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【散文】 「今とこれから」 第三回

前回、僕は「僕なりの勝負をする」と書いた。ある確信を持って。でも、それって何だろうと思ったりする。「僕の勝負」が意味することとは?
しかし、この言葉を僕は疑いもしない。勝負は眼前に用意され、今も続くと信じる。僕がそれに気づく限りは。

だが、「僕のこと」について興味を持って欲しいとお願いしても、それも難しいと思うので視線を移そうと思う。


野球選手のイチローさんは現役引退後もなおトレーニングに励む。以前、シアトルの球場で大リーグの試合前に練習する姿をテレビで拝見した。

彼に「敵」はいない(のかもしれない)。野球という競技で必要な自らの身体の動き、その可動域をいかに「滑らかに有効に」使うかを主眼に置いて彼はトレーニングする(ように見受けられる。これも僕の「勝手な想像」による表現だ)。僕は彼の姿、身体の動きを美しいと思う。

スポーツにおいての、試合。トレーニング。研鑽。その目的について僕が考える際に多大な影響を受けているのは、思想家の内田樹さんの知見だ。武道的思考。前回書いた「今における勝負及び遊戯のあり方」も彼の教えによる所が大きい(僕という不完全な「受け手」ではあるが)。

だが、影響を受けつつ、「自分なりに考えているつもり」で僕はこの先も文章を認める。僕なりに「偉大な思想」を咀嚼そしゃくして自分のものにしたいという野心。おそらく、これは「剽窃ひょうせつ」とは呼ばないだろう。

なぜ、僕がスポーツにおける「試合や勝負のあり方」に着眼して文章を書くかについて、疑問を持たれるかもしれない。自分でも今の時点で、その理由を明確に言語化して説明できる訳でもない。

おそらく僕はスポーツに「終わらない自己成長、自己啓発」の夢を見たいんだと思う。それは僕の執筆活動でも同じ。その上で、試合は「自己成長を促す装置」に過ぎないのと同時にそこで「全てを出し切る舞台」としての「両輪の機能」を僕は期待する。

試合は互いの潜在能力を十分に発揮することが第一の目的とされる。競技を通しての自己成長、能力開発。それは集中とブレイクスルーが可能にする(試合中、ゾーンに入った時の動作のあり方を僕の言語表現では表し切れない)。

試合前に思いもよらなかった動きが本番の試合を通して出来れば収穫だろう。昨日より強く、上手くなったということ。これが「練習を試合のようにして、試合を練習のようにする」ことの意味の一つかもしれない。

ちなみに、目標の試合、大会をゴールとして設定すると、そこで有終の美を飾ればそれは良い思い出にもなる。スポーツを「一生の友」としないなら、それも良いだろう。


「勝利も敗北もないまま 孤独なレースは続いていく」

「果てしない闇の向こうに Oh, oh 手を伸ばそう
 誰かの為に生きてみても Oh, oh Tomorrow never knows
 心のまま僕はゆくのさ 誰も知る事のない明日へ」

Mr.Children の「Tomorrow never knows」の歌詞からの引用。

1994 年リリース。

小学生の頃、姉の影響で繰り返し聴いた歌。先日テレビ番組のライブ形式で本人たちが歌唱されていた。

感想。時間が過ぎ去った事と、彼らが(同じく自分も)まだ健在だという事実に不思議な感情が湧いた(月並みで普遍的な感想だ)。
嬉しいとか、勇気とか、達成感とか、安堵感とか他にも様々な感情がその何分間に凝縮されて身体を巡った気がした。思い返せば余韻は今もある。これも音楽の素晴らしい所だ。

「勝利も敗北もない」

これが僕の取り組む「勝負」の特徴かもしれない。たとえば、自分で文章の「良し悪し」を判断することもあるが、それで僕は「何かに勝つ」わけではない。ここに一切の(誰かが認める)ゴールはない。

文章をしたためめればここで生じる「人と僕との関係性」への捉え方にも明確な答えはないように思う。ここから語る先、方向。そこにいる(だろう)人。あるいは僕だけの確信、思い違いを元に僕は「表現の向かう先」を定める。そこに愛すべき同志がいるかのように。

しかし、いつも「そこに人がいる」ことを想定しながら、僕が「ここで振る舞う」ことにも明確な答えはない。僕は言葉の上でどう振る舞うだろう。

人を勇気づけたいが実際は害するかもしれない。手を繋ぎたいが実際は断絶をもたらすかもしれない。この視野からはどう言葉が受け止められるかは判らない。確かめようのない「表現という灯火」の行方。僕自身が言葉の持つ「強さ」と「包容力」をどう信じられるか。そういう点では「孤独なレース」は今も続くだろう。

過去の歌が今の僕の心境を説明する。

これは喜びであり、同時に自己理解の過程だ。ただ、必ずしも僕は既存の歌詞に沿って生きるだけでもない(当然だろう。ここに「新たな僕の歌」がある)。

少しの改変を許してほしい。

「果てしない闇の向こうに」つまり、月日が経った今は「果てしない光の中に」既に僕はいて、ここで「手を広げている」。
もう不必要に求めることはない。全身を世界に差し出す。多くを抱き留めて、受け止めて、自分が何者でもないように、何者でも良いように、ただ存在する(日常に通底する個人的なイメージ)。そう望む。だから、どんな歌も胸に強く響く。

事実、ここで誰からも疎外されない。心的事実として「僕らがいる」と感じられる。表現の傍、存在を受け止める人。耳を傾ける人。応援してくれる人。どこかで並走する人。静かに誰をも傷つけず佇む人。
想像力の許す限り、つまり、僕の望む限り「共に生きる存在」をこの場所で感じられる。

「素晴らしい物語」としての今。信じればそれはいつでも脳裏に現れる。だから、これを「事実化」するように僕は語る。

人は支えてくれる。歩みを共にしてくれる。だから、誰かの支えになりたい。遠くにいて思いたい。近くにいて感じたい。
ある世界、僕が生きる現実。辿り着いた先。手を広げて胸の内を外に差し出せば世界は自然と融和する。その様に現実を眺めるだけで、世界は「達成」される。それだけの「材料」はもう眼前の景色に揃う。

たとえば、素晴らしい歌がある。先を行く人々の背中に僕は「研鑽と受容の声」を聴く。僕の存在だって「どこにも取り零されず」それでいて「朗らかに前を向ける」と。

Tomorrow never knows.

明日を生きる人はいつでも僕より偉大に見える。
僕より上の世代で、少年期から「スター」として見上げた人達。彼らはどこか地に足が着いて実直で、だからこそ「月まで届くような」飛躍的な活躍を見せる。そこに驚きはない。今になれば深い納得だけがある。

僕はどうしようか。「今さら」とか言わず、ここで自分の希望を取ろう。

ここで「誰かの為に生きる」。僕の夢が現実になる。望みを一度失った「その後の世界」。関係する多くの人と生きる。新たな日、初めての日。気楽に安心して、心地よさを文章に込めよう。明日のことは分からない。だから、ここで光を感じればいい。

「心のまま僕はゆくのさ、誰も知ることのない明日へ」

そして、誰も知らない明日にいる。周囲には僕を知る人がいる。旧知のように「友人」と関わることができる。安堵、嬉しさ、静けさ。孤独なレースを誇らしく生きた結果を一人で顧みる。完全なる勝者と敗者として、勝負を潜り抜けた自分。
誰も知らない戦い。試練に立ち向かい、乗り越えたこと。たとえその渦中でも、そんな経験談をおくびにも出さず、親しげに気安く人と付き合う、人々。

「これは僕の生き方に過ぎないから」

それを言葉に出さず、皆が潜り抜けた試練。「勝敗のないレース」を続けてきた者だけが知る「人が持つ安心感と安堵感」。だから、笑みはそれ以上に切実に感じられる。饗宴の空間には嬉しさの声が灯る。

今その様に生きている。これが一人の思い過ごしでも、君がいれば二人だ。僕らは連帯している(これが束縛でないことを祈る)。成し遂げた事は終わってから確認すればいい。

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