音楽原理主義過激派(バイエル終了程度)
私は、バイエル終了程度レベルなんですが、それでも弾いてみたい曲とかはたまに出てきます。
楽譜を手に入れ、さあ、やるぞ。
ゆ、指が動かない。
なんだこの和音は。
指が届かない!
断念! 残念!
なんてことがよくあります。
ところで、音楽を聴く時、
例えばJ-POPやアニソンなどは、ご存命のアーティストが多いわけで、当然オリジナルを聞く機会も多く、自分にはオリジナルが原曲として入ってくるわけですが、名曲になるとカバーも多い。
ところが、カバーになると、好きなフレーズの解釈が違ったり、ちょっと違うなって思う事も多いんです。
変なこだわりなのかはわかりませんが、やっぱオリジナルがいいなあって思っちゃうんですよね。
勿論素晴らしいカバーも沢山ありますし、カバーでもいいと思う事も少なくありません。
でもオリジナルに戻っていく。
逆に、楽曲提供者がセルフカバーとかしてると、それはそれでなんか味があると感じてしまうんですね。
音楽原理主義者なんでしょうか?
オリジナルこそが神であり原点である、うおー!
音楽原理主義過激派の誕生である。
さて、前置きが長くなりました。
音楽原理主義過激派としてクラシックを聴く。
この時、私の中では大体の場合、最初に聞いたオーケストラや指揮者、奏者の解釈が原典となりがちです。
例えば、
ベートーベンの月光であれば、晩年のルドルフ・ゼルキン氏。
バッハであれば、グレン・グールド氏。
ドラゴンクエストなら、当然すぎやまこういち指揮・東京都交響楽団。
パプリカなら米津玄師氏。
最後のはちょっと違うな。
ともあれ、音楽って様々な解釈や奏法が存在していて、かなり多岐にわたるわけですが、どうしても、これがいいって原典認定してしまうんですよね。
そうすると、原典認定してしまった以外の演奏は、ちょっと違うなってなってしまう。
まして、ピアノ曲を他の楽器で?
いやいや……
あれ?
意外といいぞ。
そしてその楽器によるその曲の原典認定が発行されてしまう。
音楽原理主義過激派の原典に、再び新たな原典が加わった!
よし、じゃあ、これをピアノで……
あれぇ、指が動かねえぞ?
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