で戦うことになりました。

兵力でも政治的な正統性でも、光秀は不利な状況に追い込まれます。

そして山崎の合戦に敗れた光秀は、坂本城へ逃れる途中で命を落としたとされています。

本能寺の変から、わずか11日後のことでした。

信長を討つことには成功した。
しかし、信長のいない天下を支配する準備はできていなかった。

それが、光秀の謀反があえなく失敗した最大の理由だったのではないでしょうか。

本能寺の変は「積み重なった恐怖」と「突然の好機」

本能寺の変に、たった一つの原因を求めるのは難しいでしょう。

  • 朝廷や公家が信長の将来を警戒していた可能性

  • 旧来の秩序を重んじる光秀の価値観

  • 長宗我部氏との交渉を覆され、面目を失ったこと

  • 秀吉に追い越される焦り

  • 坂本や丹波を取り上げられ、敵国へ国替えされるかもしれない恐怖

  • 林秀貞や佐久間信盛のように、領地を没収され追放される不安

  • そして、自ら天下を握りたいという野心

それらが光秀の中で積み重なっていたところへ、信長と信忠が少人数で京都に滞在するという、二度とない好機が訪れました。

光秀は、

今動かなければ、自分が滅ぼされる
今なら信長を倒し、自分が天下の中心に立てる

と考え、その瞬間に賭けたのではないでしょうか。

まとめ――朝廷は黒幕ではなく「光秀を動かした世界」の一部だった

朝廷が光秀に信長暗殺を命じたことを示す、確かな証拠はありません。

したがって、朝廷黒幕説を歴史的事実として断定することはできません。

しかし、信長の急速な権力拡大を警戒する朝廷や公家が存在し、旧来の政治秩序に通じた光秀が、その空気を感じ取っていた可能性はあります。

朝廷は直接命令を下した黒幕ではなくても、光秀が「信長を討つことには大義がある」と考えるための、政治的・精神的な背景になったのかもしれません。

本能寺の変とは、単なる怨恨でも、完全に計画された巨大な陰謀でもありません。

時代に取り残されることを恐れた光秀が、旧来の秩序を守るという大義、自分の領地と地位を失う恐怖、そして天下を望む野心を抱え、突然訪れた一度きりの好機に賭けた事件だった。

しかし、光秀は信長を討つことに成功しても、その行為が「謀反」である以上、織田家の同僚たちから広い支持を得ることはできませんでした。

細川や筒井から見ても、羽柴秀吉、柴田勝家、信長の次男・信雄、三男・信孝が残る中で、光秀が最終的に勝ち残る可能性は低く見えたのです。

信長を倒す覚悟はあった。

しかし、信長を倒した後の天下を支配する準備も、周囲から支持される正統性もなかった。

それが明智光秀という人物の悲劇であり、本能寺の変が今も人々を引きつけ続ける理由なのではないでしょうか。


追伸:もちろん資料が出ればこれらの説は変わるかもしれません。

■司馬遼太郎先生の「斎藤道三→信長・光秀」が書かれている小説です。
国盗り物語

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