🌹女風土記🌹 静岡県掛川市 東京女子医科大学を創立 吉岡 彌生 女史 / Founder of Tokyo Women's Medical University, Ms. Yayoi Yoshikawa

「私は誰にも頭を抑えられたことがありません。誰の判断も仰いだことがありません。何事も一切自分の一存で決めてそれを断行してきました。」
"I have never been suppressed. I have never deferred. I have decided and acted on my own alone."
吉岡 彌生 女史
Ms. Yayoi Yoshioka
1871 - 1959
静岡県掛川市 生誕
Born in Kakegawa-city, Sizuoka-ken
吉岡彌生女史は夫・吉岡荒太とともに女性医師専門養成所である「東京女医学校」を創設(現在の東京女子医科大学)、女性医師の養成はじめ女性の向上のために尽力しました。
Dr. Yayoi Yoshioka, along with her husband Arata Yoshioka, founded the Tokyo Women's Medical School (now Tokyo Women's Medical University), a specialized training institution for female doctors. She dedicated herself to the training of women physicians and the overall advancement of women.
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「高天神城のふもと」
「高天神を制するものは遠州を制する」といわれ、戦国時代に徳川家と武田家で攻防戦を繰り広げたあとに、織田信長の支援を得た徳川家康が落城した「高天神城」。そのふもとの土方村で代々造り酒屋を営む鷲山家から分家した醤油屋鷲山家は、跡取り娘・ひさの娘婿となった漢方医・鷲山養齋が相場に手を出してあちこち不義理な借金をつくり、失敗を打開しようと幕末の江戸に出て蘭学を学びます。1年後、維新の変政で医科全書と聴診器そして沃土加里・杏仁水・モルヒネなどの西洋薬を持って養家に戻ると、漢方医ばかりの村で信用を回復。心労でまもなく逝去したひさの後妻に迎えた松浦みせは、庄屋の娘で代官屋敷に長く勤めて料理・礼法・髪結い・着付け・化粧を村人たちから重宝がられるものの、次々と生まれてくる子供達の世話はじめ大家族の家事に追われます。彌生が誕生してまもなく戊辰戦争が始まり、土方村を含む遠州地方では神官を中心とする「遠州報国隊」 が大総督・有栖川宮の東征軍に従軍、佐幕派と勤王派の二派に別れる掛川藩は「偽戦」をして掛川城を東征軍に明け渡すと、静岡藩70万石に封ぜられた徳川家達と入れ代りに千葉県芝山に転封。9人きょうだいになった彌生のまわりはあわただしく変遷していきます。
「済生学舎の女子席」
小学校を卒業すると裁縫教室に通いながら、台所仕事に蚕の世話に機織りに縫物に母に倣って家事を手伝います。やがて村にも文明開化が押し寄せ、東海筋の掛川宿場から東京の雑誌や新聞が届くようになります。男女同権や婦人参政権を訴える岸田湘煙、爆弾を抱えて朝鮮に渡ろうとした影山英子の記事を15・6歳の彌生は手に汗を握って夢中で読みます。放蕩で医科大学を中退し「済生学舎」に通い始めた兄から、女医第一号として活躍する荻野吟子はじめ医師志願の女子たちの話を聞いた彌生は、独学で勉強を始め見合いを3度断って父親に嘆願、19歳のときにようやく2年の条件付きで「済生学舎」へ入学します。「月謝(月謝1円と講堂費30銭)さえ払えば来るもの拒まず」古い旗本屋敷あとにどしどし入学してくる生徒たちで何時も教室は超満員、机も椅子も足りず、廊下の外にはみ出して窓の外から首を伸ばして講義を聞く男子学生らに囃し立てられ野次を飛ばされるのを跳ね返しながら、学校に通ったことのない小娘から女学校卒業生また医者の娘や人妻まで様々な女医志願者たちと切磋琢磨します。10年かかるものもいる中、彌生は2年後の21歳で内務省医術開業試験に合格。人力車が数百と並ぶ順天堂医院へ見学に通って帰郷を先延ばしにするものの、催促されて帰郷すると大坂村と大須賀村(横須賀)にある父の病院の分院を手伝い、時には失敗もしながら内科・外科から歯の治療までさまざまな患者を診察します。
「東京至誠学院」
「医学の本場ドイツへ洋行して本物の勉強をしてみたい」女役者を囲って負い目のある父親にしつこくせがんで上京すると、本郷の私塾「東京至誠学院」でドイツ語を習い始める傍ら、「女学校へ行って女の学問をしてみたい」愛読する雑誌『女鏡』で日本固有の婦徳を説く女性教育家・跡見花蹊を慕って跡見女学校の専科に入学。昼は自由に勉学をして、夜は研究に戻った知人医師宅を借りて開業した「鷲山医院」で近所の人を診療します。「兄は病気の為に大学を諦めて自分たちのために犠牲になって働いている」彌生は「東京至誠学院」院長の吉岡荒太と結婚します。彌生は父親の援助を引き出し飯田にある西洋料理屋と隣の長屋を借り受け、夫・荒太はドイツ語の他に英語・漢文・数学など高等学校の受験準備を教える高等予備校を始め、「医書独修講義録(12冊完結、1部60銭、全納6円)」を出版し「ドイツ語の通信講義録(36冊完結、1部15銭、全納4円22銭)」を始めます。彌生は学業を続けながらも経営に没頭し、生徒の寄宿舎とした長屋で食費をうんと安くして家族的に待遇、新聞広告を扱う「博報堂」に奮発して広告を出し、夫の他に抱える3人の先生たちへの給与を算段。その傍らで、引退医師から向かいの家を借りて「東京至誠医院」を開業、袴を履いて銭湯に行って患者を集め、夜中でも快く往診して評判を広げます。
「東京女医学校」
火の車のような経営が続いて高利貸しに手を出し、神田の私設小学校あとに校舎を移すと、超人的な労働をしていた夫・新太が糖尿病を患ったのを契機に「東京至誠学院」を閉鎖し生徒の寄宿舎を解散、個人教授と通信講義に専念します。日清戦争後、救世軍による「娼妓の自由廃業運動」が全国で流行する新しい世の中で、母校の「済生学舎」でこれまで女学生を排斥して喜んでいた一部の男子学生が、今度は男女交際を唱えて女学生の後を追い回すようになり、風紀を乱すという理由で「済生学舎」は女子の入学を拒否します。「女医の命脈だけは絶ちたくない」この知らせを聞いた彌生は夫の協力のもと、飯田町の「東京至誠医院」の一室に粗末な机と椅子を並べて「東京女医学校」の看板を掲げます。生徒はたった4人からのスタート。「済生学舎」の女医志願者らが立ち上げた「女子医学研修所」から生徒を引き抜かれ、男性教授陣から合同運営を一蹴されます。市ヶ谷で政友会・岡崎邦輔の元屋敷に移り住んで1階を寄宿舎に2階を教室に別棟を夫婦の部屋と食堂にして学校らしくすると、大学の先生に頭を下げて講師を頼みます。やがて河田町にある陸軍獣医学校跡を生徒にねだられ、1000坪の広い敷地に囲まれた70坪の一戸建て西洋館に移って創立3周年記念講演会・音楽会を主宰。36名の生徒たちと各界の有力者を訪問して切符を売りつけた400円で研究設備や寄宿舎を整えます。
「東京女子医学専門学校」
臨床実習のために校門の前で網を張って顔色の悪そうな人を引っ張ってきたり、解剖実習のために行き倒れ人を探し歩いて交番に届けて屍体を貰ってくる生徒達はじめ、夫また郷里の父に支えられながら、7年後に竹内茂代を医術開業試験合格者として送り出します。「手術で平気で血を流す殺伐な女が増えたら国が亡びる」「女は月経があるから手術室が汚れる」卒業式会場は大混乱。「10年ないし15年の歳月を持って見よ。事実に現れ来たる成績の如何によって果たして女医が適当なるものか、不適当なるものかという結果が分かるんであるんである。」大隈重信の鶴の一声の通り、日露戦争後には女性の職業教育・高等教育の波が急に高まり、女医志願者が押し寄せます。100名の生徒を抱える頃、誰でも受けられていた医術開業試験が医学専門学校卒業生に限定され、母校「済生学舎」が廃校。彌生は文部省に何度も足を運んで半年後に視学官の派遣を受け、1年半後に「付属病院に各科の診療所、25室以上の病室、1年間に25体以上の解剖、経営主体は財団法人」という認可条件を提示されます。増築校舎を東京市拡張道路で壊され、隣の陸軍用地を借り受けて診療所と解剖実習室を増築。12年目にして「東京女子医学専門学校」に昇格を果たします。その直後に「屍体樽詰め事件」として新聞に書き立てられるも、医学専門学校での屍体貯蔵が文部省と検事局の黙認とされるのに貢献。翌年の第1期卒業生46名うち27名が医学試験に合格、志願者が300名を超える頃に文部省指定校となり、卒業生は無試験で医師資格が取れるようになります。
「東京女子医科大学」
「ぜひ大学に築き上げたい。大学になるまでは死ねない。」経営の実際を引き受け3階建ての大講堂建設に心血を注いでいた夫・荒太が逝去。彌生は掛け持ちする「東京至誠医院」改め「東京至誠病院」を大変に繁盛させ、志那事変で建築費が暴騰する最中に学校と寄宿舎と病院を建替えます。「東京女子学会」を設立し『東京女医学学会』を刊行、ホノルルで開かれた第1回汎太平洋婦人会議に日本女医会の代表として出席します。日中戦争開戦の年に女性初の内閣教育審議会の委員に任命され、太平洋戦争がはじまると国民精神総動員中央聯盟はじめ、婦人国策委員第一号、愛国婦人会評議員、大日本連合女子青年団長、大日本婦人会顧問などに就任。ナチス婦人団から招待をうけた彌生は、48年続けてた医者を引退しナチス政権化のドイツに渡って最新医学はじめ家政倹約・母親支援・就労女性の子供の世話・病人看護・近隣互助活動など銃後の女性組織を見学。ナチス・ドイツ女医会と積極的に交流しながら戦時下で女性ならびに女性医師の地位向上を目指します。敗戦後は、戦争協力に指導的な役割を果たした廉で教職ならびに公職を追放され、戦争責任ならびに民主化実現を求める労働組合運動を受けて学内から去ります。まもなくGHQの赤狩りにより労働組合が解散に追い込まれると、校長に舞い戻った「東京女子医学専門学校」が創立50周年で「東京女子医科大学」に昇格するのを見届け80歳で引退、88歳で死去。遺体は遺言により解剖に付されます。
-掛川市吉岡彌生記念館 Kakegawa City Yayoi Yoshikawa Memorial Museum
-東京女子医科大学 Tokyo Women Medical Univ.
-『吉岡弥生伝』(吉岡弥生女史伝記編纂委員会 編 / 吉岡弥生伝伝記刊行会1967年)
-『この十年間 : 続 吉岡弥生伝』(吉岡弥生 著 / 学風書院1952年)
-「静岡県の医史と医家伝」(土屋重朗 著 戸田書店1973)
-今、よみがえる高天神城 掛川市
-2.幕末・明治初期の房総諸藩 静岡県

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