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運命百貨店 第三話:ひとり分の枕


「離婚したい」

沙奈がそう言ったとき、悠人はしばらく何も答えられなかった。

聞こえなかったわけではない。
意味が、わからなかったのだ。

悠人、三十四歳。沙奈、三十二歳。

二人が結婚して、三年が過ぎた頃だった。
子どもはいない。大きな喧嘩をしたこともない。

悠人は毎日仕事へ行き、まっすぐ家へ帰る。生活費もきちんと入れている。浮気をしたこともなければ、沙奈に隠れて遊び歩いたこともない。

「⋯⋯なんで?」

ようやく出た言葉が、それだった。

沙奈は向かいに座ったまま、膝の上で両手を握っていた。

「嫌いになったわけじゃないよ」

「じゃあ、なんで離婚なんだよ」

「⋯⋯好きだから、つらいの」

ますますわからなかった。

好きなら、一緒にいればいい。 悠人にとっては、それだけのことだった。

「俺、何かした?」

「そういうことじゃないの」

「だったら言ってくれなきゃわからないだろ」

沙奈が顔を上げた。
怒ってはいなかった。

その顔が、悠人には余計に理解できなかった。

「言ったよ」

「え?」

「何度も言った」

沙奈の声は静かだった。

「もっと話してほしいって。何かあったら私に言ってほしいって。私には頼ってくれていいんだよって」

悠人は黙った。
言われたことは、ある。

けれど、話すほどのことがなかった。

仕事で嫌なことがあっても、次の日にはまた仕事へ行く。 疲れていれば寝ればいい。 困ったことがあれば、自分でなんとかする。

ずっと、そうしてきた。

「でも俺、別に困ってないし」

沙奈が小さく息を吐いた。
「⋯⋯そういうところだよ」

「何が?」

少し強い声が出た。

「俺はちゃんと仕事もしてる。家のことだって、言われたらやってるだろ。沙奈が嫌だって言ったことは――」

「悠人」
言葉を遮られた。

「私はね、悠人がどういうつもりだったかって話をしてるんじゃないの」

沙奈の目が、少し潤んでいた。

「私が寂しかったって話をしてるの」

悠人は何も言えなかった。

寂しい――。
その言葉だけが、妙に耳に残った。

「あなたと一緒にいるのに、ずっと一人みたいだった」

胸の奥が、わずかにざわついた。
どこかで、同じような言葉を聞いたことがある。

――いつだった?

「私、このままずっと一緒にいるのは、もう無理」

「⋯⋯俺といるの、そんなに辛いのか?」

沙奈はしばらく悠人を見ていた。
それから、寂しそうに笑った。

「それがわからないなら⋯⋯やっぱり今は、無理だと思う」

翌日、沙奈は実家へ帰った。
大きな荷物は持っていかなかった。

「少し考えたいから」

そう言って、必要なものだけを鞄に詰めた。

悠人は引き止めなかった。
いや。
どう引き止めればいいのか、わからなかった。



次の朝。

玄関で靴を履き、悠人はいつものように立ち上がった。何かが足りない。

そう思った。
けれど、それが何なのかわからないままドアを開けた。

駅へ向かう途中で、気づいた。

――いってらっしゃい。

毎朝、沙奈が言っていた。

振り返りもせず、「ん」とだけ返す日もあった。 急いでいる日は、何も返さないことさえあった。

その言葉がないだけで、朝の玄関は妙に広かった。



夜。

「ただいま」

ドアを開けながら、いつもの癖で口にした。
返事はなかった。

当たり前だ。

それでも悠人は、数秒、その場に立っていた。

「⋯⋯何やってんだ、俺」

靴を脱いだ。

沙奈がいた頃は、「おかえり」と声がして、玄関まで迎えに来てくれていた。

悠人が「ただいま」と返すと、沙奈はそれだけで少し嬉しそうに笑った。

ただ、それだけのことだった。

その日から悠人は仕事が終わっても、すぐには家へ帰らなくなった。

コンビニへ寄ったり、必要もないのに本屋をのぞいたり、駅前を遠回りしたりした。

自分でも、なぜそんなことをしているのかわからなかった。

帰ったところで、誰もいない。
ただ⋯⋯それだけのはずなのに。

数日後。

母から電話がかかってきた。

『ねえ、聞いてよ。今日さ――』

挨拶もそこそこに、母は話し始めた。

近所の人のこと。買い物先であったこと。 最近気に入らないこと。 今度行きたい場所のこと。

悠人は、ときどき相槌を打った。

「うん」

「そうなんだ」

「へえ」

昔から、そうだった。
母は自分の話をする。
悠人は聞く。

話が終われば、

『じゃあね』

電話は切れた。

悠人は暗くなった画面を見つめた。

今日、自分が何をしていたのか。 仕事で何があったのか。 飯は食べたのか。 元気なのか。

母は何ひとつ聞かなかった。
けれど悠人は、それを寂しいと思ったことはなかった。

昔から、そうだったからだ。

父親のことも知らない。
名前も、顔も知らない。

母に聞いたことはあったらしいが、幼すぎて覚えていない。 いつの頃からか、聞くこともしなくなった。

母は明るく、自由な人だった。

悠人を愛していなかったわけではない。

誕生日にはケーキを買ってくれたし、熱を出せば薬も買ってきた。

けれど、母には母の楽しみがあった。
夜、悠人を一人残して出かけることも珍しくなかった。

そんな日々の中で、近所の人や親戚から、ときどき声をかけられることがあった。

「ひとりで寂しくない?」

悠人には、その意味がよくわからなかった。
だから、いつも同じように答えた。

「別に⋯⋯」

学校でも、友達によく言われた。

「悠人って冷めてるよな」

高校生の頃、付き合っていた彼女にも言われたことがある。

「悠人といると、なんか寂しい」

そのときも、意味がわからなかった。
隣にいるのに、どうして寂しいのだろう。

結局、その彼女とは別れた。

そして今、十数年も経って、沙奈が同じことを言った。――あなたと一緒にいるのに、ずっと一人みたいだった。

「⋯⋯またか」

悠人は呟いた。
それ以上は、考えなかった。

いや。
考えても、わからなかった。

その日の仕事帰りも、悠人は家へ向かう気になれなかった。

駅を出て、いつもとは違う道を歩いた。
どこへ行くつもりもない。

ただ、もう少しだけ明るい場所にいたかった。
しばらく歩くと、見覚えのない建物があった。

古い洋館のような百貨店。

正面には大きな時計があり、窓から暖かな光が漏れている。

入口の上には、金色の文字。

運命百貨店

「⋯⋯こんなの、あったか?」

悠人は立ち止まった。

買いたいものなどない。
それでも、なぜかそのまま中へ入った。

店内には人がいた。
けれど、不思議なくらい静かだった。

悠人は目的もなく歩いた。
気づけば、寝具売場にいた。

ベッド。シーツ。毛布。
そして、棚いっぱいに並ぶ枕。

「枕をお探しですか?」

店員の女性に声をかけられた。

「いや、別に」

そう答えてから、ふと思い出した。

『悠人、その枕、もうへたってるよ。そろそろ新しいのにしようか?』

いつだっただろう。
沙奈がそう言った。

『寝られりゃ何でもいいよ』

たしか、そう返した。

「⋯⋯枕って、どれがいいんですか」

店員は、並んだ枕へ静かに視線を向けた。

「人によりますね。実際に試してみますか?」

いくつか試した。
高いもの。低いもの。 柔らかいもの。

結局、悠人が選んだのは、ごく普通の枕だった。
値段も普通。
特別なものではない。

「これで」

紙袋を受け取り、百貨店を出た。

家に着くと、悠人は玄関のドアを開けた。
「ただいま」
また言ってしまった。

返事はない。

寝室へ入り、新しい枕を取り出した。

古い枕をどけ、その場所に新しい枕を置いた。
隣には、沙奈の枕が残っていた。

二つ並んでいた枕のうち、片方だけが新しくなった。

悠人は隣の枕をしばらく見つめた。

いつもと同じ場所にあるのに、沙奈の枕が今夜はひどく遠く見えた。

悠人は新しい枕に頭を乗せた。

「⋯⋯普通だな」

目を閉じた。

冷蔵庫の音。遠くを走る車の音。

悠人は目を閉じたまま、ぼんやりと耳を澄ませていた。
やがて、外で一台の車が止まる音がした。

その音を聞いた瞬間、胸の奥に、ずっと忘れていた夜の記憶がよみがえった。

まだ、小学生だった頃。
母が出かけた夜も、悠人は一人、布団の中で外の音を聞いていた。

廊下から足音が聞こえるたび、じっと耳を澄ませた。
近づいてくる。

でも、足音はいつも玄関の前を通り過ぎていく。
そのたびに、また静かな夜に戻った。

あの頃は、それを何とも思っていないつもりだった。
母がいないことも、一人で眠ることも、いつものことだったから。

それなのに。
玄関の向こうに、人の気配を探していた。

何度も。何度も。何度も。

悠人は目を開け、暗い天井を見つめた。
胸の奥に、これまで気づかなかった痛みがゆっくりと広がっていく。

あのときの自分は――。

「もしかして⋯⋯」

口にしかけた言葉を飲み込んだ。

「⋯⋯俺、待ってた?」

その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。

母が帰ってくるのを、ずっと――。

目尻から、一筋の涙が静かに頬を伝った。
悠人は眉をひそめ、手の甲で拭った。

「⋯⋯なんだよ、今さら」

笑おうとした。
けれど、また一滴、こぼれた。

泣いたことなど、ほとんどなかった。
泣いてどうなる。

困ったら自分でなんとかすればいい。誰かに話したところで仕方がない。

ずっと、そうやって生きてきた。

――私には頼ってくれていいんだよ。

沙奈の声が聞こえた気がした。

――もっと話してほしい。

そして、
――あなたと一緒にいるのに、ずっと一人みたいだった。

高校時代の彼女の声まで重なった。

――悠人といると、なんか寂しい。

悠人は隣の枕を見た。

「⋯⋯そういうことか」

自分は一人でも平気なのだと思っていた。
だから、沙奈も同じなのだと思っていた。

沙奈が何度もこちらへ手を伸ばしていたことに、気づかなかった。

好きだった。
今も、好きだ。

それだけで伝わっていると思っていた。

けれど沙奈は、ずっと待っていた。悠人が、自分の心を少しでも彼女に見せてくれることを。

「⋯⋯沙奈」
言葉はため息と一緒にこぼれた。
「俺、⋯⋯一人で平気なんかじゃなかったんだな」

悠人はスマートフォンを手に取って、沙奈の名前を表示した。通話ボタンに指を伸ばして、止まった。

もし、もう遅いと言われたら。
いつもの悠人なら、そこでやめていたかもしれない。

言わなければ、断られることもない。
何も求めなければ、失望することもない。

ずっと、そうやって自分の中だけで終わらせてきた
。けれど今は、それではいけない気がした。

通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音。
『⋯⋯もしもし』
「沙奈」
『うん』
「⋯⋯今、大丈夫?」
『うん。大丈夫だよ』

少し沈黙があった。

「⋯⋯そっちは、どう?」
『どうって?』
「いや⋯⋯ちゃんと眠れてるかな、とか」

自分でも、ひどく不器用な聞き方だと思った。
電話の向こうで、沙奈が小さく息を吐いた。

『⋯⋯寝てるよ』
「そっか」

言葉が出なかった。
何をどう言えばいいのかわからない。それでも今度は、自分の中だけで終わらせたくなかった。

「俺さ⋯⋯一人でも平気だと思ってた」

沙奈は黙って聞いていた。

「でも、沙奈がいなくなってから、家に帰るのが嫌になったんだ」
「玄関を開けても、沙奈がいない」

少し間を置いた。

「それが、思ってたよりずっと⋯⋯寂しかった」

電話の向こうが静かになった。
『⋯⋯そっか』

「たぶん俺、寂しいっていう気持ちを、ちゃんと知らなかったんだと思う」

少し黙ってから、悠人は続けた。

「ずっとそうやって生きてきたから。誰かに頼るとか⋯⋯よくわからなかった」

喉が詰まった。

「昨日、子どもの頃のことを思い出したんだ」
「ずっと平気だと思っていたけど⋯⋯あの頃も、寂しかったんだなって」

電話の向こうから、小さく息を呑む音がした。
『⋯⋯悠人』

「沙奈がいなくなって⋯⋯やっとわかった」

悠人はゆっくり息を吐いた。

「沙奈が寂しいって言ってたことも。俺がずっと自分の気持ちに気づかずにいたことも。
今、沙奈がいなくて、こんなに寂しいことも⋯⋯」

しばらく沈黙が続いた。

「毎朝、いってらっしゃいって言ってくれただろ。帰ったら、おかえりって迎えてくれて」

悠人の視線が、沙奈の枕へ向いた。

「俺、あれが好きだったみたいだ」

電話の向こうで、沙奈が小さく息を吸った。

「なくなってから気づくなんて、遅いけど」
「⋯⋯ありがとう、沙奈」

短い沈黙のあと、悠人は続けた。

「それから⋯⋯ごめん」

言い訳はしなかった。

「俺、沙奈とこれからも一緒に生きていきたい」

電話の向こうから、小さく鼻をすする音が聞こえた。

「⋯⋯聞いてる?」
『聞いてるよ』

沙奈の声が震えていた。

「沙奈」
『⋯⋯うん』
「帰ってきてほしい」

電話の向こうで、沙奈が泣いているのがわかった。
しばらくして、小さな声がした。

『⋯⋯そんなこと、初めて言ったね』

悠人は目を閉じた。
「うん」

『悠人の気持ち、初めて聞けた気がする』

少し間を置いて、沙奈が続けた。
『いってらっしゃいも、おかえりもね。私が言いたかっただけ』

沙奈の声が、少し柔らかくなった。
『だから⋯⋯そう言ってくれて、嬉しい』

しばらく、どちらも何も言わなかった。

やがて、沙奈が小さく息を吐いた。
『でも、今すぐ全部を決めるのは、まだ少し怖い』

悠人は何も言わず、沙奈の言葉を待った。

『だから⋯⋯もう少しだけ、待って』
「わかった」

悠人はそう答えた。
少し前までなら、それで電話を切っていただろう。
けれど、今日は違った。

「沙奈」
『うん?』
「今度の日曜日⋯⋯デートしないか?」

電話の向こうが静かになった。
悠人は急に恥ずかしくなった。

「返事を急かしたいわけじゃない。ただ⋯⋯会いたい」

しばらくして、電話の向こうから小さな笑い声が聞こえた。
『⋯⋯デートなんて、久しぶりだね』
「そうだな」

『じゃあ、楽しみにしてる』
「うん」

『日曜日ね』
「うん。日曜日」

電話を切ったあと、悠人はしばらくスマートフォンを握ったまま、隣の枕を見つめていた。

日曜日。

その日を待つことが、楽しみだった。

待つというのは、寂しいことばかりではないらしい。



そして、日曜日が過ぎた――。

その翌日、仕事帰り。
悠人はあの百貨店の前に立っていた。
店内に入り、枕売場の前で足を止める。

「枕をお探しですか?」

店員に声をかけられ、悠人は並んだ枕を見た。

「はい」

少しだけ笑って、言葉を添えた。


「⋯⋯妻のを」


その頃。

運命百貨店の地下。

売場案内には載っていない扉の向こうで、ひとつのランプが消えた。

薄暗いバックヤード。

机の上には、一枚の伝票が置かれている。

商品:枕 一点

その下には、赤い文字で小さく、

配送完了

と記されていた。

暗がりの奥で、黒い手袋をした手が伝票を引き寄せる。

店主はしばらく、その一枚を眺めていた。

やがて、何も書かれていなかったはずの余白に、ゆっくりと文字が浮かび上がる。

一緒に生きていきたい。

店主の指が止まった。

「⋯⋯そうですか」


扉の向こうから、誰かの足音が近づいてきた。店主は顔を上げた。

足音は、扉の前を通り過ぎていった。

「⋯⋯まだ、ここを離れるわけにはいきませんね」

店主は胸元の古びた鍵に、そっと触れる。
部屋の奥で、古時計がひとつ鳴った。

ボーン⋯⋯。

けれど、鍵は今日も何も開けなかった。



🏬運命百貨店からのお知らせ

第三話「ひとり分の枕」にご来店いただき、ありがとうございました。

今夜もまた、ひとつの商品が必要な人のもとへ届きました。今度は、どんな商品が運命百貨店から旅立つのでしょう。

あの扉の向こうで、店主が待ち続けているものとは。
その秘密が明かされるのは、もう少し先のお話です。

次は、どなたの前に扉が現れるのでしょう。
そのときまで、しばしお待ちくださいませ。


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