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昼下がりのデミグラスとシェフの秘密

遠い街にあるシャッター街のなかほどの

小さな洋食屋の扉を、

無性に開けたくなる事がある。

今はもう簡単に行ける距離ではなくなって

しまったけれど、

私の胃袋と舌と記憶には、

あの店の暖かさがしっかりと染みついている。

大好きだったのは

濃厚なデミグラスソースがたっぷりかかった

ハンバーグ。

黙々とフライパンを振る

強面で恐ろしく無口なオーナーシェフ。

そして、

狭い店内を「いらっしゃい!」と

チャキチャキ元気に動き回る奥さん。


絵に描いたような「静」と「動」の夫婦だった。


ただ、お昼時の忙しいピークが過ぎ、

ふっと客足が落ち着いた頃、

あの店には特別な時間が流れることがあった。


厨房の奥にいるシェフの様子が、

なんだかいつもと違ってくる。

それまで黙々と料理を作っていたのに

急に

「今日は仕事、忙しいの?お昼、遅いね」なんて、

カウンター越しの私に楽しそうに話しかけてくる。


手元にグラスや缶が見えるわけではない。

けれど、どんどん滑らかになっていく口調と、

ほわーと緩んだ眉間を見て、

私は心のなかでニヤリとしていた。

(あ、シェフ、裏で飲んでるな)


それが、たまに訪れるシェフの

「おしゃべりタイム」の合図だった。

私は「また始まった」と嬉しくなりながら、

シェフのとりとめもない話に相槌を打ち、

一緒におしゃべりを楽しんだ。

するとすかさず、奥さんが

「ちょっと、あんた仕事中だよ!」と

チャキチャキのツッコミを入れる。

シェフは「へへっ」と悪びれもせずお茶目に笑い、

奥さんも呆れながら怒ってはいない。


昼下がりの明るい店内に響く、賑やかな笑い声。

デミグラスソースの香り。

緩くて温かい空間が、私はたまらなく好きだった。


それから、何年も時が流れて

私は地元を離れ

風の噂で、あの無口でお茶目だったシェフが

亡くなったと知った。

とても仲の良い夫婦だったので

奥さん、大丈夫なのかなと気にはなっていたけれど、

最近になって

今は奥さんがあの場所で一人、

お店を引き継いで

店を守り続けていると聞いた。


悲しみを乗り越えて店に立ち続ける

奥さんのチャキチャキした姿と声が、

遠く離れた私のもとまで届いてくるような気がする。


今あの扉を開けたら、

ちょっとだけ

寂しい空間になっているのかもしれない。

でも、奥さんの元気な声を聞けば、

厨房の奥から「へへっ」と、

お酒の入ったシェフの楽しそうな笑い声が

今にも聞こえてくるような気がしている。

ああ

あのハンバーグが無性に食べたくなってきた。

今度、旅行がてら思い切って行って来ようかなあ。


最後まで読んで頂きありがとうございました。


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