【動画付短編小説】【JACK】断章/本音
――本人のいない会議で、人生を決めないことにした話
週末の黄昏。開店前だった。
まだ、看板には灯が入っていない。
夕方六時。新宿のはずれ。BAR JACK。
客を待つ前の、仕込みの時間。
カウンターの一番端に、少年が座っていた。
十七歳。黒いパーカー。足元には、くたびれたリュック。何も飲んでいない。
店主の神宮寺が、水を置いた。
「飲むか」
少年は答えなかった。
神宮寺も、それ以上何も言わなかった。
カウンターの向こう。常連の五島がブラックを飲んでいる。
手伝いの飛鳥が小声で聞いた。
「……何か話したんですか?」
神宮寺「まだ」
「どれくらい?」
「四十分」
飛鳥「四十分!?」
五島「静かな客だな」
飛鳥「客じゃないでしょう」
少年が、僅かに笑った。ほんの一瞬だった。
神宮寺は見ていた。だが、何も言わなかった。
また、沈黙。
店の時計だけが動いている。
カチ。
カチ。
カチ。
少年が言った。
「……帰りたい」
神宮寺「そうか」
飛鳥が少年を見る。
「家に?」
少年は頷いた。
数秒後。
「……でも、帰りたくない」
飛鳥が止まった。
「え?」
少年は俯いた。
「分かんない」
沈黙。
「帰りたいけど」
一拍。
「帰ったら、また同じになる気もする」
神宮寺「そうか」
「母ちゃんには会いたい」
「うん」
「でも、会いたくない」
「うん」
少年が顔を上げた。少し苛立っている。
「どっちなんだよって思わないの?」
神宮寺「思わない」
少年「なんで」
神宮寺「両方なんだろ」
少年は黙った。
五島がブラックを一口。
「人間なんて、そんなものだ」
飛鳥が少年の方を見た。
「……今、笑いましたよね」
五島「違うのか」
飛鳥「違わないです」
少年が、また僅かに笑った。
入口の扉が開いた。
陽子だった。その後ろに、四十代くらいの女がいる。児童養護施設の職員だった。
女は少年を見るなり、息を吐いた。
「良かった……」
少年の表情が消えた。
職員が近づく。
「みんな心配してたのよ」
少年は答えない。
「どうして勝手に出たの」
無言。
「何かあるなら、ちゃんと言わないと分からないでしょう」
神宮寺がグラスを拭いた。
少年は視線を落としたまま言った。
「言った」
職員が止まる。
「え?」
「何回も言った」
「……何を?」
「分かんないって」
沈黙。
少年の拳が、膝の上で握られていた。
「帰りたいとも言った」
「それは……」
「帰りたくないとも言った」
職員は困ったように眉を寄せた。
「だから、私たちもどうしたらいいか――」
少年が遮った。
「だから決めたんだろ」
「……」
「俺がいないところで」
店の空気が変わった。
陽子が、職員を見る。職員は何も言えなかった。
少年。
「学校も」
「面会も」
「次の施設も」
「全部」
ゆっくり、顔を上げる。
「俺の話なのに」
誰も答えなかった。
五島がブラックを置いた。
コト。
「本人がいない会議で、本人の人生を決めた」
職員「それは……安全を考えて」
五島「安全は必要だ。だが、安全と言えば何でも決めていいわけじゃない」
神宮寺「五島」
「分かってる」
五島は黙った。
職員が椅子に座った。疲れた顔だった。
神宮寺が、その前にも水を置いた。
職員「……人が足りないんです」
誰も何も言わない。
「この子だけじゃない」
少年は黙っていた。
職員「聞かなきゃいけないって分かっています」
一拍。
「でも、聞いた後、どうしてあげられるのか分からない」
職員は膝元に目を落とした。
「聞けば期待させる。叶えられなければ傷つける」
「だから……」
言葉が止まった。
神宮寺「聞かない方がいいと思った?」
職員は答えなかった。それが答えだった。
少年が、小声で言った。
「別に」
全員が少年を見る。
「全部叶えろって言ってない」
職員が顔を上げる。
「無理なら無理って言えばいいじゃん」
「……」
「なんで無理なのか。いつならできるのか。他に何があるのか」
少年はリュックを見た。
「それくらい、聞きたかった」
誰も動かなかった。
飛鳥が、カウンターの中で小さく息を吐いた。
少年。
「勝手に決められるのが嫌なんだよ」
神宮寺「じゃあ」
少年を見る。
「今、どうしたい」
少年は黙った。
十秒。
二十秒。
神宮寺は待った。職員も待った。誰も続きを促さなかった。
やがて少年が言った。
「……分かんない」
神宮寺「分かった」
少年が眉を寄せる。
「それでいいの?」
「ああ」
「決めなくていいの?」
「今日、決めなきゃならないのか?」
少年は職員を見る。
職員の口が、一度開いた。閉じた。手元の携帯を見るでもなく、少年の顔を見るでもなく、数秒だけ時計の音を聞いた。
「……今日中に戻さないと、こちらが困るのは事実です」
飛鳥が身を乗り出す。神宮寺が目だけで制した。
職員は続けた。
「でも、困るのと、決めるのは別です」
一拍。
「今日じゃなくていい。方針は、本人もいるところで決める」
少年は、初めて職員の顔を真っ直ぐ見た。
神宮寺「じゃあ、今日はそこまでだ」
飛鳥「えっ」
神宮寺「何だ」
「もっとこう……結論とか」
五島「一話で片づく話じゃない」
飛鳥が、五島の紙コップを見た。
「……分かってます。今、誰も片づいてないですし」
少年が笑った。今度は、少し長かった。
神宮寺が聞く。
「一つだけ決めるなら」
少年を見る。
「次の会議、お前も出るか?」
少年の笑顔が消えた。考える。
「……出ていいの?」
職員が口を開きかけた。止まる。手帳の端を、親指で一度折った。
「今ここで、出られると約束はできない」
少年の顔が曇る。
職員は目を逸らさなかった。
「規則と、他の子との扱いと、上司の判断がある。確認する」
一拍。
「確認した結果、無理なら、無理な理由を説明する。他の方法も、一緒に考える」
少年は黙っていた。
やがて、言った。
「出られるかは分からない。でも、いないままは嫌だ」
職員が、小さく頷いた。
少年。
「……うん」
神宮寺「それでいい」
職員「ごめんね」
少年は眉を寄せた。
「そういうの、いらない」
職員「でも」
「次から聞いて」
職員は、すぐには頷かなかった。頷く前に、一度息を吸った。
「分かった。聞く。聞いたあと、できないことも言う」
五島がブラックを飲む。
「一件落着か」
神宮寺「何も解決してない」
「そうだな」
「家にも帰ってない」
「ああ」
「施設の問題も残ってる」
「ああ」
「人手不足も変わらない」
五島はカップを置いた。
「だから?」
神宮寺は少年を見る。
「本人のいないところで、本人の人生を決めるのを一つやめた」
静寂。
五島。
「十分だ」
職員が立ち上がった。少年もリュックを背負う。
出口で、陽子が少年を見た。
「行こうか」
少年は、少し遅れて頷いた。
扉の前で、振り返る。
「なあ」
神宮寺「何だ」
「俺さ」
少し考える。
「また考え変わるかもしれない」
神宮寺「変わればいい」
「昨日と言ってること違うって言われる」
「昨日のお前と、今日のお前は違う」
少年は黙った。
カウンターの奥。
五島が笑った。
「途中だからな」
飛鳥「便利な言葉ですよね、それ」
少年が吹き出した。
扉が開く。
夜の街。
少年は、陽子と職員のあいだを歩いていった。
少しだけ距離を空けて。それでも、同じ方向へ。
神宮寺は、その背中を見ていた。
飛鳥が言う。
「……結局、本音って何だったんでしょうね」
神宮寺はグラスを拭く。
「知らん」
「え?」
「本人も知らないことを、俺たちが知ってどうする」
静寂。
五島がブラックを一口。
「探すものじゃないのかもな」
飛鳥「じゃあ、何です?」
神宮寺は拭き終えたグラスを置いた。
「今は、まだない」
一拍。
「ないまま、会議の席を一つ空けた」
店の奥で、五島が言った。
「分からないを、決めない理由にした。今までは、分からないを決める理由にしていた」
飛鳥は黙った。
「それだけだ」
店の扉が開いた。
最初の客が入ってきた。
神宮寺が店の灯りを点ける。
JACK。
店に、灯が入った。
夜が始まった。
(あとがき)
子どものころから、大人の会議の匂いが嫌いだった。
本人がいない部屋で、本人の今後が決まる。
現場に出てからも、同じ匂いを何度も嗅いだ。安全、人手、期限。どれも必要だ。それでも残った疑問がある。
「分からない」と言う人の人生を、誰が決めるのだろう。
帰りたいと帰りたくないは、同時に言える。
会いたいと会いたくないも、同時に言える。
人の気持ちは、会議に提出できるほど綺麗には整っていない。
この物語を書いて、答えが出たわけではない。
分からないなら、本人を外して決めるのではなく、分からないまま座れる席を空けておけばいい。

本人の人生を決めるのを一つやめた。
本音は、まだない。
ないことを、先に決めない。
【JACK】断章/本音
— 黒崎隼斗(旧名:隼人) (@hayato_watches) August 27, 2026
「両方なんだろ」──それだけで、十分な答えだった。https://t.co/p4VuytiyK8 pic.twitter.com/HbwLJquibQ

