🌹女風土記🌹 熊本県上益城郡 日本‐南アフリカ貿易の開拓者 古谷(飯星)喜代子 女史 / Japan-South Africa Trade Pioneer, Ms. Kiyoko Furuya

「ハワイハワイと夢見てきたが 流す涙は甘庶(きび)の中
行こかメリケン 帰ろか日本 ここが思案のハワイ国」(ホレホレ節)
"Dreamed of Hawaii, now my tears fall in the sugarcane. To America or Japan? Hawaii makes me choose."
古谷(飯星)喜代子 女史
Ms. Kiyoko Furuya / Ihoshi
1875 - 1924
熊本県上益城郡 生誕
Born in Kamimashiki-gun, Kumamoto-ken
古谷(飯星)喜代子女史は、夫・古谷駒平とともにケープタウンにミカド商会を設立。日本-南アフリカ貿易の途を拓いた開拓者。
Ms. Kiyoko (Iihoshi) Furuya, along with her husband Komahei Furuya, established Mikado Shokai in Cape Town and became a pioneer who blazed a trail for Japan-South Africa trade.
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「焦土」
喜代子は熊本県上益城郡に誕生。2歳のときに、西郷隆盛を首領として国内最後の内戦「西南戦争」が開戦。鹿児島を出発して東京を目指す薩摩軍の進路を、熊本鎮台少将・谷干城が熊本城で阻みます。次々と送り込まれてくる政府軍と、薩摩に呼応する熊本・宮崎の士族隊が、田原坂はじめ菊池・山鹿・阿蘇・三船・矢部(山都)・八代・人吉と熊本の広い範囲で激戦を繰り広げます。おびただしい数の死傷者のうち、薩摩軍側の死傷者は山野に放置されたままで目を覆うばかりの惨状に、征討総督の有栖川宮熾仁親王から許可を得た佐野常民により「博愛社」(日本赤十字社の前身)が設立されます。家は焼かれ、田畑や財産を失い、働き手を軍に徴用され、多くの死傷者を出し、明治維新が達成。近代化への道を歩み出す日本を後にして、喜代子は日布移民条約(明治19/1886年)に基づく官約移民として、家族でハワイに渡ります。
「ハワイ出稼ぎ移民」
官約移民の契約期間は3年、給料は月額15ドル。喜代子らは安価な労働力の「出稼ぎ移民」として、白人が経営するホノルルのサトウキビ農園に配属され、雑居同然のキャンプ生活で寝起きし、労働監督からムチで打たれながら、早朝から夕暮れまで長時間労働に従事します。喜代子はまとまったお金を持って帰ろうと懸命に働きますが、日本でインフレが進行、契約期間が満了しても引き続き農園で働きます。そこで農園労働者らのもとワインの注文取りに来ていた、白人酒商店のボーイ・古谷駒平と知り合います。単身渡米した身につけた堪能な英語、柔道有段者で豪胆痛快。数年後には、日系移民向けに日本酒を輸入して蓄財した駒平と喜代子は結婚。ホノルルの繁華街キング・ストリートに雜貨店を開業します。しっかりものの喜代子が会計面をしっかり支えて繁盛するも、米国人農園主らによる議会クーデター、米国海兵隊によるイオラニ宮殿の包囲、リリウオカラニ女王の幽閉、ハワイ王朝廃止と米国併合。そして、牧師・税関職員・コーヒー農園主・日経新聞発行者である星名謙一郎のアヘン密売に関わった罪で夫・駒平が逮捕されてしまいます。
「ミカド商会」
官約移民は中止され、民間移行された移民事業は劣悪な労働を強い、家族から単身男性中心となった日系移民の中に酒・賭博・麻薬・売春がはびこります。日本人・日本製品の排斥運動が米国本国からハワイに及び、ハワイ政府は日本人移民のハワイ上陸を拒絶、626人を強制送還する事件が起こります。スペインとアメリカの戦争開始前に、喜代子と駒平は店を閉じて一時帰国すると、日本商品を大量に仕入れ、南アフリカのケープタウンを目指します。横浜を出発して香港・シンガポール・ボンベイで船を乗り継ぎ、6か月後に到着。オランダ人入植者子孫ブール人によるトランスヴァール共和国ならびにオレンジ自由国の併合を目論むのは、ダイヤモンドのデ・ビアス鉱山はじめイギリス南アフリカ会社を設立してケープ植民地首相に就任したセシル・ローズ。喜代子と駒平が南アフリカのケープタウンでミカド商会を興した翌年、南アフリカ戦争が勃発(1898年)。イギリス軍から受注を受けて利益を上げます。続いて、英国博物館から東洋古器物の整理を委托、支那・インドから収集した古器物を博物館に売り込んで利益を得て、西洋人の店員7・8人、日本人店員4・5人を雇うまでになります。
「ノリタケ」
からゆきさん以外ほとんど日本女性の姿を見ることのないアフリカ大陸の白人中心社会で、夫ともにアフリカ大陸唯一の日本人商店であるミカド商会を守る喜代子は、子供に恵まれないながらも店を訪れる青年たちの世話をよくします。単身帰国して商品仕入れするなど活動的に店を切り盛りするも、やがて望郷の念耐えがたく、40歳のとき夫と帰国するとそのまま日本へ定住します。その8年後、英国による日本人排斥がひどくなると、夫・駒平も従業員たちにケープタウンでの商売を任せ帰国、箱根山麓小田原町に豪邸を建設して、波乱万丈な人生を共に歩んだ喜代子と閑静平穏なる終の住処とします。アメリカ貿易の開祖でノリタケ創業者・森村市左衛門と共同出資して神戸にミカド合資株式会社を、ケープタウンにミカド貿易株式会社を設立した夫は、監督を任せられた森村商事横浜店で勤務中に、従業員らとともに関東大震災に遭遇。遺された喜代子は、ケープタウンで苦労を共にした夫の姪夫婦と暮らし、夫妻の子供を養子に迎えます。夫の郷里・茨城縣筑波郡小田村の小學校はじめ神社仏閣に多額の寄付・寄進をして紺綬褒章を下賜された直後、夫・駒平を追うこと6年後の54歳で逝去。上品できれいな顔立ちながら、喜代子の手だけは、人並み以上に荒れていたと言います。

-「アフリカに渡った日本人」(青木澄夫 著 / 時事通信社1993)
-「練習船大成丸世界周航写真帖」(商船学校1911)
-「大日本徳行録 第2巻」(大日本徳行録刊行会1943)
-日本赤十字社
-日本ハワイ移民資料館
-ノリタケ株式会社
-Canefield Songs: Holehole Bushi (ハワイのホレホレ節)| PBS HAWAI‘I PRESENTS

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