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読書論 ピエール・バイヤール (2016) 『 読んでいない本について堂々と語る方法 』 | 書評

Bayard, Pierre. Comment parler des livres que l’on n’a pas lus ? Paris: Les Éditions de Minuit, 2007.


 私達はどのような姿勢で読書に向き合っているだろうか。几帳面な人は命題と命題間のつながりを意識したり、あるいは文法事項に細心の注意を払ったりしながら読むだろう。逆に、おおざっぱな人は面白いところを中心に読み、全体をさらっと流して「読めた!」という達成感を得ているのかもしれない。
 程度の差はあれ、これらのどちらも「読書」であることは疑いようのない事実だ。この前提に立つと、几帳面だとかおおざっぱだといった人格的な特徴についてとやかく議論することには全く意味がない。「ちゃんと読みなさい」と言われたところで、何をもって「ちゃんと」しなければならないかが不明瞭になってしまうのだ。
 このような「読めた」「読めていない」に関わる二項対立の脱構築を試みた人物として、フランスにおける現役の思想家であるピエール・バイヤールを紹介する。彼が著したこの『読んでいない本について堂々と語る方法』はベストセラーなので、既に書籍名だけでもご存じの方は多いかもしれない。この書籍で彼は新興宗教的な悪ふざけを行うのではなく、独自の読書論を展開している。
 『方法』を冠する書名から、How to本のような類いの書籍を連想される方も多いかもしれない。しかし、そこでバイヤールは標準的な読書観を破壊し、あまつさえ「読んでいなくてもある本について語っていい」と豪語しているのだ。バイヤールが教えてくれることは1つの定まった「読書のやり方」ではなく、各自が独自に考え続けるべき「読書と向き合う姿勢」である。


  • 本書は精神分析と読書を関連付けた非常に前衛的な作品である。バイヤールは本を「他者」と見立て、読書という経験を「自己と他者との出会い」と規定する。この視点に立つと、読書にはスペクトラム的な理解の段階があることが再確認される。彼が特に注目したのは、我々が比較的よく読んでいない本についての理解のグラデーションである。

  • バイヤールはその段階を「ぜんぜん読んでいない本」「ざっと聞いた本」「人から聞いたことがある本」「読んだことはあるが忘れてしまった本」に区分する。これらの段階に共通することは「100%本が『読める(理解できる)』瞬間は永遠に訪れない」という事実である。本が「他者」である以上、それぞれの段階において、本の内容(作者の思惑)を完璧に理解できることなどあり得ない。

  • このような理解のグラデーションを背景に、人々の間に特定の本は表象されている。そこでは、本はある事柄やテーマについての各人の認識や話題をつなぐための触媒に過ぎないのかもしれない。バイヤールは、このようなある特定の集団における、各人のテーマについてのおおまかな共通認識に「共有図書館」という鍵概念を与えた。

  • 「共有図書館」は書庫に本が詰め込まれたリアルな図書館とは明確に区別されるものである。そこでは、本の内容を1から10まで具に記憶することは全く問題にならない。重要なことは、そのテーマのなかで、ある書物を読書した経験がどこに位置づけられるのかをメタ的に認識できるか否かである。「共有図書館」のなかで、構成員から成る間主観の視点を取り入れながら、妥当な場所に特定の書物を布置する能力のことをバイヤールは「教養」と呼ぶ。ただし、各人が表象する「共有図書館」の範囲や構造はそれぞれ異なるため、厳密にどのような人物が「『教養』がある人」なのかを定義することは困難である。「教養」は曖昧さの助けを借りて初めて成り立つものである。

  • 更にバイヤールは「内なる書物」という概念を提出した。「内なる書物」とは、ある書物が読者の意識に顕れている際に、その読書体験の照合に用いられる内的な辞書(メンタル・レキシコン)のようなものだと私は理解した。「内なる書物」は、他者の無配慮な侵入を拒むために誇り高くあるべき自己を形作る要素のなかの一つである。私達は目の前の現象に飲み込まれると盲目的になってしまう。読書についてもそれは同じである。読書経験と「内なる書物」の間には距離がなくてはならないし、私達は意図的にそれを設けなければ自らを見失ってしまう。

  • 書物と自己の距離感を維持するために、読書経験は理性的な手続きを経て「内なる書物」のなかに咀嚼された状態で取り込まれる必要がある。この工程に必要なものは「スクリーンとしての書物」だとバイヤールは言う。「スクリーンとしての書物」は、「内なる書物」よりも前意識的な段階において、読書体験を検閲するフィルターとしての役割を果たす。現代の心理学的に言えば、短期記憶(ワーキング・メモリ)において、長期記憶に選択的に情報を転送する際に作動する処理能力に相当するだろう。


  • 以上より、バイヤールの読書理論は極めて精神分析的なもののように思われる。邪推かもしれないが、一見すると、「共有図書館」は構成員の集合的な意識・無意識が投影された表象、「内なる書物」は無意識、「スクリーンとしての書物」は意識・前意識段階と無意識を峻別する検閲のボーダーラインにそれぞれ置き換えて考えることが出来る。バイヤールは本書にて、しばしばフロイトの『夢判断』からと見られる引用を行っている。

  • フロイトによると、夢の検閲の作業を通して、無意識的かつ当人に都合の悪いものは、意味を削がれた意識的・顕在的なシンボルに変換される。困ったことに、このことを踏まえると、バイヤールが「検閲」と呼んでいる作業とフロイトのそれとでは、そのプロセスが逆転しているように思われる。フロイトは無意識から意識への流れを制限する働きを「検閲」と定義する。一方で、バイヤールが言う「検閲」の機能とは、意識から無意識へと向かう流れの最中に立ちはだかる防波堤のようなものである。これは「検閲」に該当するのであろうか。


  • 以上を考慮して解釈を改めると、バイヤールは顕在的な意識が及ぶ範囲で論を展開していると思われる。「内なる書物」は意識的なもの、「内なる書物」と関係を持つ自己は「意識化された自己」、そして「検閲」は読書経験が「スクリーンとしての書物」による選別を受けた後に「内なる書物」のなかに位置づけられるという、顕在意識の手が及ぶ範囲内で作用のことなのだろう。

  • このバイヤールの主張を引き受けたとき、では読書に関わる無意識はあるのだろうかという問いに突き当たる。
     読書に関わる無意識を明らかにするためには、読書における錯誤行為や、読書をめぐる神経症的な側面について自身で、あるいは友と一緒に考えてみる必要があるのかもしれない。良くも悪くも、ついついやってしまっている読書の癖が明らかになる可能性がある。その癖を突き付けられた時、私達は、そんなことはない! と顏を赤くしたり、そうだったのか、、と肩を落とすかもしれない。フロイト的に言えば、このような無意識の片鱗に直面させられた時に出てしまう拒絶反応こそが「検閲」の結果なのだろう。

おわりに

 本書の議論を通じて明らかになるのは、読書とは決して客観的・完全な理解に到達する営みではなく、むしろ曖昧さや不完全さを抱えたまま、自己の内面と他者としての書物との関係を編み直していく過程であるということである。バイヤールが提示する「共有図書館」や「内なる書物」といった概念は、読書が個人的経験でありながら同時に社会的・間主観的な営みでもあることを示している。また、精神分析的な視点から読書を捉え直すことで、意識の背後に潜む無意識や検閲の働きという新たな問題系が浮かび上がる。こうした考察は、読書という日常的な行為に潜む奥行きを再認識させると同時に、私たち自身の思考や認識のあり方を問い返す契機を与えている

著 東京の筋肉オタク


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