🌹女風土記🌹 岐阜県恵那市 近代女子教育の開拓者 下田 歌子 女史 / Pioneer of Modern Female Education in Japan, Ms. Utako Shimoda

「女性の清らかな徳性とゆたかな情操をもって社会の弊を正し、広く世人に至福をもたらせ」
"Through the grace and heart of women, heal the world and uplift humanity."
下田 歌子 女史
Ms. Utako Shimoda
1854 - 1936
岐阜県恵那市岩村町 生誕
Born in Iwamura-machi, Enashi-city, Gifu-ken
下田 歌子 女史は日本の女子教育の開拓者。昭憲皇太后に重用され、華族女学校の教授と学監に就任。「帝国婦人協会」「実践女学校(のち実践
女子大学)」「女子工芸学校」を設立。「家政学」を体系化し、「実践倫理」を説きながら、近代日本にふさわしい国民教育を婦人から確立。
"Ms. Utako Shimoda, A favorite of Empress Shoken, served as professor and dean of the Peeresses' School. She founded the Imperial Women’s Association, Jissen Women’s School (now Jissen Women’s University), and the Women’s Institute of Arts and Crafts. By systematizing "Domestic Science" and advocating for "Ethics of Action," she established a foundation for modern civic education, beginning with the empowerment of women."
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「短冊」
徳川家譜代であり陸軍奉行に任命された主君・松平能登守乗命のもと、佐幕派と勤王派に二分する岩村藩に、歌子は進歩的な学者である父・平尾鍒蔵と、母・房子との間に長女として生まれ鉐(せき)と名付けられます。儒学者である祖父・東条琴臺は藩学に異端と指弾され平尾家を去り、勤王運動を支持する父は藩から蟄居謹慎の咎めを受け家禄停止。家計は苦しく、鉐は糸引きや縫い物などの内職はじめ家庭菜園で家計を支えながら、読み書き・和歌・俳句・漢詩・日本画・薙刀を習います。10歳になると男子が次々と藩校に入学する中、鉐は藩校の窓外から講義を聞きます。まもなく明治維新政府が発足、地方行政を監察する「弾正台」巡察使が訪れ、歌才の評判高い15歳の鉐が歌会に召されます。「断然父の為に御巡回の弾正台の有司に直訴せよ。万一事破れて武運拙く奸吏の為に、途中にて捕らへらるゝ事もあらば密書は噛みて嚥下し、拷問などの憂目を見ぬ間に速かに自殺せよ。」祖母に命じられた鉐は、藩の監視をかいくぐって父の冤罪を訴える歌詠短冊を送り届けます。「うき雲やなにへたつらむ雲井まで聞こえあけんと思ふ心を」「皇国の錦の御はた神風になびくかたにとなびく民草」
「歌子」
理非曲直を裁かれ謹慎処分が解かれた父・鍒蔵は宣教使吏生として単身上京、越後高田藩榊原氏の儒臣となっていた祖父・琴臺は神祇官宣教少博士に任じられます。平尾家に明るい光が差し込み始めます。宣教使少博士から宣教使中博士そして宮内省の八等出仕歌道御用掛に命じられた旧薩摩藩士・八田知紀へ入門が決まった鉐は、家族と晴れて上京を果たします。「綾錦 着て帰らずば 三国山 またふたたびは 越えじとぞ思ふ」。しばらくして、琉球藩主として尚泰王が華族に列せられ、維新慶賀使として上京した琉球使節・宜野湾朝保による歌会が鹿児島藩邸で催されます。点者を務める師・知紀によって高く評価された鉐は、18歳で女官として宮中へ出仕します。「敷島の道をそれともわかぬ身に危うくわたる雲のかけはし」「うれしさを包む袂にこぼるるは恵のつゆのあまりなるらん」参内の日に詠んだ歌が天覧に供せられ御賞詞を賜り、お菓子など下賜されます。地方の貧乏学者の娘ながら、優れた歌才を昭憲皇后から寵愛され「歌子」の名を賜り、 宮廷で和歌を教えるようになると、創刊し始めた『京都新聞』『郵便報知新聞』などで盛んに取り上げられます。
「無反の猛雄」
宮中の歌子は、昭憲皇太后の学事に陪席しながら、加藤弘之また福羽美静また元田永孚らに和漢洋学を、フランス人セラゼンにフランス語を、御書物掛として数々の貴重な書籍に学びます。権命婦となった歌子が親交を深める女官は、近衛関白家に嫁入りした島津家貞姫の老中「明治の紫式部」税所敦子、のちの大正天皇生母・柳川愛子。まもなく弟子の高崎正風を御歌所長に抜擢して派閥を形成した歌道御用掛・八田知紀が逝去します。歌子は25歳で宮中を辞し、丸亀藩下級武士「無反の猛雄」こと下田猛雄と結婚します。民谷流の達人・島村勇雄の高弟にして免許皆伝、二尺八寸余りの無反大刀を帯し、門弟十余名を率い、廻国武者修行で立ち寄った岩村藩で、父・録蔵に教えを受けていました。上京して麻布長坂に道場を開いて警察署に出張教授を始めた先で、警吏らに論語を講じる父・録蔵と再会し、極めて親しくつき合っていました。ところが夫はまもなく胃病を患い、長く病床の人に。自ら食事の用意をして看病に尽くす歌子は、すっかりやせ衰えてしまいます。「みなもとは同じ流れのいさら川などたえだえに生き別れけむ」
「桃夭女塾」
そんな歌子に目をつけたのは、芸妓や酌婦を妻に持つ明治政府高官たち。正当な学問の無い妻や娘たちの教育を歌子に要請します。歌子は看病のかたわら自宅で上流子女のための『桃夭女塾』を開講。源氏物語の講義から始め、和歌の指導と習字、父・録蔵は四書五経と漢詩を担当、母・房子が塾生の世話を手伝います。やがてアメリカ留学から帰国したばかりの津田梅子を英語教師として迎え入れ、自らも英語を学びます。丸髷に髪を上げ、流行の黄八丈に黒繻子を合わせた昼夜帯で裾を引いて艶に着こなし、週に一度、袿に緋の袴を履いて髪をおすべらかしに結んで宮中に出かけて行く歌子は、女生徒たちの憧れとなります。生徒数5・60名を数えるようになる頃、夫が病死。宮内卿を兼務して宮内掌握に乗り出した伊藤博文による「開明進取」を「モルヒネ」と危惧する歌子は、昭憲皇太后の推薦により、上流女子教育機関として開設された華族女学校(のち学習院女学部)の教授ならびに学監に就任します。鹿鳴館では連日の舞踏会で強姦沙汰まで起こる最中に、歌子は「愛国心を養生する」教科書『国のすがた』『国文小学読本』編纂と普及にいち早く取り組んで物議を醸します。そして国家の開明と富強の根本「家政学」をまとめます。
「ビクトリア女王」
明治天皇皇女・常宮、周宮の両内親王御補導のため、40歳の歌子は「英国皇室の皇女ご教養事情調査」はじめ欧米諸国における女子教育の視察研究を命じられます。横浜港を出発して40余日でマルセイユ着、パリに1か月滞在、カレー・ドーバー海峡を渡ってブライトンからロンドンにつくと、下宿からキヌヤード夫人の私立女学校に通って英語を猛勉強します。「何たる時代錯誤!物笑いの種だ!そんな骨董品(女官正装一式)は早く日本の博物館へ送り返しなさい!」ロンドン駐在大使・青木周蔵に英国皇室また外務省への斡旋を拒否された歌子は、東洋宗教学の大家・ミュラー博士の高弟であるサムエル・ゴルドン夫人の既知を得て邸宅に寄寓、英国上流社会に入って女子教育の視察を熱心に行います。やがて日清戦争での日本勝利のニュースが後押しし、バッキンガム宮殿にてヴィクトリア女王との正式謁見の機会を得ます。歌子は垂髪袿袴で十二単を纏い王朝時代の女官そのままの姿で参殿します。衣装を褒められた上に、1週間後には女王が常住するウィンザー宮へ午餐のご陪食に参内。王室女性の教育水準の高さと馬術・ボートなどの健康教育に驚き、工業化が進む社会で一般女性が職務に励む姿に目を見張りつつ、歌子はロンドンに別れを告げると、フランス、ベルギー、ドイツ、イタリア、スイス、アメリカ、カナダと廻って2年振りに横浜に戻ります。
「実践女学校」
「兎まれ、其外貌は既に悉く文明の装飾を付けたり。」女子教育や生活習慣の基盤となっているキリスト教信仰の自主独立と慈善博愛の精神に感銘を受けるものの、欧米文化の直接輸入を警戒するよう報告する歌子は、明治天皇皇女・常宮、周宮の両内親王のご教育係を正式に拝命し正五位に叙せられます。「社会風潮の清濁は、其の源を男子に始むるにあらずして女子に基するなり。」「下等社会の女子が惨状、日々に危険なる断崖に向かひて盲進しつつある」変化する社会に対して日本女性を正しく適用させるため、歌子は「帝国婦人協会」を設立します。機関誌「日本婦人」を創刊、実践女学校(のち実践女子学園)および女子工芸学校を創立、「実修女学講義録」を刊行し通信教育事業を開始、全国を講演して廻り婦人団体を組織します。新院長・乃木希典のもと華族女学校が合併した学習院を辞任した歌子は、実践女学校を法人化して全私財を寄付。「日本の興亡というものは、結局対支問題を如何に処理していくかというところにある」50歳で中国語の勉強を始め、中国から留学生を進んで受け入れます。内蒙古カラチン王府に河原操子を、北京の清国王朝に木村芳子を送り込んで交流を深めるも、日中戦争直前に83歳で逝去。
-実践女子大学香雪記念館 Jissen Women's University Kosetsu Memorial Museum
-学習院女子大学 Gakushuin Women's College
-「上京以前の下田歌子 父・平尾鍒蔵筆「己巳九月備忘の記」より / 小林修」(実践女子大学下田歌子記念女性総合研究所 年報『第五号』2019年3月)
-「下田歌子の宮中出仕と〝歌子〟名下賜前後の考察 / 小林修」(明治聖徳記念学会紀要〔復刊第50号〕平成25年11月)
-「「国のすがた」が⽰す姿 下⽥歌⼦の教科書「編纂」とその意味」(『ノートル・クリティ ーク :歴史と批評』9:2-24, 2016.05)
-「梢風名勝負物語 [第1] (女傑伝,細菌の猟人)」(村松梢風 著 読売新聞社1961)
-「下田歌子 女子教育の開拓と実践 / 上沼八郎」(「大学時報 = University current review 31(165)(179)」日本私立大学連盟1982-07)
-「人物再発見 続」(読売新聞社 編 人物往来社1965)
-「にはのをしへ」(下田歌子 著 明25.4)
-「下田歌子伝」(西尾豊作 著 咬菜塾 昭11)
-「下田歌子関係資料総目録」(実践女子大学図書館 編 実践女子学園1980.3)
-「下田歌子回想録」(平尾寿子 著 / 山陽堂昭和17)

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