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宿るもの、受継がれるもの

実家の古い家にはゼンマイ式の柱時計があった。幼い頃、一日一回ゼンマイを回す役目は私だった。なにか命を吹き込む儀式のようで、その役目は私のお気に入りだった。

久延毘古

久延毘古(くえびこ)は、『古事記』に登場する、歩けないけれど世の中のことをすべて知っている案山子(かかし)の神だという。大国主命が国造りをした際、誰も名前を知らなかった少名毘古那神(すくなひこなのかみ)の名を教えた知恵の神だ。

生活に身近な案山子に宿る霊性は、神話の中で神格化された存在とも考えられる。古代の日本には、道具や日常の物にも霊が宿るという世界観があった。
「古くなって朽ちていくものに宿る霊力」に対する敬意と、「一歩も歩けないが、世の中の出来事をすべて知り尽くしている」という知性を併せ持つ存在だ。
民俗学者は、案山子信仰を「動けないが、あらゆることを見通す」という、ある種の観察者・記録者的な神格として捉えているようだ。自らは動かずとも、蓄積された経験と観察によって物事の本質を見抜く存在、という発想と重なる。
その場を動かず、田を見守り続ける久延毘古の姿は、現代作品でいえば『呪術廻戦』の天元を思わせるかも。

君が代

君が代は―親しい人、愛する人、尊敬する人の命は
千代に八千代に―数え切れないほどの長い年月、永遠に
さざれ石の―小さな石が
巌となりて―集まって大きな岩となり
苔のむすまで―そこに苔が生え、生い茂るまで

平安時代に編纂された『古今和歌集』に収められている「読人しらず(作者不明)」の和歌であり、もともとは長寿や祝い事を祈る歌(賀歌)であった。

私は、古代から受け継がれてきた命や思いが、何千年後の岩の苔にまで宿っていくという、日本独特の美学を表しているように思える。

思考の継承

私は幼い頃から物を擬人化する癖がある。自動巻きの時計や10年以上使っているMac、ヴァセリンのランプシェードなど。「調子悪そうかな」「汚れていないかな」と気を配る。さすがに声をかける事はないけれど。

先日、Rollei35をメルカリに出した。20年以上所有していたが、一時期のように写真を撮る事はなくなっていた。心の中でずっと申し訳なく思いながら、引き出しの奥にしまっておいたままだった。そして先日、このカメラを大切に使ってくれる人のもとへ送り出そうと決めた。

日本では「あらゆるものに神が宿る」という神道的な世界観があるが、私の場合、もしかしたら幼い頃に読んだ絵本などから受け取った思考なのかもしれない。

新しい物を自分が使うことで、変化が起き、使い込むほどに自分の手や体、癖になじんでくる。それが時を経て自分の相棒になり、愛用品となる。「遺品」や「愛用品」に特別な気配を感じる心理も、これに通じるのではないだろうか。

そして、「思考にも宿るものがある」という感覚が存在するように感じる。人から人へ受け継がれていく思想(ミーム)、言葉に宿る力(言霊)、神霊を分けるという神道の分魂──いずれも「宿る」という感覚と無縁ではないように思う。

人間の肉体は滅びても、そこで生まれた思い、祈り、真理の探求は言葉や物語を通じて他者の心に宿り、永遠に生き続ける。『古事記』の久延毘古も、『古今和歌集』の「君が代」も、そのような「宿るもの」の姿を、何千年も前から静かに語り続けている。

歳を重ねるごとに、君が代の「苔のむすまで」という一節に深く感動するようになっている。 「むす(生す)」という言葉は、人間の精神に対する深い敬意と信頼のあらわれのように思えてならない。

―最後まで読んでいただき、ありがとうございました―

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