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編集ではなく、製作。

以前、
「わたしのスクリーン、あなたのスクリーン。」
「そのスクリーンに映る前に。」
という話を書いた。

わたしたちは360°ある現実を、 180°しか見られない。

さらに、 見えた180°を無意識に切り落として、 もっと小さな範囲でスクリーンに映している。

だから「わたしは実際に見た」という言葉も、 少し怖い。

そんな話だった。


今日、その話がもう一段、深くなった。

180°を100°に切り落とすのは、編集だ。

でも、もしかしたら人間には、 もうひとつ別の操作ができるのかもしれない。

存在しなかったものを、足すこと。


編集と製作は、違う

映像の編集は、撮った素材を切る作業だ。

余分なものを落として、 残したいものだけにする。

そこにあったものが、なくなる。

でも製作は違う。

撮っていない場面を、 後から作ることができる。

スタジオに背景を作って、 役者を立たせて、 「ここでこういうことがあった」 という映像を生み出す。

見た目は同じフィルムだ。

でも、それは記録ではなく、創作だ。


編集なら、痕跡がある。

切り落とした部分は、どこかに存在していた。 別の人間が同じ場所に立っていれば、 その100°は見えたはずだ。

「あなたにはそう見えていたかもしれないけど、 こういう場面もあったよ」

と、照合できる。

でも製作された映像には、照合できる元がない。

存在しなかったものが、 存在したことになっている。


恐ろしいのは、本人も気づいていないこと

編集には、まだ自覚が入る余地がある。

「あの部分は見なかったことにした」 「都合が悪いから、切り落とした」

それは、元の素材があったことを、 どこかで知っている。

でも製作は、違う。

スタジオで撮ったものが、 本人の中では「記録」として保存される。

「わたしはあのとき、こうされた」

「あの人はああ言った」

「あの日、あれがあった」

疑う理由がない。 自分で撮ったと思っているから。

嘘をついているわけではない。 その人の中では、本当にそこにある。


だから、かみ合わない。

同じ日にいた二人が、 まったく違う出来事を「記憶」している。

どちらかが嘘をついているのではなく、 それぞれが別の映画を上映している。

一方はドキュメンタリーで、 もう一方はファンタジーだ。

でも本人には、どちらも同じ「記録」に見える。


スクリーンの前には、三つの段階がある

最初の話から、整理するとこうなる。

まず、どこに立つか。

立つ場所が決まれば、見える180°が決まる。

次に、その180°を何°残すか。

都合のいい100°だけ残す人もいれば、 見えたものを切らずに持ち続ける人もいる。

そして最後に——

撮っていない場面を、足すかどうか。

ここで、「編集」と「製作」が分かれる。


わたしたちは誰でも、 多少は編集している。

それは認知の仕組みの話であって、 意地の悪さや不誠実さとは違う。

でも製作は、そこから先の話だ。

現実が素材ではなくなる。

物語が先にあって、 そこに合う素材が後から生まれる。


照合できる元が、ない

製作された記憶が怖いのは、 修正のしようがないからだ。

編集なら、まだ「切り落とした80°」が 世界のどこかに存在している。

証言でも、記録でも、 別の人間の記憶でも、照合できる。

でも最初から存在しなかったものは、 照合する元がない。

「そんなことはなかった」

と言っても、

「あった」

と返ってくる。

どちらが正しいのかではなく、 そもそも話している映画が違う。


ここまで書いてきて、 少し立ち止まる。

わたしは今、 他者のことを書いている。

でも2作目でも書いたように、 わたしも編集している。

では、わたしは製作もしているのだろうか。

正直、わからない。

製作している本人には、 製作しているという自覚がないのだから。

ただ一つ、わたしが意識していることがある。

見えてしまったものを、見なかったことにしない。

都合が悪くても、 物語に邪魔でも、 そこにあったなら、残しておく。

それだけが、 製作に近づかないための、 わたしなりの方法かもしれない。


スクリーンに映る前に、わたしたちは選んでいる。

どこに立つか。

何を残すか。

そして——

何もないところに、何かを足すかどうか。

見えたものを切り落とすのと、 見えなかったものを生み出すのは、 似ているようで、まったく違う。

その違いを、忘れないでいたい。

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