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いよいよ「豊臣兄弟」が、九州最強の「島津四兄弟」と対決する。義久・義弘・歳久・家久は、戦国最強の兄弟である

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」は、面白いですね。
椎葉村の実家に帰ったときなど、見ております。

いよいよ、豊臣兄弟が、九州最強の「島津四兄弟」と対決することになりますね。

豊臣兄弟も凄いですが、島津四兄弟も過ごすきます。

義久、義弘、歳久、家久は、戦国最強の兄弟だと断言できます。

得意技は、「釣り野伏戦法」です。

伏兵を潜ませた中央の部隊があえて敗走するふり(釣り)をして敵を誘い込み、三方から一斉に包囲殲滅する野戦戦術で、四兄弟の連携のもとで猛威を振るいました。

戦国最強の兄弟を決める戦いの舞台は、なんと宮崎。

現在の木城町の高城攻防戦が、豊臣兄弟と島津兄弟の戦いのハイライトです。

耳川の合戦で、豊後(大分)の大友宗麟を破った島津は、九州全土を征服するべく北上します。

豊後に攻め込み、大友宗麟は大坂へ逃れ、豊臣秀吉に助けを求めます。

秀吉は、まず島津に和睦を勧めましたが、島津方は応じませんでした。

そこで、まず長宗我部などの四国連合軍六千人余りを豊後に派兵しました。

四国連合軍は、秀吉からは待機を命じられていたのですが、眼前で島津に攻められている城をただ見ているだけでは忍びないと戦いを始めます。

島津軍は一旦引きました。四国連合軍は、戸次川を渡って追尾しました。

しかし、そこに待ち構えていた島津の伏兵と激戦となり、不意をつかれた四国連合軍は大敗して長宗我部らは逃走しました。

この四国連合軍の敗北を聞いた秀吉は、自ら出陣し九州征伐を決意します。

まず島津に和睦を勧めたのですが、島津方は和睦を拒んで、日向に引き上げて要地で迎え撃つことに決しました。

和睦が拒否された秀吉は、豊後の地で一挙に島津軍を殲滅する考えでしたが、島津の撤退は迅速でした。

肥後口(熊本側)を秀吉が、日向口(宮崎側)を秀長が侵攻します。

併せて30万人という軍勢です。

兵糧は1年分用意しました。

秀吉は、何よりもロジスティックが優れています。

秀長軍は4月6日に耳川を渡り、現在の木城町にある高城を決戦の地と定めました。

高城を包囲し、高城と財部(高鍋)の間に、51カ所の塁塞を築いています。

高城を守るのは、山田有信です。わずか1300人ほどの兵でした。

八万の秀長軍に包囲されながら、城からは一歩も出ず、落城する気配はありませんでした。

実は、秀長軍は、薩摩から来るであろう島津本隊との決戦に備えていたのです。

薩摩の総大将の島津義久は、高城からの救援要請に応えて、2万の軍勢を進行させました。

4月17日の夜午後10時に、島津義弘、島津家久らの軍勢は、高城の南に位置する根城坂を奇襲攻撃します。

ここは秀長軍の宮部継潤が、島津軍の急襲に備えて厳重に構築した砦をかまえておりました。

幅5.5メートル、深さ3.6メートルの壕を堀り、竹と木による柵で囲っていました。

柵は、地表に出ている高さが180センチ、土の中に埋められている長さが180センチというものでした。

島津軍は、柵の竹に鈹を括り付けて引き倒そうとしましたが、いくらひっぱっても全く微動だにもしません。

それでも島津の軍勢は、壕の死者を乗り越え乗り越え、死傷を省みず肉薄突破を試みましたが、果たせませんでした。

秀長軍からは、藤堂高虎、黒田長政、小早川隆景などの軍勢が駆けつけて、島津軍を退けました。

島津義久、義弘は都於郡城に、家久は佐土原城に、それぞれ逃れました。

小早川隆景と黒田長政は、追撃を主張しましたが、秀長は、島津軍得意の釣り野伏戦法を警戒して、追撃はしませんでした。

この根城坂の夜襲戦は、九州での天下分け目の戦いとなりました。

肥後口を進んでいた秀吉は、4月18日には八代に進出していました。

島津軍の総大将の島津義久は、4月21日に、秀長に和を請いました。

26日に高城はついに城を開きます。

高城を守り抜いた山田有信は、子を人質にして城を退去しました。

3日間拘束されましたが、解放されています。

5月3日、薩摩の太平寺(現在の薩摩仙台市)にいた秀吉は、秀長から島津氏降伏の報を得ます。

5月8日、出家して剃髪した島津義久は、太平寺の秀吉に正式に和を請い許されました。

秀吉は、帰途中の博多で九州の国割りを行いました。

島津義弘:諸県郡・大隅・薩摩

島津家久:佐土原

伊東祐兵:曽井・清武・飫肥

秋月種実:高城・財部(高鍋)・福島(串間)

高橋元種:県(延岡)・宮崎(池内)

こうして九州の戦国時代に終止符が打たれます。

島津氏は、大隅・日向の本領をほぼ安堵され、日向は分断政策によって統治されることになりました。

そしてこの分断統治は、日向幕府体制の基礎となり、明治維新まで日向は諸藩分立の地となりました。

島津四兄弟の中で、島津歳久は最後まで唯一秀吉に降伏することに反対しました。

秀吉が九州を巡視して歳久の領地を通過した際に、歳久の家臣が秀吉が乗った駕籠に向かって矢を打ち込む事件がありました。

豪華な飾りのついた駕籠に弓矢が刺ささりましたが、その駕籠には秀吉は乗っておらず、飾りのない別の駕籠にいました。

警戒していたのでしょうね。恐るべき秀吉。

後の朝鮮出兵の際に、島津家から唐津にある名護屋城へ出兵する途中、島津家の家臣・梅北国兼が肥後で反乱を起こしました。

梅北一揆といわれています。

この一揆勢の中に歳久の家臣や配下の者が多く含まれていたことから、秀吉は「歳久が裏で一揆を扇動した」と断定し、当主である島津義久に対して、歳久の首を差し出すように厳命しました。

義久は、弟の歳久を討つために軍を出しました。

兄の軍勢に囲まれた歳久は、竜ヶ平の平松神社付近で自決します。

一方、島津四兄弟の中で、一番先に秀長陣営に出頭して、和睦・降伏したのは末弟の家久です。

無駄な流血を避け、佐土原や島津家存続の道を探るための現実的な判断だったと言われています。

秀長との和睦が成立し、兄義久も降伏して、収束に向かっていた6月5日、家久は佐土原城で急死します。

毒殺説もありますが、病死説が有力です。

家久の急死により、佐土原島津家は危機に瀕しますが、息子の豊久が跡を継ぎました。

この豊久は、関ヶ原の戦いで、叔父の島津義弘を逃がすために、「島津退き口」で壮絶な討ち死にを遂げました。

島津豊久は、漫画の主人公になっています。平野耕太さんの「ドリフターズ」です。

関ヶ原で討ち死にしたはずの豊久が、異世界で暴れ回るという設定です。

また宮下英樹さんの「センゴク権兵衛」では、戸次川の戦いで、父の家久とともに戦う豊久が描かれています。

家久・豊久親子の居城の佐土原城には、漫画家のすがやみつるさんの絵による解説があり、勉強になります。

佐土原城は、漫画の城です。


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