恋愛小説「今度、虹を見たら」第十八話〜人生の第二章〜
🌈前回のエピソード(第十七話)はこちら▼
【第十八話】
夫との婚姻関係を卒業すると決めたわたしは、それから数年かけて静かに準備を始めた。
塾の仕事を増やし、新たな資格も取得して、ひとりで暮らすための部屋を探した。
仕事や家事と並行しての準備は骨が折れたけれど、何十年かぶりの一人暮らしには胸が躍る。
離婚の意思を伝えたのは、真冬の寒い朝だった。
夫は、拍子抜けするほどあっさりと離婚を受け入れた。もしかしたら、わたしが切り出すのをずっと待っていたのかもしれない。
ドラマでしか見たことのない「離婚届」と書かれた紙。目の前で夫がその紙にサインするのを、わたしはどこか他人事のような気持ちで見つめた。
すでに巣立った子どもたちは、さすがにショックを隠せない様子はあったものの、ふたりとも納得してくれた。
「お母さん、これからは自分自身の人生を生きて」
そう言って、ふたりともわたしの新たなスタートにエールを送ってくれた。
あんなに悩み、夜も眠れぬほど葛藤し、子どもたちの未来や世間体を考えて胸を痛めていた日々が嘘のようだった。
役所の窓口で緑色の紙を提出し、いくつかの確認事項に頷く。
「はい、これで手続きの方は終了です」
という職員の淡々とした声とともに、二十年以上続いたわたしの「婚姻関係」は、一瞬で過去のものになった。
役所の自動ドアを出ると、雲の隙間から春の柔らかい光が差し込んでいた。 空を見上げ、深く息を吸い込む。
本当に自由になったんだ——。
心の中でそう呟くと、わたしは自分の「新たな居場所」へと続く道をゆっくりと歩き始めた。
しばらく手続きに追われる日々が続いたが、寂しさよりも圧倒的な開放感が胸を満たしていった。
一人で暮らす部屋。
好きな時間に起き、食べたいものを食べ、自分の足で立つ生活。
「誰かの妻」や「誰かの母」という役割を脱ぎ捨てたわたしは、ひとりでも十分に満たされ、幸せだった。
レイには、まだ離婚のことは伝えていない。
話せばレイが心配をしてくれることはわかっていた。きっと何度もLINEや電話をくれるに違いなかった。
けれどわたしは、別れの理由をレイのせいにしたくなかったし、彼を困らせたくなかった。
だから、悲壮感なく自然に話せる時が来るまで待つことにしたのだ。
新しい生活にも慣れ、わずかな心の余裕もできてきた頃、一通のLINEが届いた。
『元気? 誕生日おめでとう』
毎年届く、レイからの誕生日のメッセージ。
『ありがとう。元気です』
そう返信した後、わたしの中でふとある思いがよぎった。
今なら伝えられるかもしれない。
悲壮感や、「レイに同情してほしい」という自分のエゴをくっつけずにーー
わたしは
『ひとつご報告が』
とメッセージを送信した。
『はい』
いつものようにすぐに既読が付き、返信が届く。
小さく深呼吸をしてから
『離婚しました』
とメッセージを送信した。
心臓がトクトクと脈打つ。
レイはこれを見て、何を思うのだろう。
レイからは、思ったよりもすぐに返信が来た。
『え? 大丈夫? 大変だったな』
『うん。まぁね。よそから聞く前に、レイには伝えておこうと思って』
『そっか。今年の夏は実家に帰省するから、どこかで会おう』
その言葉に、わたしの胸の奥にずっと閉じ込めていた期待が、小さくはじけてしまった。
——どこかで会おう。
レイのこの言葉から、何かが始まるのかもしれない。 今度こそ、二人の関係が変わるかもしれない。そう思ってしまう自分がいた。
独身同士になった今なら。 何の障害もなくなった今なら……。
『うん。ありがとう』
そんな気持ちを見透かされまいと短く返信したものの、その日から淡い期待が頭を離れなくなった。
八月。夏の眩しい日差しの中、駅の駐車場に停めた車の中でレイを待つ。
こんな風に車でレイを待つ日が来るなんて、あの頃のわたしは思ってもいなかった。
コンビニのアイスコーヒーをひと口飲んで駅の方を見ると、帰省客の人混みの中にレイの姿を見つけた。
グレーのTシャツに黒い細身のジーンズ。肩にかけている黒いリュックは小さくて、とても帰省とは思えない。
小さくクラクションを鳴らすと、レイが気づいて車に近づいてくる。 少しだけ、鼓動が速くなるのを感じた。
「こっちもけっこう暑いんだな」
ドアを開けるなり、レイが言った。
「ま、東京に比べたらマシだけど」
そう言って助手席に乗り込んだ。
いつものタバコの匂いがふわりと漂う。
「東京の暑さは酷いものね」
「うん。通勤とか地獄。休みの日は外に出ない」
前回レイに会ったのは去年のお正月だった。
一年に一度静かに続けていた、あの冬の待ち合わせ。
けれどもうあの頃のように、後ろめたい思いをする必要はない。
わたしたちは車で三十分ほど走ったところにある、静かなカフェに入った。 ミルクティーと、アイスコーヒーを注文する。
「サラさんて、いつもミルクティーだよね。昔から」
「そういうレイは、いつもアイスコーヒーね」
「オレ、冬でも大体アイスコーヒーだもん」
「えー、冬でも?」
そんなたわいもない会話が心地いい。
「それで? 久々のひとり暮らしはどう? もう慣れた?」
ふいにレイに聞かれて少しだけ緊張する。
「うん。ぼちぼち。虫が家に入っちゃった時とかは大騒ぎしちゃうけど」
そう言うと、レイは可笑しそうに笑った。
離婚のことを自分から洗いざらい話すのも違うような気がして、わたしは当たり障りのない話をしながら、レイから切り出すのを待った。
けれどその後も、離婚の深い理由やこれからについて、彼が深く踏み込んでくることはなかった。
そのことにホッとする反面、少しがっかりする自分がいた。
「思ってたより元気そうで安心したよ」
レイの実家の前に車を停めると、レイはホッとしたような笑顔でそう言った。
「もっと、色々聞かれると思ってた。離婚のこと」
ちょっと不満げに言ったつもりだった。
本当はもっと、離婚の話を聞いて欲しかったから。
「サラさんが話したくないことは無理に聞かないよ」
優しい声でそう言って車から降りると、レイは「じゃあな」と手を振って玄関に入っていった。
このまま、何も変わらないのかもしれない。
わたしが自由になっても、レイとの距離が縮まる未来なんて、はじめから存在しなかったのかもしれない。
外はむせかえるほど暑いのに、心の中に冷たい風が吹き抜けた気がした。
その後、わたしは仕事の研修で、半年間月に一度東京へ通うことになった。
東京へ行くたび、時間を作ってレイと会うようになった。
レイの仕事が休みの前の日には二人で飲みに行ったり、時にはプラネタリウムや水族館に連れて行ってもらったり。
まるで恋人のようなその時間を、わたしはいつも指折り数えて心待ちにした。
半年間続いた東京出張の最後の日。 わたしたちは居酒屋で飲んだ後、宿泊先のホテルに向かって並んで歩いていた。
わたしは酔った勢いで
「なんか、ちょっと遠距離恋愛みたいだったよね」
と冗談めかして言ってみた。
レイは困ったような笑みを浮かべ、何も言わず足元に視線を落とした。
言葉をはぐらかすレイの態度に、胸の奥がキュッと絞めつけられる。
夢でさえ会うことがままならなかった頃は、
一言でいいから会って話したいと思っていた。
年に一度、小さな待ち合わせをしていた頃は、
時間を気にせず一緒にいられたらどんなに幸せだろうと思っていた。
ひとりになって自由になったわたしは、当時夢でしかなかった状況を、今ちゃんと叶えているのに。
いつのまにか欲深くなってしまったわたしは、この曖昧な関係にもう耐えられなくなっていた。
ホテルの部屋に戻り、スマホを開く。
『今日は楽しかった。ありがとう。あのね、レイにずっと聞きたかったことがあるんだけど』
送信ボタンを押すと、すぐに返信が来た。
『うん。どうした?』
もしこの先のメッセージを送ったら、わたしたちの関係はきっと変わる。良くも悪くも。
わたしは自分の心に決着をつけたい気持ちと、このままでいたいという気持ちの狭間で激しく揺れていた。
でも、もうこの苦しさを抱えてはいられない。
これ以上、曖昧なままでいたくない。
『わたしはレイにとって、どんな存在なの?』
そうメッセージを打つと、
わたしは震える指で送信ボタンを押し
息をのんで画面を伏せた。
しばらくして、LINEの着信音が鳴ったのは知っていた。
けれどわたしは返信を見るのが怖くて、すぐにはスマホに触れることができなかった。
真夜中。 ベッドに入ったもののなかなか寝付けずにいたわたしは、静かにスマホを手に取った。
暗闇の中で明るくなった画面には、
見慣れたアイコンとレイの名前。
わたしは大きく息を吐き出すと、
意を決してLINEを開いた。
そこにはレイの素直な、
けれど残酷な本音が綴られていた。
『サラさんのことは好きです。それにオレにとっては数少ない大事な人。
でも、オレはもうひとりの生活が長すぎて、今さら「彼女」とか「結婚」とか、誰かと深い関係になることは考えられない。
何ていったらいいかわからないけど、本当にごめん。
これからも変わらず、いい友達でいてほしい』
心のどこかがえぐり取られたような痛みを感じた。
「好き」という言葉と、「これ以上は踏み込めない」という拒絶。
ショックで涙さえ出ない。
今までの気が遠くなるほどの時間は何だったんだろう。
わたしに向けられていると思っていたレイの優しさや思いやりは、全部わたしの勘違いだったのだろうか。
運命としか思えなかったいくつかの再会さえ、全部わたしの思い込みだったのだろうか。
絶望と、悲しみと、
恥ずかしさで打ちのめされる。
贅沢なんて言っていない。
わたしはたった一人の大好きなひとに愛されたいだけなのに。
あまりにも辛くて、痛い——。
結局一睡もできないまま夜が明けた。
もうすぐ五十にもなるのに、いい歳をしてわたしは一体何をやってるんだろう。
もう期待をするのはやめよう。 だけど、完全に縁を切ってしまうこともわたしにはできなかった。
今の関係を失うくらいなら、たとえ不完全でも「友達」のままでいい。 そうやって自分を力づくで納得させ、メッセージを送った。
『わかった。ちゃんと振ってくれてありがとう。
これからも、友達としてよろしく』
すぐに既読が付き、レイからの返信が届いた。
『うん。ありがとう。また飲みに行こうな』
これでいい。
レイと一緒にいられるなら……。
わたしは自分にそう言い聞かせた。
秋が深まり、レイの誕生日が近づいてきた。
あの件があってから何となく気まずくて、ずっと連絡をしていない。さすがにしばらくは落ち込んでいたけれど、もうだいぶ吹っ切れたつもりだった。
毎年欠かさず送っている誕生日のLINE。
これをきっかけに、また前みたいな関係に戻ればいい。
「友達」という関係に——。
誕生日当日。
この時間、レイは通勤電車の中にいるはずだ。
『誕生日おめでとう。楽しい一年になるといいね』
そうメッセージを打つと、送信ボタンを押した。
いつもならすぐに「既読」がつくはずだった。
「ありがとー!」と短い言葉が返ってくるはずだった。
けれど、数時間経っても、夜が明けても、
画面の「既読」の文字はつかない。
一日が過ぎ、二日が過ぎ、一週間が過ぎても、LINEは既読にならないままだった。
突然訪れた、完全なる音信不通。
ひとりの部屋で、わたしは何日も既読のつかない画面をただじっと見つめていた。
つづく。
🌈「今度、虹を見たら」全話まとめマガジン▼
