【短編】未来を書いた手記
波の音が聞こえる。荒く寄せては静かに引いていく波の音。
頬や腹に砂の感触を感じる。右手を握ってみると、そこも湿った砂がざらりと触れた。
両手に力を入れて上体を起こしながら、瞼を開ける。そこは明け方の砂浜だった。
砂浜にしては狭いと感じたが、周囲を見渡すとすぐに、そこが小さな島であることが分かった。見る限り島に建造物はない。砂浜は島中央の小さな丘を覆う緑で絶たれている。
ここは無人島だろうか。
私は無人島に漂着したのか。
そこで後頭部に重い痛みを感じた。右手で触れてみると、ひどく腫れていた。
何かに強くぶつけたのかと薄暗い砂浜に目を走らせると、人影はなかったが、遠くに棍棒のような丸太が転がっていた。這っていきそれを拾い上げる。何の変哲もない棒だ。
私は丘を見やる。茂みはまだ朝の早い薄闇に覆われ、小高い影が私を見下ろしていた。風で木々が揺れ、葉擦れが優しく耳を撫でる。
息と木々と波の音だけが響いた。何分間そうしていただろう。目が闇に慣れたところで立ち上がり、茂みに開いた獣道へ一歩を踏み出した。足が湿った砂に少し沈んだ。
ちょうどその時、丘の一番上の木を朝日が照らし始めた。夜明けだ。
背後からの日光はゆっくりと島の上から下へ満ちていくだろう。砂浜に届くまではあと二十分ほどだろうか。
少しずつその形を露わにする島の丘に踏み入る。獣道とはいえ細かい枝葉が生え進路を妨害している。低い高さの草は私に踏まれると、大きく沈んだ。初めて人に踏まれたと言わんばかりだ。
やはりこの島に人はいないようだ。
そもそも私はどのようにしてここへ来たのかと不意に考えて、慄然として立ち止まった。
私は誰だろう。何の仕事をしていた?
記憶がポッカリと抜けている。後頭部を打った影響だろうか。
このまま記憶が戻らなかったらどうなる。この島を脱出したとして、私を認めてくれる者はいるだろうか。
絶望にひしがれながらも、食料は探さなければならなかった。茂みにさらに分け入る。
丘を深く進むと木々が増え、その中に椰子の木があった。実を割れば水と糖分を補給できる。どのように登ろうかと思案して、結局手と足でよじ登った。木の上の方にはもう朝日が差していた。空腹だったからか、朝日を受けた椰子の実はやけに煌々と輝いていた。実が意外と重く、眼下の茂みに落とした。薄闇で鈍い音がした。
椰子の実をその親である椰子の木に打ち付けて割った。中のジュースを飲み干す。荒々しい椰子の香りが口に広がる。
再び砂浜に戻ると、水平線に朝日が見えた。あぐらをかき、椰子の実をほじくって食べた。
この先どうするべきか見当もつかなかった。魚を獲る罠を作るべきか。火を熾すべきか。
椰子の実をほじくることしか今はできない。そう実を持ち替えた時、左ポケットで何かが潰れた音がした。
探ってみると、丸まった一枚の紙が入っている。ポケットから引き抜き、丸まりを緩める。
それは手記だった。一枚のA4紙に日本語が書かれている。
私の手記だろうかと思ったが、自分の字か判断がつかなかった。
どちらにしろここに来た経緯や私のことが分かるかもしれない。一頁だけであればすぐに読めるだろう。
そう考え私は、実を噛みながら、手記の歪んで揺れた文字を追い始めた。
私が死んだ時のために、私に何が起きたかを記しておく。
私、小田洋介は妻の奈緒美と小型ボートで洋上の釣りに出かけた。最初天候も問題なく波も高くなかったが、昼を過ぎてから急激に悪化し、海流を読み違え操舵を誤ったことで二人は海に投げ出されてしまった。
夫婦共に同じ島へ漂着したのは奇跡だった。
そこは西に島が見える小さな無人島だった。建造物はないが、島の中央に小さな丘がある。
確かにこの島と符合している。だがこの文を読んでも、私に妻がいたものか判然としなかった。
私は食料を探すため、茂みに開いた獣道へ踏み入った。少し歩いた先に椰子の木があったため、その実を二人で分けて食べた。
妻は衰弱していたため、木陰に休ませていた。私は実や魚を調達し、火を熾して食べ物を与えた。海上を横切る船にも服を振ったが、助けは来なかった。その繰り返しだった。
島の南側に岩場があり、そこに小魚が集まる。そのため食料には困らなかった。ただこの生活がいつまで続くとも言えない。誰か助けてくれ。
私は島の南側にぐるりと回った。その岩場は確かに存在し、小魚も豊富に生息していた。
この手記はこの島のことを完璧に言い当てていた。だがそれはおかしいことなのだ。
記述されたこの島の獣道は、久しく人が踏み入っていない有様だった。少なくとも一ヶ月は誰も来ていない。
一方でこの紙はA4であると判断できるほど、角がしっかりと残っていて、摩耗や損傷が少ない。日焼けによる文字の損失もなく、一ヶ月以上前にここへ来た人物の手記にしては綺麗すぎる。
まるでこの手記が、この島での私の行動を先回りして書いたように思えた。私はこれから魚を獲り、火を熾し、船に服を振る。
ただしその場合、どこかの木陰に私の妻が休んでいることになるのだが…。
ここで手記は大きく改行されている。おそらく記載する日を跨いだのだろう。
島を出る日、妻が死んだ。この島を出るのは私だけのようだ。必ず彼女の遺体を取りに戻ってくる。その時まで待っていてくれ。
私は島を一回りして、彼女の遺体を探した。無論食料にするためだ。
だがこの小さい島で人の遺体は一つも見つからなかった。
それどころか、この島の周りには島一つすらなかった。西側の海岸からも、手記にある西の島は見えなかったのだ。
この手記の著者は島から出たいあまり、幻覚を見ていたのだろうかと私は思った。
洋介は、その時まで待っていてくれ、と手記を締めくくると、もう一度奈緒美の遺体を顧みた。筏を作りながら食料を与え看病してきたが、海に出る日の朝、息を引き取っていることを確認した。彼女を食べる気には到底なれず、体力の消耗も承知で茂みの手前に穴を掘り、丁重に埋葬した。
二人分乗るはずだった少し大きい筏に、一人で乗る。
書き終えた手記をもう一度確認し、左ポケットにしまう。
オールで地面を押して、岸から離れる。島が、妻が、離れていく。
西の島へ向かうつもりだった。だが強い海流に押し戻され、どうにも近づくことができない。
そしてボートの時と同じような暗雲が、空に広がり始めた。元の島に戻ることもできない距離だった。海流を向かう先を読むと、そちらには島一つ見えなかった。
必死にオールで抗ったが、やがて高い波に飲まれ、筏は転覆した。
転覆する時、彼は妻の元に行くことを悟り微笑んだが、幸運か不運か、彼は回転する筏に後頭部を打ち付けてもなお、意識を失うのみに留まった。
後頭部から薄く血をたなびかせながら、彼の体はゆっくりと運ばれていく。海に抱かれて、ゆっくりと、遠く彼の知らない場所へ。
こちらは以下の企画に参加した作品です。
文頭を「波の音」で始めています。
