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🌹女風土記🌹 茨城県古河市 男装の女流文人画家 奥原 晴湖 女史 / Female Literati Painter with Audacity, Ms. Seiko Okuhara

-国会図書館 

「わたくしも、もし男に生れたら、朝に立つて天下を料理し、野に在つて大富豪ともなつたかも知れませんが、不幸にして女と生れましたために、かように絵筆を舐って渡世を致しております。」
"Born a man, I’d have conquered the world or built an empire of wealth. As a woman, I settle for the bite of a brush to make my way."

奥原 晴湖 (本名 池田 せつ子) 女史
Ms. Seiko Okuhara
1837 - 1913
茨城県古河市 出身
Born in Koga-city, Ibaraki-ken

奥原 晴湖 女史は日本の代表的な男装の女流文人画家です。欧化主義の中で守り抜いた「詩書画一致」は幕末から明治の激動の世にいきる人々に熱狂的に支持されました。
Ms. Seiko Okuhara is a leading Japanese literati painter known for her audacity. Throughout the rapid Westernization of the Meiji era, she steadfastly preserved the principle of "the unity of poetry, calligraphy, and painting," earning the fervent admiration of those living through these turbulent times.


「墨吐煙雲楼」

 古賀藩主・土井利位が幕府の重臣として老中の座を占める権勢隆々たる古賀藩に、大番頭をつとめる父・池田繁右衛門政明と弓道師範の長女である母・きくのもと、4女としてせつ子は生まれます。幼い頃より男勝りの性格で、薙刀・剣術・柔術・絵筆の上達早く、まわりの男子から恐れられながら藩の儒者・茅根一鴎に漢学・和歌・俳句・茶道を学びます。10歳から叔父である古賀藩家老で蘭学者の鷹見泉石のもと学問を学び、17歳から古賀藩の南画家・枚田水石に書画を学びます。「古賀で話せる者は泉石隠居ただ一人だ」。文金高島田の二十歳前後の娘が70歳を過ぎた白髪の老学者を相手に天下の形勢を論じ、憂国勤王の志を深めます。せつ子は男達からの縁談また口説きを切り捨てては投げ飛ばし、名文・名画を片っ端から模写しながら生涯独身を決意。各地で尊王攘夷派の運動が盛んになると、江戸に出て天下の情勢を知るため、江戸で画家として身を立てようと考えます。29 歳のとき、猛反対する家族を説得、気心の知れた侍女・おでんを伴い、叔母の嫁ぎ先である奥原家の養女となって江戸に出ます。

「不忍池集」
 文人墨客の住む上野の下谷に居を構え、「墨吐煙雲楼」と看板を掲げ、「晴湖」と号したせつ子は、自筆書の扇子を名刺代わりに、先輩書家・画家らのあいさつ回りを始めます。外見の美しさと覇気縦横の筆力と談論風発の応対ぶりが評判となり、同年の暮れに不忍池の三河屋で盛大なるお披露目会を開催します。詩人の大沼枕山・鱸松塘・上村蘆洲、書家の関雪江・高斎單山・山内香溪、画家の鈴木鵞湖・松岡環翠・坂田鴎客・福島柳圃・服部波山など25名もの大家の参加と合筆「不忍池集」を受けます。せつ子は他人の書画会にも努めて顔を出しながら、「どうです。私のところで一杯やりませんか。」男達と対等の交際をするために大いに酒を飲みます。父からの支援金25両が尽きると、兄から米を送ってもらい、さらに質屋通いをして着物を次々と酒代にあてます。そして、清の画家の鄭板橋を発掘して研究、豪快洒脱な即興書画で人気者となります。「私の書も画も自己流です。鄭板橋のほうが私に似てきたのでしょう。」やがて大政奉還のち上野戦争が始まると、せつ子は実戦の状況を泰然自若として見物します。

「容堂攻略」
 天皇が江戸城に入られた明治維新の混沌時代、知識階級の中で文人画が流行。特に大権政家の山内容堂の一面風流文雅の雅宴へ参会しようと文人墨客が先を争います。せつ子もようやく招待を受けると、当日出席する先輩大家をひとりひとり手土産とともに訪ねてまわり、自分の席順を最上席にして自分の画を褒めるよう約束をとりつけます。会の当日、他の出席者が勢揃いして着席した頃、せつ子は鮮やかな黄八丈の2枚重ねの上に黒ちりめんの羽織とだるまがえしの粋な髪型で参上。一同のどよめきの中を最上座に着席。会が始まると、せつ子は得意の啖呵とダイナミックな筆また先輩大家の援護評価で容堂を圧倒します。「御(あんた)はすこぶる才子と聞くが本当か。」「私も若し男でしたら、朝に立てば天下を料理し、野にあれば大富豪ともなるものでございましたが、残念ながら女と生まれた為めに斯様に絵筆を舐って末席を汚して居る次第でございます。」容堂はじめ木戸孝允の贔屓を得たせつ子は、皇后の御前揮毫の機会を得、南画家として一躍有名になります。正式に家塾を開業すると、伊藤博文配下の谷鉄臣はじめ政府要人らがこぞって入門、女弟子の芸妓たちは文人芸者の綽名を取る流行っ子になって文人雅会を盛り上げ、せつ子の居宅には文人墨客の来訪頻繁で詩歌管弦の声が途絶える間もありません。総勢300人以上の門人を抱えながら、鷲津毅堂・小長井小舟・市河萬庵・川上冬崖らと雅会「半間社」を結成、文人画の研究と隆盛に尽力します。

「木戸孝允と肝胆相照らす」
 木戸孝允は後輩の伊藤俊助博文を連れて度々晴湖の自宅を訪ねます。女盛り33歳の晴湖は鷹見泉石に学んだ開国思想者、木戸や伊藤と忽ち意気投合して世界に向ふこれからの日本について多いに語り合います。明治元年暮に木戸は晴湖を訪ねると、画箋紙の全紙を展べさせて一気呵成に自作の詩を書き与えます。

「去歳千軍逼我疆 今朝孤劍入他郷
浮生萬事変如夢 一片依然男子腸」
戊辰之歳 千令狂生 明治元年 木戸孝允」

 正月に清湖は返歌を扇面に書いて返し、木戸の眉宇に決意歴然とする詩を称えます。すると感激した木戸は益々晴湖を贔屓にします。

「各国鈴韜役鬼神、墨兵筆陣属閑身
生逢此運孰多福、正是今年王政春
明治二年春 晴湖」

「繍佛草堂」
 男子の断髪廃刀令が出ると女子の断髪は禁止じられるものの、44歳のせつ子は持病のためと申し立て散切り頭にします。黒羽二重で五つ紋の男羽織に仙台袴、男の様に振舞います。おびただしい数の来客と揮毫依頼に、せつ子の借家は大豪邸に、せつ子の体は相撲取りのように、せつ子の筆はますます豪宕無類となります。清湖は一度筆を取ると渾身の気力奔しらせ、誤字脱字を気にも留めず次々と書きあげます。「学問のない奴は本当の字を書いたって読めない。読めるものは少しぐらい間違っていても通じる」。やがて日本は世を挙げて欧化主義に狂奔、岡倉天心とフェノロサが始めた新日本画運動が盛り上がって美術学校創設に発展。文人画非芸術論におされ、せつ子ら文人書家・画家らは人々から顧りみられなくなります。上野秋葉間の鉄道建設のため居宅が買収されたのを契機に、55歳のせつ子は埼玉県熊谷の草深い川上村に画室付きの住宅「繍佛草堂」を建て、同じく散切り頭の女弟子・晴嵐(せいらん)と共に隠棲します。幕臣大久保家配下の近藤保造と千佐子の夫婦が警護役として帯同。「紅塵避け、俗物避けだよ。真に用のある人は草を分けても訪ねてくる」。2人で長期にわたって北越方面松島、東北方面、関西方面を旅をしながら風光また名書画を研究の資とします。日露戦争がはじまって再び南画が流行、明治初期の大家はおおむね故人となってひとり残るせつ子のもとに俄かに揮毫依頼や訪問客が増え、門前の草は踏み絶やされます。「里に入りてまた一聲(こえ)や杜鵑(ほととぎす)」一変して神韻で雄渾蒼潤な書画を描き続けながら、せつ子は77 歳の生涯を閉じます。

-古河歴史博物館/鷹見泉石記念館・奥原晴湖画室
-「近世女流文人伝」(会田範治, 原田春乃 共編 明治書院, 1960)
-「茨城の画人 : ふるさとの画家をたずねて」(大内健二 著 川又書店1988.7)
-「本朝画人伝 巻2」(村松梢風 著 中央公論社, 昭和16-18)
-「本朝名匠伝」(村松梢風 著 読売新聞社1952)
-「画賛から見る奥原晴湖」(川島恂二 著 りん書房1991.6)
-「奥原晴湖 : 伝記・奥原晴湖 (伝記叢書 ; 166)」(稲村量平 編 大空社, 1995.3)

女風土記 Happywomen
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