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わたしのスクリーン、あなたのスクリーン。

人はみんな、同じ世界に生きている。

そう思っていた。

同じ場所にいて、同じ出来事を見て、同じ言葉を聞いている。
だから、感じ方には違いがあっても、見ている世界そのものはだいたい同じなのだと思っていた。

でも、本当にそうなんだろうか。

最近、ふと思う。

もしかしたら、人それぞれに一本ずつ映画が用意されているのかもしれない。

わたしにはわたしの映画があって、
隣に座っている人には、その人の映画がある。

わたしの映画では、今ここで家族の話が進んでいる。
隣の人のスクリーンでは、宇宙戦争が始まっているかもしれない。

同じ映画館にいるだけで、
同じ作品を観ているとは限らない。


わたしは、人の言動にときどき強い違和感を覚える。

「どうして、その選択ができるんだろう」

「その言葉を言ったら、相手がどう感じるか考えないんだろうか」

「その人にはその人の人生があることを、どうして忘れられるんだろう」

わたしには理解できないことがある。

以前までは、
価値観が違うのだと思っていた。

優しいか、冷たいか。
繊細か、鈍感か。
想像力があるか、ないか。

そんなふうに、人間という同じ規格の中で差を説明しようとしていた。

でも最近、その前提そのものが怪しくなってきた。

そもそも相手は、わたしと同じように世界を見ているのだろうか。


わたしが誰かと話すとき、そこにはその人の履歴がある。

前に何を言っていたか。
どんなことで傷ついていたか。
何を大切にしていたか。
この一言を言ったら、別の誰かにどう響くか。

会話は、今この瞬間だけで完結しない。

過去も、現在も、その先も、わたしの中ではひとつにつながっている。

だから人数が増えるほど、話すことが難しくなる。

Aさんにとって一番いい言葉が、
Bさんにとっては遠回しな批判になるかもしれない。

Cさんには別の背景がある。

そんなことを考えているうちに、言葉が止まる。

自分ではずっと「考えすぎ」なのだと思っていた。

でも、もしかしたらわたしは、
ひとつの場面の中に存在する複数の映画を、
同時に想像しようとしているのかもしれない。


反対に、わたしとはまったく違う生き方をする人もいる。

自分が不快だから、相手が悪い。

自分が忘れたから、その出来事はもうない。

自分が満たされていることが大切で、
その瞬間、周囲の人が何を感じるかは視界に入らない。

同じ「人間」という名前で呼ばれていても、
内側で起きていることまで同じだとは限らない。

わたしにはわたしの主観がある。

痛いものは痛い。
寂しいものは寂しい。
誰かの言葉を覚えている。
昨日の出来事が今日につながっている。

でも、相手にもまったく同じ種類の「内側」があることを、
わたしは直接確かめられない。

相手の意識は見えない。

見えるのは、言葉と行動だけだ。


だから、少し怖い想像をする。

わたしの映画に登場する人たちは、
わたしの映画の中では風景の中の人なのかもしれない。

そして、わたしもまた、
誰かの映画では風景の中の人なのかもしれない。

他人がどんな主観世界を生きているのか、
わたしは永遠に直接見ることができない。

その事実が、不思議なのだ。

同じ部屋にいる。

同じ机を囲んでいる。

同じ出来事を経験している。

それでも、その出来事が持つ意味は、
一人ひとりまったく違うのかもしれない。

わたしには「家族の危機」に見える場面が、
誰かには「いつもの一日」に見える。

わたしには取り返しのつかない言葉が、
誰かには翌日には消えている。

わたしには一本の長い物語として続いている人生が、
誰かには、その瞬間ごとに独立した短編の連続なのかもしれない。


そう考えると、「分かり合う」という言葉も少し違って見える。

相手の映画を完全に観ることはできない。

スクリーンそのものを交換することもできない。

できるのはたぶん、

「わたしにはこう見えている」

と伝えること。

そして、

「あなたには、どう見えている?」

と尋ねること。

それくらいなのだと思う。

わたしは、誰かに簡単に「分かるよ」と言われることが苦手だ。

数分話しただけで、
わたしが何日も、何年も考えてきたものを、
ひとつの型にはめられると苦しくなる。

孤独そのものより、
浅く理解された気になられる方が、つらいことさえある。

だからわたしも、
誰かの映画を勝手に決めないでいたい。

これはこういう物語ですね、と
字幕を勝手につけないでいたい。

もし隣に座るなら、
同じスクリーンを奪い合うのではなく、

「そっちには何が映ってる?」

と聞ける人でいたいなって。


生を受ける、ということは何なんだろう。

同じ世界に生まれることなのか。

同じ種類の意識を持つことなのか。

それとも、
一人にひとつずつ違う映画を渡されて、
それぞれの物語を観ることなのか。

答えは分からない。

ただ、隣にいる人が、
わたしとはまったく違う映画を観ている可能性だけは、
忘れないでいたいと思う。

そして、たまにスクリーンの端が重なったとき。

「ああ、そこは同じものを見ていたんだね」

と言えたら。

それだけでも、
人と人が出会う意味はあるのかもしれない。


あなたの日常は、誰かの取り返しのない一コマかもしれない。
あなたの映画のテーマは何ですか?


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最近、もやもやすることが多くて感情のままに書いた。

事実ですら共有事項にならず、
約束が契約にならない毎日で。

あ、もしかしたら、人はそれぞれの映画を見ているだけなのかもしれない、と。



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