『みいちゃんと山田さん』を読んだあとで、静かに考えたこと
昨年の十二月、『みいちゃんと山田さん』について、少しだけ書いた。
それからずっと、この作品は私の頭の片隅にいた。
片隅というのは不思議な場所で、普段はほとんど忘れているのに、ふとした拍子にひょっこり出てくる。
「あ、そういえば、みいちゃん」
という感じで。
かわいらしい絵柄なのに、その下にはずいぶん重たいものが沈んでいる。
知的障害や境界知能、届かない支援、夜の世界、搾取、家族との距離。
読んでいると、ときどき胸のあたりに小さな石を置かれたような気持ちになる。
その石は、読み終わっても、なかなかどいてくれない。
そして今年、アニメ化が発表された。
すると作品のまわりの声が、一気に大きくなった。
障害のある人への支援に関わる団体からも、アニメ化そのものに一律に反対するのではなく、描き方や映像化による影響について懸念を示す意見が出た。
それは自然なことだと思う。
漫画がアニメになれば、声がつく。
音楽がつく。
動く。
そして、原作を読んでいない人のところにも届いていく。
漫画なら、嫌になったところで本を閉じることができる。
「今日はここまで」
と、布団の中に本を置くこともできる。
アニメはそうはいかない。
こちらがぼんやりテレビを見ている間にも、音楽が流れ、人物が動き、物語は進んでいく。
人間というのは、意外と受け身に弱い。
だからこそ、慎重な意見が出ることには意味があると思う。
ただ、私はそのやり取りを見ながら、別のことも考えていた。
作品を批判することと、作品に関わった人を攻撃することは、同じではない。
当事者だから正しい。
当事者ではないから間違っている。
そんな簡単な話でもない。
反対に、作品を面白いと思ったからといって、障害のある人を軽く扱っていいわけでもない。
この二つを分けて考えることが、今はとても難しくなっている気がする。
人間は、どうも「どっち?」と聞くのが好きなのだ。
白か黒か。
賛成か反対か。
味方か敵か。
できれば冷蔵庫の中のヨーグルトまで、私の味方か敵か決めたいくらいである。
でも、作品を読むということは、本来もう少し曖昧なものだったはずだ。
私は、周辺の議論だけを読んで、この作品について何かを言うのは違う気がした。
だから、出ている分だけ紙媒体で読んでみた。
読んでよかったと思っている。
もちろん、露悪的に感じるところはある。
みいちゃんの不幸が、少し重なりすぎているように感じる場面もある。
弱い立場にいる男性の描かれ方も、かなり厳しい。
「そこまで描くのか」
と思うこともあった。
それでも、漫画として読ませる力は強かった。
最初から「こうなる」と示されているのに、そこへ向かっていく過程を読ませる。
かわいらしい絵柄と、山田さんの世界が変わっていくときの生々しい描写。
その落差も印象に残った。
途中には、少年犯罪や非行について書かれた著書で知られる宮口幸治さんとの対談も掲載されている。
少なくとも私は、この作品を「障害者を面白がる漫画」とだけ受け取ることはできなかった。
だからといって、問題がないと言いたいわけではない。
むしろ、読んだからこそ、引っかかるところが増えた。
そして、その「引っかかり」は、案外大切なものなのだと思う。
私はこの作品を読んで、「障害そのもの」よりも、「障害のある人を社会がどう見てしまうのか」ということを強く考えた。
みいちゃんを見て、
「この人は、どうしてこうなったのだろう」
と思う。
でも、そのすぐあとに、
「周りの人は、この人をどう見ていたのだろう」
とも思う。
支援が足りなかったのかもしれない。
環境が悪かったのかもしれない。
本人にもいろいろな事情があったのだろう。
けれど、その人を見る私たちの目にも、何か問題があるのかもしれない。
面白がる目。
見下す目。
決めつける目。
「自分とは違う人」を、どこか遠くから眺める目。
誰かの人生を、自分の人生とは関係のない物語として消費してしまう目。
そういうものが、この作品の中には描かれているように思った。
だから私は、この作品を「障害への理解を深める漫画」と簡単に呼ぶことには、少し違和感がある。
むしろ、
障害のある人が社会の中でどんなふうに見られ、扱われ、傷ついていくのか。
そのことを描いた作品として読んだほうが、私にはしっくりくる。
そして、アニメ化をめぐる騒動を見ながら、もう一つ気になったことがある。
作品が、作品の外側で別の物語を始めてしまうことだ。
誰かが批判する。
別の誰かが反論する。
そのうち、作品ではなく、発言した人間のほうが話題になる。
過去の投稿が掘り起こされる。
言葉の一部分が切り取られる。
怒った人を見て、また誰かが怒る。
さらにその人を見て、別の人が怒る。
気がつくと、
「そもそも、何の話でしたっけ?」
となる。
SNSには、ときどきそういう不思議な場所がある。
みんな真剣なのに、話がどんどん遠くへ行ってしまう。
まるで、駅を間違えたまま、全員が自信満々に乗り換えているような感じだ。
そして私は、そこに少し怖さを感じる。
『みいちゃんと山田さん』が描いている「人を見る目」の問題が、作品の外側でも繰り返されているように見えるからだ。
誰かの人生を眺める。
誰かの失敗を見る。
誰かの不幸を見る。
そして、その人より自分のほうがまともだと思って、ほんの少し安心する。
それは、障害のある人に向けられる視線だけの問題ではない。
SNSを使っている私たち全員の問題なのだと思う。
だから私は、この作品について何かを書くとき、できるだけ静かに書きたい。
作品に疑問を持つ人を否定したくない。
当事者の方が傷ついたという言葉を、
「考えすぎですよ」
と簡単に片づけたくもない。
反対意見が出ることには、それなりの理由がある。
一方で、
「面白かった」
と思った人を、無理解な人間だと決めつける必要もない。
そして何より、「当事者」という言葉を、ひとつの大きな塊にしてしまうことも避けたい。
当事者と呼ばれる人の中にも、いろいろな人がいる。
好きなものも違う。
嫌いなものも違う。
傷つくところも違う。
笑うところも違う。
一人ひとり、ちゃんと違う人間なのだ。
だから、一人の意見が「当事者の総意」になるわけではない。
反対に、一人の言葉だけを取り上げて、
「ほら、当事者もこう言っている」
と都合よく使うことも違うと思う。
最近では、当事者団体への抗議を求める動きや、担当者個人への攻撃にまで話が広がったことも報じられている。
そこまで行ってしまうと、もう作品について考えることとは別の問題になってしまう。
怒ることと、誰かを傷つけることは違う。
批判することと、絡み続けることも違う。
自分の意見を言うことと、相手を黙らせることも違う。
私は、その境目だけは大切にしたい。
人には、人の居場所が必要だからだ。
作品を好きだと言える場所。
嫌いだと言える場所。
よく分からない、と言える場所。
読んだけれど苦しかった、と言える場所。
それでも私は好きだった、と言える場所。
「まだ考え中です」
と、結論を出さないまま座っていられる場所。
そういう場所が、もう少しあってもいいと思う。
世の中には、正解を言わないと座っていられない椅子が多すぎる。
少し黙っていると、
「あなたはどっちなんですか?」
と聞かれる。
いや、まだ靴も脱いでいません。
もう少しここにいさせてください。
私はそう思うことがある。
『みいちゃんと山田さん』は、たぶん誰にとっても気持ちのいい作品ではない。
読んでいて苦しくなる。
腹が立つところもある。
「そこまで描く必要があるのだろうか」
と思うところもある。
それでも私は読んだ。
そして、漫画として面白いと思ったところもあった。
だからこそ、簡単に「良い作品」「悪い作品」のどちらかに置いてしまいたくない。
作品を読むということは、好きになることとも、擁護することとも、批判することとも少し違う。
ただ読んで、自分の中に残ったものを眺める。
胸の奥に残った石を、すぐに捨てずに、
「これは何だろう」
と手のひらに乗せてみる。
私は今、そのくらいの距離で、この作品を見ていたい。
アニメ化について慎重な意見が出ることも理解できる。
作品が社会に与える影響について考えることも必要だと思う。
一方で、不快さや残酷さを描いたことだけを理由に、描く自由までなくなってほしくはない。
そして、どちらの側に立つにしても、怒りを理由に誰かを傷つけるところまでは行ってほしくない。
作品の中で、人が人を見る目が描かれている。
その作品をめぐって、現実の私たちもまた、お互いを見ている。
だったらせめて、その視線だけは少し丁寧でありたい。
私は当事者の代表でも、支援者の代表でもない。
ただ、この漫画を読んだ一人の人間だ。
だから、
「私はこう感じました」
と、小さく置いておきたい。
誰かに踏まれないように、大きな声で叫ぶのではなく。
誰かを負かすためでもなく。
正しい場所を取りに行くためでもなく。
ただ、自分の感じたことを、そっと置いておく。
そして、もしそこに誰かが来たら、
「あなたはどう感じましたか」
と聞けるくらいの場所であればいい。
そこが、作品をめぐる小さな居場所になればいい。
人間は、正しい場所に座ることよりも、
安心して座っていられる場所を見つけるほうが、
本当はずっと難しいのかもしれない。
だから私は、ここに座っている。
みいちゃんのことを考えながら。
山田さんのことを考えながら。
作品を作った人のことも、批判した人のことも、傷ついた人のことも、面白いと思った人のことも、全部少しずつ考えながら。
まだ答えは出ていない。
でも、答えが出ていないままでも、ここにいていいと思う。
たぶん今は、それくらいがちょうどいい。
