自分の話だけ「へえ」で終わった。「私ってつまらない?」|人の評価に揺れる心に、ひとつ土台を置く考え方
友達数人で話していた。
誰かが話すと、
「それ分かる」
「え、面白い」
「それでどうなったの?」
と、会話が広がっていく。
笑いも起きる。
自分もひとつ、話してみる。
でも返ってきたのは、
「へえ」
だけだった。
少し間が空いて、そのまま別の話題に変わった。
すると、
「私の話、つまらなかったかな」
「なんか変なこと言った?」
「もしかして、避けられてる?」
と気になってくる。
そして、その先で、
「私って、一緒にいてつまらない人なのかな」
「人から好かれるような魅力がないのかな」
と、自分自身のことまで考え始める。
最初に起きたのは、
自分の話が、思ったほど盛り上がらなかったこと。
それなのに、
いつの間にか、
自分という人間そのものの価値まで下がったように感じている。
これまでの記事では何度か、
相手が自分をどう思うかと、自分という人間の価値は同じではない。
と書いてきました。
今回は、
なぜこの二つを分けて考えるのか。
その理由を、もう少し深く整理してみたいと思います。
相手の反応は、たしかに一つの評価ではある
まず、
相手の反応を無意味なものとして扱う必要はありません。
自分の話に、
「へえ」
と返ってきた。
話が広がらなかった。
ほかの人の話に比べて、反応が薄かったように感じた。
そこから、
「今回の話はあまり興味を持ってもらえなかったのかもしれない」
と考えることはできます。
実際、
話が少し長かったのかもしれません。
その場に合わない話題だったのかもしれません。
相手が単純に興味を持てなかったのかもしれない。
あるいは、
自分とはあまり話したくないと思われている可能性だってあります。
だから、
「相手の反応なんて気にしなくていい」
という話ではありません。
相手の反応は、
自分がその場でどう受け取られているかを考える、一つの情報にはなります。
でも、
ここから先で、
少し話が変わります。
他人の評価は、「条件の中」で生まれている
たとえば、
ある人からは、
「話していて面白い」
と思われている。
でも、
別の人からは、
「なんとなく話が合わない」
と思われている。
職場では、
「仕事が遅い」
と評価されている。
でも、
友人からは、
「困ったときにちゃんと話を聞いてくれる」
と思われている。
家では、
「少し不器用だけど頼れる」
と思われているかもしれない。
同じ一人の人間でも、
評価はかなり変わります。
なぜなら、
他人の評価には、
その人自身の好みや価値観だけでなく、
誰が見るか
どこで見るか
どんな関係なのか
どんな役割を期待されているか
何を基準に評価するか
といった条件が入るからです。
仕事なら、
仕事ができるかどうか。
友人関係なら、
一緒にいて楽しいか、信頼できるか。
恋愛なら、
恋愛対象として惹かれるかどうか。
それぞれ、
見ているものが違います。
つまり、
他人からの評価は、「その人が、ある条件の中で自分をどう評価したか」という情報です。
ここまでは問題ありません。
問題は、
その評価を、
そのまま
「自分という人間そのものの価値」
に変換してしまうことです。

もし「他人の評価=自分の価値」なら、妙なことが起きる
Aさんからは、
「一緒にいると楽しい」
と思われている。
Bさんからは、
「あまり話が合わない」
と思われている。
もし、
相手からの評価が、そのまま自分の価値
なのだとしたら、
同じ自分が、
Aさんから見れば価値が高く、
Bさんから見れば価値が低い、
ということになります。
さらに、
会社ではあまり評価されていない。
でも、
家族からは大切にされている。
友人からは信頼されている。
恋愛では振られた。
となったら、
自分の価値は高いのでしょうか。
低いのでしょうか。
どちらとも言えなくなります。
でも、
これは本当は矛盾しているわけではありません。
それぞれが、
別のものを評価しているからです。
会社では、
仕事上の能力や成果。
友人は、
友人としての関わり。
恋愛相手は、
恋愛対象としての相性。
だから、
「会社では評価が低い」
と
「友人として信頼されている」
は、
同時に成立します。
おかしくなるのは、
それらを全部、
「自分という人間全体の価値」
という一つの数字にしようとしたときです。
評価には、「何についての評価か」がある
ここで一度、
評価の範囲を狭くしてみます。
仕事で失敗した。
なら、
仕事についての評価が下がることはある。
会話がうまくいかなかった。
なら、
今回の話し方について振り返ることはできる。
恋愛で断られた。
なら、
その人から恋愛対象として選ばれなかった、
ということはあります。
でも、
仕事で失敗した
から、
人間として価値が低い
とはなりません。
この人とは恋愛関係になれなかった
から、
誰からも必要とされない人間だ
ともなりません。
評価には、
それぞれ範囲があります。
「何についての評価なのか」を超えて、自分全体にまで広げない。
これが、
「相手の反応と、自分という人間の価値は同じではない」
と考える理由の一つです。
だから、他人の評価を否定しなくてもいい
この考え方は、
「他人の評価なんて全部間違っている」
という話でもありません。
相手が、
「あなたの話はあまり面白くなかった」
と思っているなら、
その人にとっては、
本当にそうだったのかもしれません。
会社から、
「この仕事ではまだ必要な水準に届いていない」
と評価されたなら、
改善したほうがいい部分もあるかもしれません。
誰かから、
「この言い方は嫌だった」
と言われたなら、
振り返ったほうがいいこともあります。
そういう評価まで、
「自分には価値があるから関係ない」
と切り捨てる必要はありません。
ただ、
その評価が意味する範囲を、必要以上に広げない。
「この行動はよくなかった」
と、
「あなたという人間そのものに価値がない」
は別です。
では、人としての価値はどう考えればいいのか
ここまでで、
少なくとも、
他人の評価だけから、
自分という人間全体の価値を決めることには、
少し無理があることが見えてきます。
では、
自分で自分を評価すればいいのでしょうか。
今日は頑張った。
だから自分には価値がある。
人に優しくできた。
だから価値がある。
いい仕事ができた。
だから価値がある。
でも、
何もできなかった日はどうなるのでしょうか。
失敗した日。
人に冷たくしてしまった日。
自分のことを好きになれない日。
そのたびに、
「今日は価値が低い」
となるなら、
採点者が他人から自分に変わっただけです。
つまり、
他人に自分の価値を評価してもらうことも、
自分で自分の価値を評価することも、
どちらも、
「評価によって、自分の価値が決まる」
という前提に立っている点では、
似た構造があります。
違うのは、
採点する人が他人なのか、
自分なのかだけです。
だから、
「他人の評価ではなく、自分の評価を信じよう」
とするだけでは、
まだ同じところを回ってしまうことがあります。
では、
そもそも、
人としての価値は評価によって決まるものなのでしょうか。
もしそうだとしたら、
仕事での評価、
恋愛での評価、
能力や性格についての評価などを集めていけば、
最終的には
「自分という人間全体の価値」
も出せそうに思えます。
でも、
本当にそんなことはできるのでしょうか。
そもそも、「人間としての総合点」は出せるのだろうか
他人からの評価が一部分についての評価なら、
仕事、恋愛、能力、性格、人間関係など、
いろいろな評価を全部集めれば、
「自分という人間全体の価値」
を出せるのでしょうか。
たとえば、
仕事は80点。
人付き合いは60点。
知識は75点。
容姿は55点。
優しさは90点。
そんなふうに、
いろいろな項目を評価して、
最後に平均を取れば、
「この人の価値は72点」
と出せそうにも見えます。
でも、
ここには大きな問題があります。
そもそも、何を何点として、どれくらい重く見るのかを決める共通の物差しがありません。
仕事なら、
判断力。
専門知識。
生産性。
信頼性。
協働性。
といったものが重視されるかもしれません。
でも、
恋愛では、
一緒にいて安心できる。
話が合う。
外見的に惹かれる。
価値観が近い。
誠実に向き合ってくれる。
といった別のものが重視されます。
友人関係なら、
また違います。
つまり、
私たちが日常で、
「この人は価値が高い」
と言っているとき、
実際には、
「この目的、この関係、この状況では、この人を高く評価している」
という意味であることが多いのだと思います。
会社にとって、
非常に重要な人。
だからといって、
誰にとっても恋人として魅力的とは限りません。
恋人として、
とても相性がいい人。
だからといって、
仕事でも高く評価されるとは限りません。
しかも、
同じ特徴ですら、
状況によって評価が変わります。
たとえば、
「慎重であること」。
ある仕事では、
「確認が丁寧で、ミスが少ない」
と評価される。
別の仕事では、
「判断が遅い」
と評価されるかもしれません。
つまり、
評価される価値は、それ単独で決まるのではなく、目的や状況との組み合わせで変わります。
そう考えると、
仕事。
恋愛。
性格。
能力。
人気。
収入。
そうしたものを全部集めて、
「人間としての総合価値」を計算することにも無理があります。
仮に点数をつけられたとしても、
今度は、
「なぜ仕事を20%、優しさを30%、容姿を10%で計算するのか」
という問題が出てきます。
その重みづけを決めた時点で、
それは、
誰にとっても正しい「人間の価値」ではありません。
ある価値観にもとづいて作った、ひとつのランキングです。
もちろん、
すべての項目を同じ重さとして、単純平均を取ることもできます。
でも、それが「客観的な人間の価値」になるわけではありません。
なぜなら、
何を評価項目に入れるのか。
それぞれどれくらい重く扱うのか。
そこには、すでに価値判断が入っているからです。
だから、
測れるものと、
人間そのものの価値は、
分けて考えたほうがいいのだと思います。
仕事の能力は評価できます。
成果も評価できます。
信用や人気、
ある人にとっての魅力や相性も、
ある程度評価できます。
でも、
それらを全部まとめて、
「だから、この人という存在そのものは何点」
という一つの客観的な数字にするための、
共通の物差しはありません。
そう考えると、
「私は価値が低い」
という言葉も、
かなり大きすぎる言葉に見えてきます。
本当は、
「今の仕事では、思ったような成果が出ていない」
「初対面の雑談はあまり得意ではない」
「この人からは恋愛対象として選ばれなかった」
なのかもしれない。
どれも、
つらいことはあります。
でも、
それぞれ、
ある条件の中で起きたことです。
そこから、
自分という人間全体について、
一つの総合点を出すことまではできません。

私は、人には評価とは別の存在価値があると考えています
ここまで考えてみると、
他人の評価だけでなく、いろいろな能力や成果を集めても、
「人間そのものの価値」を、客観的な一つの数値として出すことはできません。
では、
人としての価値をどう考えればいいのでしょうか。
私は、
人には、成果や能力、他人からの評価とは別に、存在そのものに価値がある
と考えています。
何かを成し遂げたからではありません。
誰かに認められたからでもありません。
人に優しくできたからでも、
仕事ができるからでも、
話が上手だからでもありません。
ただ、一人の人間として存在している。
そのこと自体に、価値があります。
だから、
「私はこれだけ優秀だから価値がある」
「私はこれだけ人の役に立っているから価値がある」
と、根拠を並べ続けなくてもいい。
価値は、
何かを達成したあとに支給されるものではありません。
誰かに好かれて初めて与えられるものでもありません。
自分で自分を好きになれた日にだけ発生するものでもありません。
できても。
できなくても。
好かれても。
嫌われても。
自信があっても。
なくても。
存在価値そのものが、増えたり減ったりするわけではありません。
失敗すれば、
「今回はうまくいかなかった」と言えます。
人を傷つけてしまえば、
「この行動はよくなかった」と振り返ることもできます。
でも、
そのたびに、
「だから自分という人間の価値が下がった」
とする必要はありません。
行動には評価があります。
成果にも評価があります。
人からの評価も変わります。
でも、
存在価値は、そうした評価とは別のところにあります。
高く評価されたから増えるものでもない。
低く評価されたから減るものでもない。
自分で高く評価できたから生まれるものでもない。
ただ、ある。
だから、
自分の価値を証明し続けなくていい。
自分の価値を守るために、
ずっと成果を出し続けなくてもいい。
誰かに認めてもらい続けなくてもいい。
自分で自分に高得点をつけ続けなくてもいい。
あなたの存在価値は、評価の結果として与えられるものではないからです。
無条件の価値があることと、「何をしてもいい」は別
ここは、
分けておきたいところです。
人には存在価値がある。
だから、
何をしても同じ。
何をしても許される。
努力しなくてもいい。
という話ではありません。
行動には、
良い・悪いがあります。
責任もあります。
能力には、
得意・不得意があります。
仕事には、
成果が求められることもあります。
人を傷つければ、
謝ったり、償ったりする必要があることもあります。
だから、
行動や成果は評価していい。
でも、
その評価を、存在価値にまで広げない。
ということです。
「今回の行動はよくなかった」
とは言える。
でも、
「だから自分という人間の価値が下がった」
とは考えない。
この二つを分けます。
そう考えると、相手の反応の見え方も変わる
最初の場面に戻ります。
自分の話だけ、
「へえ」
で終わった。
以前なら、
そこから、
「避けられている」
「私はつまらない」
「人から好かれる価値がない」
と広がっていたかもしれません。
でも、
相手の反応と存在価値を分けるなら、
まず見ればいいのは、
その反応そのものです。
「今回はあまり話が広がらなかった」
そこから、
必要なら考える。
話が少し長かった?
その人たちは興味を持ちにくい話題だった?
何か気になることがあった?
それとも、
今の時点では分からない?
ここまでなら、
現実について考えています。
でも、
「だから私は価値がない」
まで進む必要はありません。
相手の反応は、
自分の価値を決める判決ではなく、
必要なら次の行動を考えるための情報です。
「好かれたい」と思うことまで否定しなくていい
もちろん、
人から好かれたいと思ってもいい。
話を楽しんでもらえたら、
うれしい。
褒められれば、
自信が出ることもある。
嫌われれば、
傷つく。
それは、
存在価値とは別の話です。
「好かれたい」と、
「好かれなければ価値がない」は違います。
「評価されたい」と、
「評価されなければ存在価値が下がる」も違います。
評価される喜びまで、
手放す必要はありません。
ただ、
評価を、
自分が存在していていいかどうかを決めるものにしない。
それだけです。
相手の反応に揺れたときは、3つに分けてみる
自分が採点されたような気がしたときは、
次の3つを見てみます。
1.実際に何が起きた?
「へえ」と返された。
会話が広がらなかった。
話題が変わった。
まずは、
確認できるところまで。
2.それは、何についての評価だと考えている?
今回の話?
話し方?
その人との相性?
それとも、
自分という人間全体?
ここで、
評価の範囲が必要以上に広がっていないかを見ます。
3.今、振り返る必要があるのは何?
今回の行動なら、
必要に応じて振り返る。
関係について考える必要があるなら、
考える。
今の時点では分からないなら、
分からないままにしておく。
評価できるものは評価する。
でも、そこから存在価値まで採点しない。
この線を引いてみます。
相手の反応と、自分という人間の価値は同じではない
友達と話していて、
自分の話だけ、
「へえ」
で終わった。
その反応が、
気になることはあります。
傷つくこともあります。
本当に何か改善したほうがいいことが、
見つかる場合もあります。
でも、
それは、
ある人が、
ある場面で、
ある基準から示した反応です。
その一つの反応から、
自分という人間全体の価値まで決めることはできません。
仕事の評価も。
誰かからの好意も。
会話の盛り上がりも。
その人との相性も。
それぞれ、
その条件の中では意味があります。
でも、
それらを全部まとめて、
「自分という存在は何点なのか」
という一つの採点表にしなくていい。
人には、
そうした評価とは別に、
評価によって増えたり減ったりしない存在価値がある。
だから、
相手の反応に心が揺れたときは、
一度だけ、
こんなふうに問いかけてみます。
これは、何についての評価なんだろう。
そして、
私は今、その評価を、自分という存在そのものにまで広げていないだろうか。
行動なら、
必要に応じて変えられます。
関係なら、
考え直すこともできます。
でも、
そのたびに、
自分という存在の価値まで、
上げたり下げたりしなくていいのだと思います。
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