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【動画付短編小説】【JACK】─外典 途中の世界/第九夜 完成された剣

漆黒の暗闇。

声だけが響いた。

レイヴン「Prāṇaṃ jāgaraya」
――生命を。目覚めさせよ。

闘技場。
空気が止まる。
誰も動かない。
誰も、その言葉を知らない。

ただ。
聞いてはいけないものを聞いた。
そんな感覚だけが、そこにあった。

レイヴン「Balaṃ vardhaya」
――力を。増大せよ。

貴賓席。
ヴァルグが立っている。

「レイヴン」
低い声。
「やめろ」

レイヴンは、目を閉じたまま答えない。

老魔術師「止めろ!」
「それ以上は――!」

レイヴン。
最後の言葉。

「Dehaṃ vajraṃ kuru」
――肉体を。金剛とせよ。

瞬間。
ドン――!

闘技場全体が震えた。

貴賓席のすぐ下。招待席。

飛鳥「――っ!」
ブラニ「何!?」

漆黒の魔力。
爆発。
観客たちが、思わず顔を覆う。

だが。
炎はない。
雷もない。
風すら、起きていない。

その時。
闘技場の片隅。
誰の視線も届かない暗がりで。
何かが、動いた。

サンスクリットの秘術は、現し世の向こうから、血と魔力の匂いに惹かれる異形まで引き寄せる。
それが何なのか。
まだ、誰も知らない。

神宮寺「……違う」
飛鳥「何が?」

神宮寺が、レイヴンを見る。
「外に出ていない」

「え?」

魔力は、すべてレイヴンの身体へ吸い込まれていた。
皮膚。血液。筋肉。骨。神経。肺。心臓。眼球。耳。
人間という器の、さらに奥。

ドクン。
巨大な鼓動。
ドクン。
もう一度。

銀の甲冑の隙間。
首筋。両腕。頬。
黒い紋様が、浮かび上がる。

飛鳥「……何なの、あれ」

老魔術師の顔から、血の気が消えていた。
「古代秘術……」

ブラニ「古代?」
老人「まさか。まだ継承している者がいたとは……」

五島が、紙コップを下ろす。
「何の魔法だ」

老人は答えようとして、言葉に詰まる。
代わりに、ヴァルグが答えた。

「サンスクリット」

完全な沈黙。

飛鳥「……サンスクリット?」
ヴァルグ「ああ。この世界で広く知られる魔術体系とは、根が違う」

神宮寺「どういう意味だ」

ヴァルグの視線は、レイヴンから離れない。
「古代ヘブライの術式は、言葉によって世界へ働きかける。
炎。水。風。結界。契約。封印。
外側の世界を書き換える術だ」

五島「なら、これは?」

老魔術師が、震える声で答える。
「逆だ」
一拍。
「自分を書き換える」

飛鳥「……身体強化?」
老人「そんな言葉では足りぬ」

レイヴンの身体へ、さらに黒い魔力が沈んでいく。

「人間は本来、自分の力をすべて使ってはいない。
筋肉。反射。知覚。神経伝達。痛覚。集中。恐怖。
身体が壊れぬよう、自ら限界を設けている」

ブラニ「それを……」
老人「外す」
飛鳥「全部?」
老人は頷いた。
「全部だ」

静寂。

ブラニ「じゃあ、そんなに強くなれるなら、みんな使えば――」
老人「使えない」
即答。

ブラニ「何でです?」

ヴァルグ「人間の身体は、その力に耐えるようには出来ていない。
筋肉は裂ける。骨は軋む。神経は焼ける。心臓は限界を超える」
一拍。
「そして、力を使い終えた時、代償はすべて使った者自身へ返る」

神宮寺「だから禁じられたのか」
ヴァルグ「違う」

神宮寺の目が、僅かに細くなる。
「違う?」

ヴァルグ「王が禁じたのではない。教会でも、魔術院でもない」
五島「誰だ」
ヴァルグ「使った者たちだ」
沈黙。
「自ら、封じた」

飛鳥「……自分たちで?」
ヴァルグ「ああ。力を知った者ほど、その力を恐れた」

闘技場中央。
レイヴンが目を開く。
瞳は赤い。
呼吸は静か。
だが、その身体だけが、人間とは違う何かへ変わったように見えた。

南雲「……」
レイヴン「南雲鷹夜」
南雲「何だ」

「先ほど、お前は私の完成に傷をつけた」
南雲「頬にだろ」
レイヴン「違う」
静かな声。
「私自身にだ」

南雲は、何も言わない。

レイヴンが、石床へ突き立てていた二本の魔剣を抜く。
ギィン――。

黒い魔力が、腕から手へ。
そして刃へ流れる。
二本の魔剣が、闇そのものを纏った。
空間が、僅かに歪む。

観客席。
ざわめき。

レイヴン「ならば、証明しよう」

一歩。
石床に亀裂。

南雲は剣を構える。

レイヴン「これが、完成された剣だ」
南雲「そうか」
レイヴン「まだ、その顔をするか」
南雲「他に、どんな顔をしろ」

レイヴン「ならば」

姿が消える。

南雲「――!」

轟音。
ガァン!!

剣と剣が衝突する。
瞬間、南雲の身体が宙へ浮いた。
十メートル。
吹き飛ぶ。

石床を、一度、二度、転がる。

飛鳥「南雲さん!」
ブラニ「南雲さん!」

南雲は即座に立つ。
だが、目の前にはすでにレイヴンがいた。

「遅い」

一撃。
南雲が剣を上げる。
ガン!!
腕ごと弾かれる。

二撃。
肩。
ザッ。
血。

三撃。
柄が鳩尾を打つ。
ドン!

南雲「ぐっ――!」

身体が折れる。
膝。顎。
鈍い音。

レイヴンが回転し、漆黒の双剣を交差させる。
黒い斬撃。

南雲は身体を捻り、直撃を避ける。
しかし、衝撃は逃せない。
ドン――!!

石壁に激突。
轟音。

闘技場に、静寂が落ちる。

南雲が壁から落ちる。
片膝。肩に血。
呼吸が荒い。

ブラニ「……強すぎる」
神宮寺「別人だな」
五島「違う。同じ人間だ。だから厄介だ」

南雲が立つ。
一歩。

レイヴンが消える。
拳が頬を打つ。
視界が揺れる。

次の一撃。
腹。
肋骨の一本が軋む。

南雲が剣を振る。
空を切る。
背後から蹴り。
ドン!

前へ倒れる。
剣を石床へ突き、辛うじて止まる。
振り返る。
遅い。

双剣が、上、下、右、左と降り注ぐ。
受ける。
腕が痺れ、指が開く。

レイヴン「これが、差だ」

技術ではない。
才能でもない。
限界を外した身体が、完成された剣を、ただ最短で通している。

一撃。
南雲の長剣が大きく弾かれる。
ガラン――。
手から離れた。

観客席。
声が消える。

先ほどまで、勝者を求め、血を求め、熱狂していた。
だが、もう誰も叫ばない。
あまりにも、一方的だった。

飛鳥「……もういい」
ブラニ「南雲さん……」

レイヴンがゆっくり歩き、倒れた南雲の前へ立つ。
「終わりだ」

返事はない。

「お前は強い。だが、私には届かない」

神宮寺が立ち上がり、貴賓席を見上げる。
「ヴァルグ」

貴賓席。
ヴァルグは動かない。

神宮寺「止めろ」
ヴァルグ「まだだ」
飛鳥「死んじゃいます!」
ヴァルグ「違う」
南雲を見る。
「まだ、終わっていない」

五島は何も言わない。
紙コップを握ったまま。
ブラックを飲まず。
ただ、見ている。

レイヴンが背を向ける。

その時。
指が動く。

南雲の、血に濡れた指先が石床を掴む。

レイヴンが止まる。

飛鳥「……」
ブラニ「え?」

南雲が身体を起こす。
片膝。
呼吸は浅い。
左腕が震える。
口元に血。

立とうとする。
膝が崩れる。
ドン。

ブラニ「もういいです!」

南雲は答えない。
視線を、遠くへ向ける。

招待席。
飛鳥。ブラニ。神宮寺。五島。
そして、その向こうに。
まだ名も知らぬ人々。

視線を戻す。
遠くの石床に、長剣。

手を伸ばす。
届かない。
這う。
一歩。もう一歩。
血が、石床に筋を残す。

指先が柄に触れる。
掴む。
剣を石床へ突き立てる。

腕が震える。
肩が上がらない。
呼吸が続かない。
それでも、剣を離さない。

力を込める。
片膝が上がる。
だが、もう一方の膝が折れる。
ドン。

飛鳥「南雲さん……もう……」

南雲は聞こえている。
それでも動く。

一度、息を吐く。
もう一度、吸う。
血が一滴。
また一滴と石床へ落ちる。

剣を支えに。
片膝。
そして、両足。
身体が震える。
激痛に、顔が一瞬だけ歪む。

それでも。
膝を伸ばす。

南雲鷹夜は、立った。

完全な沈黙。
誰も声を出さない。
誰も息をしない。
風だけが、石床を横切る。

レイヴンがゆっくり振り返る。
理解できないものを、初めて見る目。

「……なぜ」

南雲は答えない。
ただ、立っている。

レイヴン「なぜ、立つ」

一歩。
「傷つき」
一歩。
「敗れ」
一歩。
「倒れ」

声が、巨大な闘技場へ響く。
「力の差も、理解したはずだ」

南雲が剣を握り直す。
血が、柄を滑る。

レイヴン「何故、まだ前へ出る」

南雲は静かに答えた。
「途中だからだ」

完全な沈黙。
風が、闘技場を横切る。

レイヴン「……途中?」
南雲「まだ、終わってない」
レイヴン「何がだ」

南雲の目が、レイヴンを真っ直ぐ見る。
「守るものが、残っている」
一拍。
「それだけだ」

それだけ。
名誉でも、勝利でもない。
ただ、誰かを生かす。
そのために立つ。

観客席。
誰も声を出さない。
先ほどまで拳を振り上げていた兵士。
酒を飲んでいた男。
叫んでいた女。
子ども。
老人。
全員が、南雲を見ていた。

沈黙が長い。

やがて、五島がようやくブラックを一口飲む。
「似てきたな」

飛鳥「今、そこですか!?」
神宮寺が小さく笑う。
「影響を受けてるな」
五島「違う」
南雲「余計なことを言うな」
五島「お前に言われたくない」

一瞬の静寂。

どこかから、小さな笑い。
一人が吹き出す。
次に、もう一人。
また一人。

嘲笑ではない。
張り詰めていたものが、ほんの少しだけ解けた。
そんな静かな笑いが、闘技場へ広がっていく。

飛鳥が周囲を見る。
「……笑ってる」
神宮寺「ああ」
ブラニ「皆が……」
五島「人間だからな」

この国では、久しく忘れられていた。
命じられていない、笑いだった。

貴賓席。
ヴァルグだけは笑わない。
南雲と、レイヴン。
二人を見る。

ヴァルグ「……完成された剣は、迷わない。
無駄を削り、恐れを捨て、最短で敵を斬る。
それが、完成された剣だ」

側近「はい」

ヴァルグ「だが、あの男は」
長い沈黙。
「迷いながら、歩いている」

側近「……」

ヴァルグ「倒れ、間違え、それでも次へ進む」

ヴァルグの拳が、僅かに握られる。
「何故、折れぬ」

短い沈黙。

ヴァルグの目が、僅かに揺れる。
「私は……折れたことがあるのか」

答える者はいなかった。

闘技場。
レイヴンが、自分の手を見る。

完璧な剣。
九十九勝。無敗。王国最強。
そして、禁忌の古代サンスクリット。

速度も。力も。反射も。
すべて南雲を上回った。

何度も倒した。

なのに。
目の前に、南雲がいる。
立っている。

レイヴン「……」

右手が、僅かに震える。
自分自身が、その震えに気づく。

「……何だ」

双剣の剣先が、ほんの僅か揺れる。

「これは」

呼吸は乱れていない。
秘術も、まだ効いている。
身体は完全だ。

なのに。
剣だけが揺れている。

初めて。
剣が迷った。

南雲は何も言わない。
立っているだけ。

レイヴンは、踏み込めない。
「……お前は、何者だ」
南雲「普通の人間だ」

完全な沈黙。

五島がブラックを一口。
「……本人だけが、そう思っている」

神宮寺が小さく笑う。
「否定はしない」

飛鳥が周囲を見る。
誰も、もうツッコまない。

飛鳥「……もう誰もツッコまないんですね」
ブラニ「慣れたんじゃないですか?」
飛鳥「何に!?」
ブラニ「この人たちに」
飛鳥「……それは私もです」

遠く。
魔王領アビスヘイム。
黒曜城。
塔の中。

水晶には、ヴァルハイトの闘技場。
南雲。
レイヴン。
そして、震える二本の剣。

クロウは、水晶を見ていた。
「始まったな」

背後。
魔王。
「何がだ」
クロウ「変化だ」

一羽の黒い鳥が、空を横切る。
黒い羽根が、一枚。
風へ落ちる。

魔王「南雲が勝ったのか」
クロウ「違う」
魔王「なら、レイヴンの勝ちか」
クロウが僅かに笑う。
「それも違う。勝敗の話ではない」

視線を、水晶へ戻す。
レイヴンの剣先が、僅かに揺れている。

クロウ「完成された剣が、迷い始めた」
魔王「それは、敗北か」
クロウ「逆だ」
一拍。
「初めて、次へ進める」

沈黙。

魔王「……途中の剣か」
クロウ「そうだ」
魔王「南雲が?」
クロウ「違う」
一拍。
「レイヴンだ」

闘技場。
レイヴンの口が、僅かに動く。
「……途中」

南雲「何か言ったか」

レイヴンは答えない。
自分の震える剣を見る。
そして。
ほんの僅か、笑った。

今までとは違う。
勝った者の笑みでも。
負けた者の笑みでもない。
答えを知らない者の、笑みだった。

レイヴンは、その笑みのまま。
剣先を僅かに下ろす。

完成は、途中に敗れない。
そう思っていた。

だが今は。
途中を見た者だけが。
また歩けるのかもしれない。

黒い鐘。
もう一度。
ゴォン――。

暗転。

――【JACK】─外典 途中の世界/第九夜 完成された剣 完

──完成された剣が、初めて迷った。
それは敗北ではなく、始まりだった。
一人は魔力で剣を振るう。
一人は、意志だけで立っている。
──魔王は戦いを見ていた。
クロウは、その先の変化を見ていた。

――古代サンスクリット秘術《Vajra-Deha》。
恐怖、痛覚、迷い、そして肉体の限界。
人間を守るための枷を、一つずつ外していく禁術の歌。

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