好きで揺さぶられる。
今になって気づく幸せもある。
コンビニでアイスを買った。家まで待てず、クーラーでガンガンに冷えた車の中で一本食べた。
「うっっっっっっま!!あ、冷たッ!」たったそれだけ。でも数日後、その日のことを思い出した。……小さな幸せって、こんなことなのかもしれない。そう思ったとき、ふとある質問が頭をよぎる。
「子どもの頃の最も幸せな瞬間はどんなときでしたか?」そう聞かれて、最初に出てきた答えが、「幸せなときの記憶が無いかもしれないです」だった。
いや、ないんかーーい!!って盛大にツッコんでいただいても大丈夫ですよ。しかし、悲しい。
でも、その直後に部活が出てきた。さらに修学旅行のバナナボートが出てくる。そのあとカブトムシ。さらにライブ会場。友達が作ってくれた私専用の団扇。……めちゃくちゃあるやないか。
人間の記憶って面白いものだ。幸せな記憶はないと言いながら、掘れば掘るほど出てくる。温泉か。地面を掘ったら、次々と宝箱が出てくるみたいだ。
もしかしたら私は、「幸せだった瞬間」を忘れていたのではなく、「幸せだったと認識していなかった」のかもしれない。イマ思えば幸せだった。噛み締めていなかっただけだった。
例えば、部活をやっていたとき。部活なんて、当時はめちゃくちゃ大変だったはずだった。疲れるし、怒られるし、思うようにいかないこともある。なのに思い出す。というか、当時のことを思い出してみると、部活ではまったく嫌なことが思い出せない。努力すらも楽しんでいた。努力家すぎて、軽く引かれてた。

幸せというのは、その瞬間に「私は幸せだー!!」と叫んでいる時間だけではないらしい。何かに夢中になっている時間。何かに没頭してる時間。振り返ったときに、「いい時間だったな」と思える時間。
沖縄のバナナボートも面白かった。修学旅行そのものではなく、沖縄の景色でもなく、バナナ。そこなんだ。もっと感動的なエピソードが来るかと思ったら、水上で振り回されていた記憶が残っている。友達は落ちる寸前で堪えてた。必死な顔をしてた。

人間は、壮大な景色より、身体で感じた興奮のほうを覚えている。「楽しかった」という感情は、頭より先にバナナボートに、必死にしがみついていた身体が覚えている。

そしてカブトムシ。これが私の本質だろうな。個人的に一番純粋に楽しんでいた記憶がある。イマは楽しんで触れるかは分からないけど、虫はイマでも触れる。イマまでクワガタしか採れなかった。でもそのときは、木を蹴ったらカブトムシが落っこちてきた。曲名ではなく、虫のカブトムシである。

何度も挑戦して、ずっと欲しかったものを、ついに手に入れた瞬間だった。これが人生で初めての成功体験だったのかな。だから興奮していた。幸せだった。
幸せというのは、大きさではなく、その人にとっての希少性なのかもしれない。だから経験が少ない私は、これからもっと楽しいことに出会えるかもしれない。
そしてライブ会場。これが一番皆さんも納得してくれるだろう。もちろん、アーティストの歌声が一番興奮する。でもそこには、”同じ熱量を持った人たちが集まってる”という事実自体に興奮してる。そして、同じ熱量を持った人たちは心が”繋がってる”。

人は一人でも楽しめるけど、何かを一緒に好きでいられる瞬間には別の幸福感がある。あの空間には、「好き」が大量に集まっていた。
そして最後の団扇。これが一番嬉しかったかも。
なぜなら、バナナボートもカブトムシも、自分が体験した出来事。でも団扇だけは違って、誰かが自分のために時間を使ってくれた記憶。何人かで。

しかも、”大人は喜ばなさそうなもの”だった。
だからこそ何故か嬉しかった。子どもの頃は、誰かが自分を大事にしてくれることが当たり前だったりする。でも大人になると違う。時間も余裕もない。そんな中で、「みんなで作ったよ」と言われる。団扇そのものではなく、そこに込められた時間と気持ちに感動した。
人生を振り返ってみると、幸せの記憶には共通点がある気がした。部活。バナナボート。カブトムシ。ライブ。団扇。全部バラバラに見える。でも実は、「心が大きく動いた瞬間」ばかりだった。
夢中になった。興奮した。達成した。共有した。大切にされた。つまり私にとって幸せとは、心が満たされることよりも、心が揺さぶられることなのかもしれない。
だから最初に、「幸せな記憶はないかもしれない」と思ったのに、思い出し始めたら止まらなくなってしまった。記憶の中に幸せがなかったのではなく、幸せをもっと大げさなものだと思っていただけだった。
「他にもあるだろうけど、今日はこれくらいかな」と最後に思った。私はそう思うほど、幸せを感じていたのかもしれない。

今日も読んでいただきありがとうございます。
では、また次の記事で。
素敵な一日を。
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