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第16話 寄り道② 清流園と昭和の二条城ーー江戸時代の城に、なぜ昭和の庭園があるのか

本丸の北側を進むと、それまでの二条城とは少し雰囲気の異なる場所に出ます。

広い芝生が開け、その西側には池と流れ、茶室や書院風の建物が見えます。

ここが、清流園です。

二条城には、江戸時代に造られた二の丸庭園と、明治時代に整備された本丸庭園があります。

それに対して、清流園が完成したのは昭和40年(1965)です。

江戸時代の城の中に、なぜ昭和時代になって新しい庭園が造られたのでしょうか。

その背景をたどると、当時、京都市が抱えていたかなり現実的な事情が見えてきます。

清流園の場所には、テニスコートがあった

江戸時代、現在の清流園付近には、二条城の警備を担った二条在番の屋敷の一部がありました。

大正4年(1915)、大正天皇の即位に伴う大正大礼では、この一帯に大饗宴場などの施設が設けられました。行事の終了後、それらの建物は撤去されました。

戦後になると、この場所には九面のテニスコートが造られました。

二条城の中にテニスコートがあったというのは、現在の姿からは想像しにくいかもしれません。

京都市は、城の景観にふさわしくないテニスコートを撤去し、国内外から訪れる賓客を迎える施設を造ることを以前から検討していました。ただし、賓客だけが使う閉ざされた施設ではありません。市民の茶会や集会に利用でき、観光客も庭園として楽しめる場所にすることが考えられていました。

清流園は、迎賓施設と市民の庭園という、二つの役割を持つ場所として計画されたのです。

計画が動き出した、二つのきっかけ

構想はあっても、すぐに庭園を造ることはできませんでした。

計画が具体化したきっかけの一つは、テニスコートの移転先が決まったことです。

もう一つが、旧角倉家屋敷跡にあった建物、庭石、樹木などを譲り受けられることになったことでした。旧角倉家屋敷跡は、高瀬川一之船入の近く、現在の日本銀行京都支店がある場所です。

角倉了以は、江戸時代初期に高瀬川を開いた豪商として知られています。ただし、昭和まで角倉了以の時代の屋敷が、そのまま残っていたわけではありません。

その場所は、明治維新後に京都府の所有となり、明治時代には京都府営の織物工場「織殿(おりどの)」が置かれました。その後、所有者が何度か変わり、のちに実業家・田中市兵衛の別邸として使われました。建物や庭園にも、後世の改修が加えられていました。

昭和38年(1963)、日本銀行が新しい京都支店を建設するため、この土地を取得しました。新店舗の建設には、敷地にあった建物や庭園を撤去する必要がありました。

そこで京都市は、清流園の材料として利用したいと申し入れ、日本銀行から建物の一部、建築部材、庭石、樹木などを無償で譲り受けることになりました。

これらは角倉家から直接寄贈されたものではありません。日本銀行の新店舗建設をきっかけに、京都市が譲り受けたものです。

角倉家の庭を、そのまま移したのではない

清流園は、旧角倉家屋敷の庭園を、そのまま別の場所へ移したものではありません。

二条城と旧屋敷では、敷地の広さも形も異なります。建物の配置や高低差、水の流れも同じではありません。

譲り受けた庭石は約800個に及んだとされ、さらに各地から集められた銘石や、篤志家(とくしか)から寄贈された石や樹木も加えられました。

こうした建物や庭石、樹木を、新しい敷地の広さや形に合わせて再構成したのが清流園です。古い庭園を復元したのではなく、二条城の中に新しい庭園として造り直したのです。

中根金作らが設計した清流園

清流園の基本計画を担ったのは、中根金作(なかねきんさく)です。

清流園を設計した当時、中根金作は民間の造園事務所を率いる庭園家ではなく、京都府教育委員会文化財保護課の職員でした。

古庭園の調査、文化財指定、保存修理などに携わり、庭園と文化財行政の両方に詳しい専門家だったのです。

二条城は国の史跡です。城内に新しい庭を造るには、単に見栄えのよい庭を設計するだけでは足りません。二条城の歴史的景観を損なわないことや、文化財保護のための手続きを理解していることも必要でした。

中根金作は、庭園の設計者であると同時に、文化財の中で新しい庭園を造るための実務を理解する人物でもあったのです。

ただし、清流園を中根一人が造ったわけではありません。

中根の計画をもとに、二条城事務所の職員が中心となって工事を行い、京都の造園家たちも指導や協力に加わりました。

工事は昭和39年(1964)から約10か月かけて進められ、翌昭和40年4月に完成しました。

清流園は、中根金作の構想と、京都市職員や造園家たちの仕事によって造り上げられた庭園なのです。

西は日本庭園、東は洋風の芝庭

清流園の大きな特徴は、西側と東側で景色が大きく異なることです。

西側には、池、滝、流れ、石組、香雲亭、和楽庵を配した日本庭園があります。

一方、東側には広々とした芝庭が広がっています。

この芝庭は単なる空き地ではなく、迎賓や集会など、多くの人が集まる催しにも利用できる空間として設けられました。

細かな石組や水の流れを眺める西側の庭と、開放的な芝生を使う東側の庭。清流園は、この二つを組み合わせた和洋折衷庭園です。迎賓施設としての実用性を考えながら、庭園としての美しさも備えた構成になっています。

まずは、清流園の中で、日本庭園と芝庭、香雲亭、和楽庵がどのように配置されているのかを見てみましょう。

図 清流園の概略図。西側には香雲亭・和楽庵と池を配した日本庭園、東側には広い芝庭が設けられている

図を見ると、池と建物を中心とした西側の日本庭園と、開放的な東側の芝庭が、園路によって一つにつながっていることが分かります。

水の流れをたどる

庭園の北西部には滝口があり、そこから渓流が始まります。

水は、遣水(やりみず)となって茶席の前を通り、やがて広い池へと注ぎます。遣水とは、庭園の中に水を引いて流す水路のことです。滝、渓流、遣水、池と、水の姿が少しずつ変わっていきます。

「清流園」という名前のとおり、水の流れが庭全体を結んでいるのです。池から水の流れを逆にたどると、上流の滝口と庭全体の構成が分かります。

池越しに見る香雲亭

池の北側に建つ書院風の建物が、香雲亭(こううんてい)です。

香雲亭は、旧角倉家屋敷跡から移築された建物です。通常、内部は公開されていないため、南側から池越しに外観を眺めます。池、水際の石組、植栽、その奥に建つ香雲亭が一つの景色として構成されています。

庭から建物を見るだけでなく、本来は香雲亭の中から庭を眺めることも意識して造られました。

現在も、期間限定の食事提供や結婚式、各種の接遇などに使われています。日程が合えば、通常は入ることのできない香雲亭から、清流園を眺める機会もあります。

和楽庵と「残月亭写し」

池の東側にあるのが、和楽庵(わらくあん)です。

和楽庵は、旧角倉家屋敷跡から移築した数寄屋に、表千家から寄贈された茶室を増築して造られました。その茶室は、表千家にある残月亭(ざんげつてい)を模した「残月亭写し」です。

「写し」とは、元の茶室そのものを移築することではありません。名高い茶室の間取りや意匠、雰囲気などを手本にして、別の場所に造った茶室を意味します。

表千家から寄贈されたのは、この残月亭を模した茶室部分です。

現在、和楽庵は茶会などに使われるほか、通常時には茶房として利用されています。

和楽庵から庭を眺めると、建物の中から見ることを前提に設計された庭であることが分かります。

洲浜の曲線と、大きな自然石

和楽庵の前などには、小さな丸石を敷き並べた洲浜(すはま)が造られています。

洲浜とは、海や湖の浅い砂浜を表した庭園の意匠です。

小さな玉石によって描かれる柔らかな曲線と、大きな自然石を使った力強い護岸が対照的に配置されています。

古い日本庭園の形式を取り入れながら、曲線を強調した明るく現代的な景観になっています。

清流園が江戸時代の庭を復元したものではなく、昭和に設計された庭園であることを感じられる場所です。

清流園の周辺で探したいもの

清流園の南西隅には、加茂七石(かもななせき)を集めた一角があります。
加茂七石とは、京都北部の賀茂川や高野川、その周辺で産出し、京都の庭園で珍重されてきた石の総称です。

八瀬真黒石、鞍馬石、紫貴船石、紅加茂石など、七種類の石が並べられています。

「七石」といっても、古くから完全に同じ七種類に固定されていたわけではありません。資料や時代によって、石の名称や組み合わせに違いがあります。

石の名前を覚えるだけでなく、黒や灰色、紫、茶、赤といった色の違い、表面の筋や凹凸、丸みのある石と角張った石の違いから、京都の庭石の多様さが分かります。

東側の芝庭には、横たわったライオンのように見える景石(けいせき)があります。少し角度を変えながら眺めると、頭や背中、前脚のように見える部分が現れます。子どもだけでなく、大人も思わず立ち止まってしまう景石です。

清流園南側の園路沿いには、枝が下向きに垂れ、複雑に曲がりながら伸びるしだれえんじゅの木があります。7月下旬から8月上旬ごろには、蝶のような形をした小さな白い花を咲かせます。

清流園は、現在も使われている庭園

清流園は、完成後、賓客の接遇や市民大茶会などに使われてきました。現在も、香雲亭は期間限定の食事提供や結婚式に、和楽庵は茶会や茶房などに利用されています。

昭和に造られた清流園は、眺めるだけの庭ではありません。今も人が集い、人を迎える場所として使われ続けている、二条城の庭園なのです。

京都検定メモ

  • 清流園は、昭和40年(1965)に完成した二条城の庭園である。

  • 清流園の基本計画の中心となったのは、庭園家の中根金作である。

  • 清流園は、西側の日本庭園と東側の芝庭を組み合わせた和洋折衷庭園である。

  • 香雲亭は、旧角倉家屋敷跡から移築された書院風の建物である。

  • 和楽庵は、旧角倉家屋敷跡から移築した数寄屋に、表千家から寄贈された残月亭写しの茶室を増築した建物である。

  • 清流園の南西部には、京都の庭園で珍重されてきた加茂七石が集められている。

用語メモ

清流園(せいりゅうえん)
昭和40年(1965)に完成した二条城の庭園。旧角倉家屋敷跡から譲り受けた建物、庭石、樹木などを生かして造られた。西側の日本庭園と東側の芝庭からなる。

角倉了以(すみのくらりょうい)
江戸時代初期の豪商。高瀬川の開削などで知られる。清流園には、角倉家屋敷跡にあった建物や庭石などが利用されているが、了以の時代の庭園をそのまま移したものではない。

旧角倉家屋敷跡(きゅうすみのくらけやしきあと)
高瀬川一之船入の近くにあった角倉家ゆかりの屋敷跡。現在は日本銀行京都支店が建つ。昭和38年(1963)、建物の一部や庭石、樹木などが京都市へ譲られ、清流園に利用された。

織殿(おりどの)
明治時代、旧角倉家屋敷跡に置かれた京都府営の織物工場。明治7年(1874)に織工場として設置され、のちに「織殿」と改称された。

中根金作(なかねきんさく)
昭和を代表する庭園家。清流園の基本計画の中心となった。当時は京都府教育委員会文化財保護課に勤務し、古庭園の調査や保存修理にも携わっていた。

和洋折衷庭園(わようせっちゅうていえん)
日本庭園と洋風庭園の特徴を組み合わせた庭園。清流園では、西側に池や流れのある日本庭園、東側に広い芝庭が設けられている。

香雲亭(こううんてい)
清流園の池の北側に建つ書院風の建物。旧角倉家屋敷跡から移築され、現在も接遇や食事会、結婚式などに利用されることがある。

和楽庵(わらくあん)
旧角倉家屋敷跡から移築した数寄屋に、表千家から寄贈された残月亭写しの茶室を増築した建物。茶会や茶房などに利用されている。

残月亭写し(ざんげつていうつし)
表千家の茶室「残月亭」の間取りや意匠を手本にして造られた茶室。「写し」は、元の建物を移築したという意味ではない。

遣水(やりみず)
庭園内に水を引いて流す水路。清流園では、滝口から始まった水が渓流、遣水を経て池へ注ぐ。

洲浜(すはま)
小さな丸石などを敷き、海や湖の浅い砂浜を表した庭園の意匠。清流園では、柔らかな曲線を描く洲浜と大きな自然石の護岸が組み合わされている。

加茂七石(かもななせき)
賀茂川・高野川の水系と、その周辺の山地で産出し、京都の庭園で使われてきた銘石の総称。七種類の組み合わせは資料によって異なるが、清流園には、糸掛石、八瀬真黒石、紫貴船石、畑石、鞍馬石、畚下石、紅加茂石の七種類が並べられている。

景石(けいせき)
庭園の景観を整え、見どころをつくるために置かれた石のこと。

糸掛石(いとかけいし)
表面に、糸を引いたような細かな筋や模様が見られる石。茶色や黒色を帯びるものがあり、産出量が少ないため、庭の要所に置く景石などに使われた。

八瀬真黒石(やせまぐろいし)
八瀬方面から産出する黒色または灰色の石。川の流れによって角が取れ、平らな面と丸みを持つものが多い。延段の敷石、飛石、礎石、蹲踞の役石など、京都の庭で幅広く使われた。

紫貴船石(むらさききぶねいし)
貴船川周辺で産出する貴船石のうち、紫色や青紫色、蓬色などを帯びる石。石積、延段、蹲踞の役石に使われ、姿のよいものは景石としても珍重された。

畑石(はたいし)
雲ヶ畑石(くもがはたいし)とも呼ばれ、賀茂川上流の雲ヶ畑周辺で産出する石。赤みや小豆色を帯びたものが多く、主に景石として使われた。

鞍馬石(くらまいし)
鞍馬周辺の山や谷から産出する、硬くきめの細かい石。土の中から丸みを帯びた状態で見つかるものが多く、自然の形を生かして沓脱石、飛石、石積、景石、石灯籠などに使われた。

畚下石(ふごおろしいし)
鞍馬・静原など京都北部の山地で産出する石。かつて火打ち石の材料を「畚(ふご)」という籠に入れて山から下ろしたことが、名称の由来とされる。円通寺庭園などで景石として使われている。

紅加茂石(べにかもいし)
鮮やかな赤色を特徴とする石。赤と白が入り交じったものは、肉の霜降りのように見えることから「肉石」と呼ばれる場合もある。庭のアクセントとなる景石や、室内で鑑賞する水石として珍重された。

しだれえんじゅ(枝垂槐)
マメ科の落葉高木であるエンジュの園芸品種。枝が下向きに垂れ、複雑に曲がりながら伸びる。夏には白色から淡い黄白色の小さな花を咲かせる。エンジュは中国で、出世や繁栄を象徴する縁起のよい木とされる。

大饗宴場(だいきょうえんじょう)
大正4年(1915)の大正大礼に際して、二条城内に設けられた大規模な宴会施設。現在の清流園付近に建てられ、行事後に撤去された。

二条在番(にじょうざいばん)
江戸から二条城へ派遣され、城の警備や管理を担当した武士。江戸時代の清流園付近には、二条在番の屋敷の一部があった。

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