若者を育てるのは研修ではなく、「大仕事」なのかもしれない
この記事の要点
明治維新、満洲国建設、高度経済成長を眺めていると、日本には「巨大プロジェクトの中で若者を育てる」という循環があったように見える。若い教育人口が厚く、新しい事業が次々に生まれ、経験の浅い人間にも仕事が降ってきた。今の日本に不足しているのは、優秀な若者そのものというより、若者を鍛えるほど大きな仕事なのではないか。
明治政府には金も工場もなかった。しかし人はいた
明治維新直後の日本には、近代的な製鉄所も全国鉄道網も巨大民間企業もほとんど存在しなかった。それでも、わずか数十年で中央官僚制を整備し、学校を作り、鉄道を敷き、軍隊を編成し、製鉄・造船・鉱山などの近代産業を立ち上げた。
近代化だけを見れば、「明治人は特別に優秀だった」と言いたくなる。しかし、実際には近代日本は完全な人材ゼロの状態から出発したわけではない。
江戸時代には藩校、寺子屋、私塾などが存在し、とりわけ武士階級には読書、漢学、算術、行政実務を経験した層が蓄積していた。文部省の歴史資料によれば、1874年の人口調査では旧士族は総人口のわずか5.6%程度だった。ところが1878年の東京大学では、旧士族出身学生と平民出身学生の比率は約3対1だった。人口比から考えれば、旧武士階級が初期の高等教育人材を非常に厚く供給していたことになる。
明治政府自身も、近代科学については東京大学、近代技術については工部省を中心として西洋の知識と技術を導入し、多数の外国人教師・技師を招聘すると同時に日本人留学生を海外へ派遣した、と整理している。東京大学は1877年に成立し、同じ時期に工部大学校などを通じて技術者養成が進められた。
つまり明治日本に「近代技術」は不足していたが、「学ぶことのできる若い知識階級」はすでに存在していた。
しかも維新によって、武士という従来の職業そのものが崩壊した。それまで藩政を担っていた若い知識層が、新政府、軍、教育、実業、鉄道、鉱山へ一斉に流れ込んだ。
これは身分制度崩壊による巨大な失業でもあったが、別の角度から見れば、国家規模の人材再配置だった。
明治政府はゼロから人間を作ったのではない。江戸社会が蓄積していた読書階級を、新しい国家建設へ投入したのである。
満洲国は「国家を作り直す実験場」でもあった
満洲国という言葉を出すと、どうしても軍国主義や大東亜共栄圏といった政治的イメージが先に立つ。実際、1931年の満洲事変以後の軍事占領を背景として成立した国家であり、その侵略性や植民地支配の問題を切り離すことはできない。
ただ、ここではその正当性を論じたいのではない。歴史は歴史としてそこから何が言えるのかを考えることが現代人の務めである。
技術史・行政史として興味深いのは、満洲国が当時の日本の官僚、技術者、経済専門家にとって、既存制度の制約が比較的少ない場所で国家と産業を一から設計できる巨大な実験場になったという点である。
Janis Mimuraは、満洲へ渡った若い革新官僚たちについて、東京帝国大学などで教育され、日本国内では既存の官庁や産業界の抵抗に直面していた彼らが、満洲では経済開発と効率的行政を組み合わせた独自のテクノクラート的構想を展開したと分析している。満洲は軍人だけの世界ではなく、官僚、技術者、経済学者、企業家などが国家改造を試みる場所でもあった。
1937年には、関東軍司令部自身が『満洲産業開発五年計画綱要』を作成している。国立国会図書館に残る資料は全45ページで、目次には鉱工業部門をはじめ各種産業計画が並ぶ。単なる企業経営ではなく、国家単位で産業構造を設計しようとしていたことが分かる。
この「五カ年計画」という考え方自体、当時のソ連の計画経済を強く意識したものだった。満洲国の産業開発五カ年計画については、岸信介自身がソ連の方式を参考にした旨を述べているとする研究紹介もある。
満洲では、鉄道、鉱山、製鉄、電力、都市、金融、産業統制などを相互に結び付けて考えた。
今風に言えば、一つの工場を作るのではなく、
エネルギー供給、物流、資源、金融、住宅、都市計画、人材供給まで含めて産業エコシステム全体を設計する
という仕事である。これは相当に高度なシステム設計だった。
満鉄は「鉄道会社」の規模ではなかった
その象徴が南満洲鉄道、いわゆる満鉄である。満鉄は1906年に設立されたが、単純な鉄道会社ではなかった。鉄道だけでなく、港湾、炭鉱、製鉄、倉庫、研究調査など幅広い機能を持ち、鉄道附属地では行政的役割まで担った。
研究によれば、1931年時点で満鉄の従業員は約3万5,000人だったが、1942年には約29万6,000人まで増えている。わずか11年間で8倍以上である。研究者から「日本史上最大の企業」と表現されるほど巨大な組織だった。
現在の企業になぞらえれば、鉄道会社に商社、資源会社、製鉄会社、デベロッパー、シンクタンク、一部行政機能をまとめて持たせたような組織である。そこで働けば、一つの専門技術だけでは済まない。
鉄道を作るには、地質、測量、橋梁、機械、信号、電力、燃料、物流、都市計画が必要になる。炭鉱や製鉄を加えれば、化学、冶金、設備保全、経営、金融まで必要になる。
巨大プロジェクトは、それ自体が巨大な学校でもあった。
満洲重工業開発は巨大な官民共同スタートアップだった
1937年には、さらに重工業を一体的に運営するための満洲重工業開発株式会社、いわゆる「満業」が作られる。ここは制度設計がかなり面白い。
当時の閣議決定『満洲重工業確立要綱』を見ると、新会社は満洲国政府と民間が半額ずつ出資する構想だった。民間側には日産コンツェルンが予定され、鉄鋼、軽金属、自動車、航空機、石炭などへ支配的に投資することが明記されている。経営者には日産を率いた鮎川義介が想定されていた。
さらに同要綱には、外国資本や外国技術・設備の導入も積極的に進める方針が明記されている。
要するに、
政府50%+民間50%の巨大持株会社を作り、鉄鋼、軽金属、自動車、航空機、石炭などの戦略産業を傘下に置き、海外資本と技術も導入する
という仕組みだった。
現代的な表現を使えば、政府系投資ファンドと巨大コングロマリットを組み合わせた産業育成機構に近い。
鮎川自身も、1928年に日本産業を創設し、日産自動車、日立製作所、日産化学など145社を傘下に置く日産コンツェルンを形成した人物だった。1937年に日本産業を満洲へ移し、同年から1942年まで満洲重工業の総裁を務めている。満洲国建設は、官僚だけの国家計画ではなかった。軍、官僚、技術者、企業家、金融資本を一つの巨大プロジェクトへ結合する試みでもあった。
ただし、壮大な計画は万能ではなかった
ここで「満洲国は高度な計画国家だったから成功した」と考えるのも危険である。むしろ技術史としては、失敗も重要である。1937年に始まった産業開発五カ年計画は、直後に日中戦争が拡大したことで前提となる需給条件が崩れ、資金不足や熟練労働者不足に直面した。五カ年計画を分析した研究では、機械工業の未成熟、資金・労働力の不足などが計画の構造的弱点として指摘されている。これは非常に技術者的な教訓でもある。どれほど立派なマスタープランを作っても、人、金、設備、サプライチェーンが足りなければ計画は成立しない。
逆に言えば、この失敗も含めて、当時の官僚や技術者は国家規模のプロジェクトマネジメントを経験したことになる。
そして、その経験者が日本本土へ戻った
満洲で働いた革新官僚の一部は、その後日本本土へ戻り、戦時経済の統制にも関与した。この点については戦後との連続性をどこまで強調するか議論があるが、満洲で行われた統制経済や国家計画の経験が、その後の日本の経済運営に影響したという研究は存在する。とりわけ岸信介について、満洲で統制経済の「実験」を経験し、それが戦時期だけでなく戦後日本の経済政策にも影響を与えたと見る議論がある。もちろん、高度経済成長を「満洲帰りの官僚が作った」と一本の因果関係で説明するのは無理がある。
戦後復興には米国市場、朝鮮戦争特需、固定為替、人口構成、高い教育水準、民間企業の設備投資、海外技術導入など多数の要因があった。それでも、国家計画、大規模投資、重工業化、官民協調、長期産業政策を実際に回した経験を持つ人材が存在したという点は無視できない。
国家や企業にとって、実案件の経験は消えない資産なのである。
若者そのものも圧倒的に多かった
もう一つ重要なのが人口構成である。1930年の日本人口は6,445万5人だった。内訳を見ると、
0~4歳:901万1,135人
5~9歳:776万7,085人
10~14歳:680万1,045人
15~19歳:653万9,604人
20~24歳:553万1,506人
25~29歳:483万5,634人
である。割合にすると、
0~14歳が36.7%、
15~29歳が26.2%。
合計すると、人口の約62.9%が30歳未満だった。
今とは社会の形そのものが違う。1930年の日本では、三人に二人近くが30歳未満だったのである。若者が大量にいる社会では、上の世代だけで全ての仕事を回すことはできない。組織が拡大すれば、必然的に若い人間へ仕事と役職が降りてくる。しかも若者同士の競争も激しい。その中から優秀な人間が大量に現れる。これは、「昔の若者には気概があった」という精神論とは全く違う。
人口構造そのものが、若者を前線へ押し出していた。
巨大プロジェクトが巨大プロジェクトを回せる人間を作る
ここで因果関係を逆に考えてみたい。一般には、「優秀な技術者がたくさんいたから、日本は巨大プロジェクトを成功させられた」と考える。もちろん、それも正しい。しかし同時に、
巨大プロジェクトが大量にあったから、巨大プロジェクトを回せる技術者が大量に育った
のではないか。鉄道建設経験は、鉄道を作らなければ身につかない。工場立上げ経験は、工場を立ち上げなければ身につかない。海外政府との交渉経験は、海外で案件をやらなければ得られない。工場全体の工程を理解する能力も、一部分の設備改善を十年間続けるだけでは得にくい。明治期には鉄道、製鉄、造船、鉱山があった。満洲には鉄道、炭鉱、製鉄、電力、都市、新会社設立があった。戦後にはダム、新幹線、高速道路、発電所、製鉄所、石油化学コンビナートが次々に建設された。常に、「日本でまだ誰も十分に経験したことがない仕事」が大量に存在した。経験者が足りなければ、未経験者を使うしかない。そして未経験者は、仕事を終えた時には経験者になっている。人材育成とは案外、それだけのことなのかもしれない。
今の日本は、若手も新設案件も少ない
現在はかなり事情が違う。若者の絶対数そのものが減った。そして国内には既に道路、港湾、鉄道、発電所、製鉄所、上下水道など巨大インフラが一通り存在する。社会の仕事は「建設」から「維持管理」へ移る。既存設備を安全に使う。事故を起こさない。設備寿命を延ばす。省エネルギー化する。年間数%改善する。
もちろん、これらは非常に重要な技術である。しかし、何もないところに巨大システムを作る能力とは別物である。完成した大企業では、入社5年目の社員に会社全体を作らせる必要はない。完成した国家でも同じなのだろう。すると、「大型プロジェクトを回せる人材がいない」という問題が起こる。しかしこれは当然でもある。
大型プロジェクトを経験させていないのだから、大型プロジェクト経験者は増えない。
実際、日本政府も海外経験不足を問題視している
これは私の感覚だけでもない。国土交通省は2020年度から「海外インフラプロジェクト技術者認定・表彰制度」を運用している。
制度創設の理由として国交省自身が、本邦企業が海外インフラ事業を進めるには海外案件を担う人材確保が重要である一方、従来は海外での実績を国内公共工事で活用しにくく、技術者が国内と海外の双方で働きにくいことが課題だったと説明している。
2026年度の制度では、工事だけでなく、調査、詳細設計、施工監理、マスタープラン策定、技術協力プロジェクトなど幅広い海外経験を認定対象としている。また表彰枠では、40歳以下の若手技術者について「国土交通大臣奨励賞」の対象枠まで設けられている。
つまり行政側も、海外の大仕事を経験した技術者を意識的に育て、評価しなければならないところまで来ている。
ODAを「国家的OJT」として使えないか
そこで重要になるのがODAや海外インフラ投資だと思う。道路、橋、港湾、上下水道、発電、送電、鉄道など、途上国にはこれから作るインフラが大量にある。当然ながら、第一目的は相手国の発展である。昔の植民地開発のように、日本側の都合だけで使うことは許されない。
しかし双方に利益のある事業として実施するのであれば、日本がお金と技術を投入しながら、日本人技術者の育成には使わないというのも不自然である。例えば100億円のインフラ事業を考えてみる。ベテラン十人で効率良く完成させる。それも成功である。しかし、
ベテラン10人
中堅20人
若手50人
を計画的にローテーションし、若手にも測量、設計、調達、契約、施工管理、試運転、政府交渉、技術移転を経験させたらどうだろう。短期的には非効率になる。しかし、その50人は十年後には次の大型案件を率いる側になる。20年後には、その中から海外事業責任者や技術部長が出るかもしれない。
そう考えると、ODAについて、「橋を何本作ったか」「道路を何km整備したか」だけでなく、日本人若手技術者を何人育成したかというKPIを置いてもいいと思う。相手国を満洲国のように「実験場」と呼ぶのは適切ではない。しかし、相手国に必要な事業を、日本側の人材育成にも最大限利用するのであれば、それは互恵的な政策になり得る。
昔の日本人が優秀だったのではない
歴史を眺めると、「昔の日本人は優秀だった」と言いたくなる。しかし、私は少し違うのではないかと思う。明治の若者には国家そのものを作る仕事があった。
満洲へ渡った官僚や技術者には、鉄道、都市、電力、鉱山、製鉄、企業、制度を一から作る仕事があった。高度経済成長期の若者には、新幹線、高速道路、ダム、製鉄所、発電所、石油化学コンビナートを作る仕事があった。
彼らは、生まれた時から大規模プロジェクトを扱える人間だったのではない。身の丈以上のプロジェクトに放り込まれたから、巨大プロジェクトを扱える人間になった。今の日本は、若者そのものが少ない。だからこそ、その少ない若者を安全な仕事だけで囲う余裕は本来ないのではないかと思う。昔は人口構造と経済成長が、半ば強制的に若者を前線へ押し出した。成熟し、高齢化した国では、その力が自然には働かない。
ならば意識的に作るしかない。ODAでもいい。海外プラントでもいい。エネルギー転換でもいい。宇宙開発でもいい。防災インフラでもいい。必要なのは、「研修プログラム」を増やすことだけではない。若者が本当に責任を負う、本物の大仕事を増やすことである。国力とは、GDPや人口、軍事力だけではない。次の世代に、身の丈より少し大きな仕事を任せられること。そして、その失敗を吸収できるだけの余力を持つこと。
それもまた、国家の力なのだと思う。
※歴史認識の齟齬に関して争点とする意図はありません。あくまでも教訓的事例として引用しています。
