向日葵と名前のない花
母は、向日葵が好きだった。
夏になると、庭に向日葵を植えたがった。
大きな花が太陽を向いて、黄色い花びらをいっぱいに広げる。
遠くからでもよく見える。
誰が見ても、それが向日葵だとわかる。
「綺麗でしょう」
母はそう言って笑った。
私は、向日葵が少し苦手だった。
嫌いなわけではない。
ただ、あまりにもヒロインすぎると思っていた。
太陽。
夏。
青空。
笑顔。
全部が揃っていて、最初から物語の主役になることが決まっているみたいだった。
私はむしろ、道端に咲いている名前の知らない花が好きだった。
誰かが植えたわけでもない。
水をあげる人もいない。
花壇の中に綺麗に並べられることもなく、
雑草と呼ばれて、時には邪魔だと抜かれる。
それでも、アスファルトの隙間から顔を出していた。
雨が降れば濡れて、
夏になれば焼けるような日差しを浴びて、
誰にも見つけてもらえなくても咲いている。
私は、そういう花を見ると少し嬉しくなった。
「頑張ってるね」
誰に聞かせるでもなく、心の中でそう言った。
ある日、母と二人で歩いていた。
母はいつものように、道端の花には気づかなかった。
私はしゃがんで、その小さな花を見ていた。
「何してるの?」
「花見てる」
「そんなところに花なんてある?」
母は笑った。
私は指を差した。
「ほら。ここ」
母は少しだけ屈んで、花を見た。
「ほんとだ」
それだけ言って、また歩き出した。
私はその背中を見ながら思った。
母は、向日葵が好き。
私は、誰にも見られずに咲いている花が好き。
好きな花まで、私たちは違う。
そう思っていた。
けれど、不思議なことに。
人間の私たちは、まるで逆だった。
母は、誰にも見せるためではないような強さを持っていた。
何かを言い訳にすることもなく、
誰かに助けてもらおうとすることもなく、
自分の足で立っている人だった。
大きな声で「見て」と言わなくても、
そこにいるだけで、ずっと強かった。
私はというと、人に見つけてもらうのが好きだった。
誰かに愛されることが嬉しかった。
誰かの心に残ることが嬉しかった。
笑って、話して、好きになって、好きになってもらって。
気づけば私は、向日葵みたいだった。
明るく咲いて、
人の目に映って、
誰かの夏の記憶になろうとしていた。
母が好きな花と、
私が好きな花。
なのに、人間としての私たちは、まるで反対だった。
そのことに気づいたとき、ふと思った。
人は、自分に似たものを好きになるのだろうか。
それとも、自分にはないものを持っているものに惹かれるのだろうか。
母が向日葵を好きなのは、
もしかしたら、向日葵みたいに生きてみたかったからなのかもしれない。
太陽を見て、
堂々と顔を上げて、
誰に見られても恥ずかしくないくらい、明るく咲く。
そして私が、名前のない花を好きなのは、
もしかしたら、その花の中に、自分がまだ知らない自分を見ているからなのかもしれない。
誰にも愛されない日があっても。
誰にも見つけてもらえない場所にいても。
それでも、自分の力で咲いていられる強さ。
誰かに水をもらわなくても、
誰かに「綺麗だ」と言ってもらわなくても、
自分の季節が来れば、ちゃんと花を咲かせる強さ。
私はそれに、憧れているのかもしれない。
帰り道、母がふいに立ち止まった。
「ねえ」
「ん?」
母が道端を指差した。
「この花、可愛いね」
私は笑った。
「名前、知らないけどね」
「知らなくてもいいじゃない」
母はそう言った。
その言葉が、あまりにも美しくてそんな母も美しくてなぜだかずっと心に残った。
家に帰ると、庭の向日葵が夕日に照らされていた。
大きくて、明るくて、どこから見ても向日葵だった。
私はその隣の、誰にも植えられていない小さな花を見た。
どちらも咲いていた。
太陽の下で。
名前があっても、なくても。
誰かに愛されても、愛されなくても。
花は、自分の花を咲かせる。
そして人もきっと同じなのだ。
自分にないものを好きになることもある。
自分の中にあるものを、誰かの中に見つけることもある。
だから母は向日葵を好きで、
私は名前のない花を好きだった。
それは、私たちが違うからではなくて。
もしかしたら、
お互いが自分の中にないものを、
ずっと好きだったからなのかもしれない。
私は母の背中を思い出した。
誰にも見られなくても、
誰にも褒められなくても、
ずっとそこに咲いていた人。
そして少しだけ笑った。
「お母さんって、向日葵よりずっと道端の花みたいだね」
きっと本人には、意味がわからない。
でも、それでいい。
花の名前を知らなくても、花は咲く。
好きになった理由がわからなくても、
人は誰かに惹かれる。
もしかしたら「好き」という気持ちは、
自分がまだ出会っていない自分を、
誰かや何かの中に見つけたときに生まれるものなのかもしれない。
窓の外で、向日葵が揺れていた。
その足元では、
名前のない小さな花が、
誰にも気づかれないまま咲いていた。
