【掌編小説】さよなら、トム
※ちょっと長めです。
「プレゼントだぞ、ノブ」
父が五歳の誕生日にくれたのは、当時の僕よりも少し小さな、隣に並べばまるで友達同士でもあるかのようなくまのぬいぐるみだった。
僕は、最近言うと褒められると覚えた「ありがとう」を口にした。父は、「お、よく言えたな。えらいぞノブ」と、大きな手で僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「なまえ、なんていうの?」
「名前え?」
僕が尋ねると父は無精髭を指先で弄りながらうーんと頭をひねった。そしてしばらく考えたのち、「……トムだな!」と満足げに笑った。
「トム?」
「そう。トム・クルーズもトム・ハンクスもかっこいいだろ」
幼い僕はその二人を知らなかったが、父が名付けてくれたのだからいい名前に違いないと思った。
「それに、ノブとトムで語感が良い」
伸明も俺がつけた名前だからな、と父は得意げに言った。
僕は、大きな黒いボタンの目を見ながら「よろしくね、トム」と茶色い毛の頭を撫でた。
それから何をするにしても僕はトムと一緒だった。
食事の時は母に頼んでトムの椅子を用意してもらい、僕の隣に置いた。スープを食べさせたいと強請ったら「こぼすからダメよ」と眉を顰めた母に「だってトムだっておなかすいちゃうよ」と訴えた。
寝るときは同じベッドに入った。母は「トムが来てからは一人で寝られるようになっちゃったわね」と少し寂しそうだった。
さすがにお風呂の中には連れていけなかったから、必ず脱衣所まで連れて行って、当時まだ使っていた縦型洗濯機にその柔らかな背中をつけて置いておいた。風呂から上がったばかりの濡れた体でトムを抱いたら「トムがびしゃびしゃになるぞ」と父に笑われた。
たまに、映画好きの父と僕の間にトムを挟んで上映会をした。トム・クルーズはかっこよかったけど、トム・ハンクスは普通のおじさんだなあと思った。「トム・ハンクスの魅力がわかるのは大人になってからだな」と、父はもう一度トム・ハンクスの映画を僕に見せた。
小学校に上がって、たっちゃんという友達が出来た。達也くんだからたっちゃんだ。
たっちゃんはロボットや乗り物が好きだった。「ウチ、お父さんがロボット映画よくみてるよ」と言ったら、たっちゃんは「みたい!」と鼻の穴を大きく膨らませながら食いついて来た。
小学生の帰宅時間に父はさすがに帰っていなかった。だから母に頼んでリビングでロボット映画を観た。かっこいい車がかっこいいロボットに変形するシーンでは、たっちゃんは立ち上がり顔を赤くして「すっげえ!」と興奮していた。
映画を観終わって、たっちゃんが「ノブの部屋みたい」と言い出した。僕は「いいよ」と立ち上がってたっちゃんを二階の自分の部屋に連れて行った。後ろから母が「あとでシュークリーム持っていくわね」と階段下から声をかけた。
僕の部屋のドアを開けて、たっちゃんは「なにあれ」と驚いた声を上げた。
視線の先には、少し頭を傾けてその黒くて丸い目をこちらに向けたトムがいた。
「トムだよ」
「トム? ただのくまじゃん」
「だから、名前がトム」
「お前、ぬいぐるみに名前つけてんの?」
「うん」
お父さんがつけてくれたんだよ。ノブとトムで、語感がいいんだよ。そう言おうとした。
「男がぬいぐるみとか、だっせえ」
唇を引き上げて、大人の真似をしてたっちゃんが笑った。
僕はとっさに言葉を返せなかった。
「ジュースとシュークリーム持ってきたわよー」
後ろからお盆を持った母がやってきた。「やったー!」と喜んだたっちゃんは部屋の真ん中に座り「ありがとうございます!」と大きな声で言った。
「元気いいわねー。ジュース、まだあるからもっと飲みたかったら言ってね」
母はお盆を僕とたっちゃんの間の床にそのまま置いて、部屋を出て行った。
「もうトムと一緒に寝なくていいのか?」
僕の部屋からリビングにその居場所を移動したトムを見て、父が尋ねてきた。
「トムが寂しいんじゃないか?」
父はトムを後ろから抱え、その両手を持って「ノブくんと一緒に寝たいよー」と腹話術もどきにもならない、おどけた声を出した。
それに、無性に腹が立った。
「……もういいんだってば!」
大きな声を出した僕に、父は驚いたようだった。
「そ……そっか、お前ももう、大きいもんな」
その時の父の顔を見られなくて、僕はそのまま二階に駆け上がった。
布団に潜り込んで、トムのいないベッドの中で小さくなってたら、なぜか涙が溢れてきた。なんで泣いてるのかよくわからなかった。
その日から、僕はトムに触らなくなった。
気付けばトムは、僕の視界に入らなくなった。母がどこかに片付けたんだろう。それがいつからなのかよく覚えていない。中学には上がっていたと思うけど、学校や友達や好きな子のことで頭がいっぱいだった僕は、トムを思い出すことすら億劫だった。
「あ」
クローゼットの奥の奥、季節の家電やらもうやらないゲーム機やらの下、破れかけた段ボールの中でトムは窮屈そうに収まっていた。
「あらあ、なつかしいわね。アンタ、だいぶ大きくなるまでトムと一緒に寝てたのよねえ」
部屋の片づけを手伝っている母が、隣から段ボールを覗き込んだ。
やっと受験勉強から解放されて連日遊び回っていたら、引っ越しの日はあっという間に近づいて来た。母に「いい加減部屋片づけなさい!」と尻を叩かれ、僕はようやく重い腰を上げたのだ。
「もってけば?」
「やだよ、男一人暮らしの部屋にこんなのあったら恥ずかしいよ」
「でもアンタ、トム大好きだったじゃない」
段ボールの中のトムを見ていると、たしかにそうだったな、と思い出してきた。
大好きだったのに、くだらない羞恥心で、こんな暗くて狭いところにずっと押し込めてしまっていた。
「それねえ、お父さんが『ノブに似てる!』って言って買ってきちゃったのよねえ」
お母さんはもっと男の子っぽいもの考えてたんだけど、と母は困ったように眉を下げてため息をついた。
「でもアンタが気に入ってくれたから、よかったわ」
僕は、トムをようやく段ボールから取り出した。年月の経った茶色い毛は色が薄くなって、昔よりも固くバサバサになってしまっていた。黒いボタンの目は糸がほつれて取れてしまいそうだ。
「アンタ持ってかないなら、綺麗にしてリビングに置いておこうかな」
母が僕に「はい、ちょーだい」と両手を伸ばす。僕は母にトムを手渡した。
手から、トムの重さが消えたのがわかった。
「目のボタンも付け直そうか」
母はトムを赤ん坊のように抱いた。ぬいぐるみだから表情は変わらないはずなのに、その時のトムの黒い糸で縫われた口元が、柔らかくなった気がした。
「……アンタ、出てっちゃうからさ。代わりにね」
母は腕の中にいるトムを見つめるのに目を伏せた。
「おーい、片付け終わったかー?」
部屋に入ってきたのは父だった。「なんだ、随分なつかしいもの出してきたな」
「お父さん、覚えてるの?」
「覚えてるさ、買ってきたのお父さんだぞ」
名前をつけたのもお父さんだからな、と父は自慢げに腕を組む。
「トム・クルーズとトム・ハンクスから名前もらったんだ。二人ともかっこいいだろ?」
昔と同じようなセリフに僕は呆れてしまう。年を取ると同じ話を繰り返すというけど、父もそれだけ老いたということなのだろうか。
「トム・クルーズはかっこいいけど、トム・ハンクスはただのおじさんじゃん」
「トム・ハンクスの魅力がわからないようじゃ、お前もまだ子供だな」
「でも、」
僕は、母の腕の中でどこか安心しているように見えるトムの腹を撫でた。
「トム・ハンクスの映画、……僕は好きだよ」
父は、皺の増えた顔で照れ臭そうに笑った。
トイストーリー5が公開になったと聞いたので。あとトムハンクスファンの方すみません!
