カルヴァン『キリスト教綱要』試論①
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荒川幸也「カルヴァン『キリスト教綱要』試論①」(researchmap)
はじめに
本稿ではジャン・カルヴァン(Jean Calvin, 1509-1564)の著書『キリスト教綱要 初版』(Christianae religionis institutio, 1536)の読解を試みる。邦訳は深井智朗訳(講談社学術文庫、講談社、2025)を参照したが、引用する際に訳文は適宜修正した。
本書の読解に入る前に、さしあたり筆者とキリスト教との関係について述べておく。筆者とキリスト教との原体験は小学校にまで遡ることができる。筆者は横浜三育小学校というセブンスデー・アドベンチスト教会の小学校に、1996年から2002年までの六年間通い、卒業した。土曜日は教会に通い、牧師の話を聞いた。クリスマスには聖書の演劇をした。筆者は小学校でも教会でも日常的にお祈りをし、讃美歌を歌い、聖書の物語を聞かされて育った。だが、小学校を卒業してから、筆者はキリスト教の学校や教会との関わりを持たなくなった。大学では主に哲学と思想を学んだが、むしろマルクスを中心に読んでいたので、キリスト教との関わりはなおさら持たなかった。ゆえに筆者は専門的で体系的な神学の知識を持っていない。仮に聖書に言及したとしても、小学生の頃に刷り込まれたキリスト教との原体験を基にカヴァーしているに過ぎない。しかしだからといって、その原体験が無駄だとは決して思わない。体験は知識とは異なるからである。
カルヴァン『キリスト教綱要』
「綱要 institutio」とは何か
本書の正式な標題は『キリスト教の宗教の教導、ほぼすべての敬虔の要諦、および救いの教義において知ることが必要なすべてのものを包含するもの:すべての敬虔を志す者にとって読むに最も値する著作であり、新たに出版されたもの』(Christianae religionis institutio, totam ferè pietatis summã, & quicquid est in doctrina salutis cognitu necessarium, complectens : omnibus pietatis studiosis lectu dignissimum opus, ac recens editum.)である。初版のタイトルが「Christianae religionis institutio」であるのに対して、第二版(1539)以降のタイトルは「Institutio christianae religionis」と語順が変更されているが、文字通りの意味は同じである。本書は第三版(1543)、第四版(1550)、第五版(1559)と版を重ねるにつれて構成に変更が加えられるとともに加筆修正が行われた。第五版はなんと初版の三倍の量があるという。渡辺信夫(1923-2020)が注意を促したように、「〈綱要〉と訳されるラテン語institutioは〈教育〉〈教程〉を意味する」【*1】。「institutio」の用法は、例えばクインティリアヌスの『弁論家の教育』(Quintilianus, Institutio Oratoria, 95)のタイトルなどにも見られる。少なくとも本書は「教育」の観点から書かれているということをあらかじめ念頭に置いておく必要がある。

では、本書は誰に対する「教育」を目的としたものなのか。献辞が捧げられたフランソワ王か、それとも当時の人々か。——いや、それ以上に問題なのは、初版からおよそ500年後に読む我々は、本書によって「教育」されうるのだろうか。本書を読むことを通じて、キリスト教の教義に精通すること以上に、何か倫理的で社会的な、教育上の効果があるのだろうか。
初版のシンプルな章立て
カルヴァン自身が『キリスト教綱要』第二版(1539)の中で初版(1536)を「小著 in minutis operibus」と呼んでいるように、初版の特徴としてその章立てがシンプルである点が挙げられる。後に第五版(1559)では構成が四編八〇章にまで膨らみ、章立てがより細かく分かれている。カルヴァンはいう。

本書で扱われる議論の要点【*2】は、次の通りである。
一 律法について、それは十戒の説明を含む【*3】。
二 信仰について、そこでは信条(我々はこれを使徒信条と呼んでいるが)【*4】の解説がなされる。
三 祈りについて、そこでは主の祈りの講解がなされる。
四 サクラメントについて、すなわちバプテスマと主の晩餐〔=聖餐〕について。
五 これまで世の人々によってサクラメントと考えられてきた残りの五つのサクラメントはサクラメントではないことを証明し、ならば何であるのかを明らかにすること。
六 キリスト者の自由、教会の権能、国政について。
ここでは「本書で扱われる議論の要点 capita argumentorumn, quae in hoc libro tractantur」、つまり第一章から第六章までの目次が示されている。ここで律法から始めて、信仰、祈り、サクラメント、そしてキリスト者の自由や教会の権能へと進む順序には、カルヴァンの意図が垣間見える。つまりこの章立ての順番にはカルヴァンなりの論理があり、キリスト者の自由や教会の権能から始めて、サクラメント、祈り、信仰、そして最後に律法に至るような順序で論を進めることはできなかったはずである。

深井訳の意訳された目次
なお深井訳では本書の目次が次のように示されている。
〔献辞〕 9
第一章 律法について、十戒の説明を含む。……47
第二章 信仰について、使徒信条の解説を含む。……109
第三章 祈りについて、主の祈りの講解を含む。……167
第四章 サクラメントについて。……211
第五章 これまで世の人々によってサクラメントと考えられてきた残りの五つのサクラメントはサクラメントではないことを証明し、ならば何であるかを明らかにする。……299
第六章 キリスト者の自由、教会の権能、国政について。……425
訳者解題 539
訳者あとがき 561
第一章のタイトルが「十戒の説明を含む(quod Decalogi explicationem continet)」と訳されているのは概ね問題ない(ただし関係詞「quod」が訳出されていないが、なくても日本語としては問題ない)。だが、第二章と第三章の章タイトルには「〜を含む」に該当する動詞「contineō」が原文には存在しないので、深井訳では原文の目次を意訳して若干改変していることになる。第二章タイトルは「信仰について、そこではまた信条(我々はこれを使徒信条と呼ぶ)が説明される。(De fide, ubi et Symbolum (quod Apostolicum uocant) explitcatur.)」が直訳であるが、深井訳ではこれが「信仰について、使徒信条の解説〈を含む〉。」と意訳されている。第三章タイトルも同様の仕方で改変されている。すなわち、「祈りについて、そこではまた主の祈りが解説される。(De oratione, ubi et Oratio dominica ennaratur.)」が直訳であるが、深井訳ではこれが「祈りについて、主の祈りの講解〈を含む〉。」と意訳されている。ただし直訳ではなく意訳しているからといって、内容が大きく変わっているわけではない。
第一章 律法について、十戒の説明を含む。
〈神〉の認識と〈我々〉の認識

聖なる教理の全体は、およそ神の認識と我々自身の認識という、これら二つの部分から成り立っている【*5】。
カルヴァンによれば、「神の認識」と「我々自身の認識」という「二つの部分」がキリスト教の「教理(ドクトリン)」を成している。ここには〈神〉と〈我々〉という二つの極が前提とされている。だが、筆者には、この世界は〈神〉と〈我々〉以外のものからも構成されているように見える。それは動物であったり、植物であったり、これらは総じて自然と呼ばれるものである。〈我々〉人間自身は〈神〉ではない。したがって、「神の認識」といっても、それはあくまで〈我々が理解する限りでの「神の認識」〉であり、〈我々が理解する限りでの「我々自身の認識」〉ではなかろうか。カルヴァンは「神の認識」に関して次のように述べている。
実のところ、現在において我々が神について学ぶべきことは、次の通りである。第一に、我々が確かな信仰をもって確立すべきことは、神ご自身が無限の知恵、正義、善性、慈悲、真理、力、および生命であるということ、そして全くもってそれ以外の知恵、正義、善性、真理、力、および生命は何ら存在しないということである。また、それら〔知恵、正義、善性、真理、力、および生命〕のもののうち、どこであれ見られるものは、神ご自身に由来するのである。【*6】
ここで〈神〉の概念として「無限の知恵、正義、善性、慈悲、真理、力、および生命」が挙げられている。これらの概念については、これまで多くの哲学者たちが思索を巡らしてきた。しかもその思索は現在も続いている。だとすれば、〈神〉とは、〈我々〉人間がこれまで不断に追求してきた絶対的理念そのものであると言えるだろう。

第二に〔我々が神について学ぶべきことは〕、天にありまた地にあるすべてのものは神の栄光のために〔神によって〕創造されたということである。したがって、〔天にあり地あるすべてのものの〕いずれもが自らの本性に応じて神に仕え、神の至上の支配権〔帝国〕を見て、神の威厳を仰ぎ見、服従することによって、主および王として認めることが、正当に神に対してなされるべきことである。【*7】
我々が神について学ぶべきことの第二は、神の被造物であるすべてのものが神に対してあるべき態度である。換言すれば、〈神の被造物はその造物主である神に対して、神を主として——同時に自らを従順な僕として——仕えるべきである〉という規範が、ここにある。
『バルク書』第三章と『ヤコブの手紙』第一章
ここでカルヴァンは『バルク書』や『ヤコブの手紙』などへの参照指示を出しているが、具体的な章句は明らかではない。そこで以下では、カルヴァンの参照指示に従って、テクストの主張と最も関連する具体的な箇所を探してみたい。
まず『バルク書』第三章の中で、本文と最も関係のある章句は以下の箇所であろう。
Disce ubi sit prudentia, ubi sit virtus, ubi sit intellectus, ut scias simul ubi sit longiturnitas vitæ et victus, ubi sit lumen oculorum, et pax.
学べ、どこに悟りがあるかを。またどこに力があり、どこに知識があるかを。そして知れ、どこに長寿と命があり、どこに目の輝きと平和があるかを。
ここで「Disce(学べ)」と言われていること、すなわち「prudentia(悟り)」や「virtus(力)」、「intellectus(知識)」などが、カルヴァンが先に述べた「私たちが神について学ぶべきこと」に通ずるであろう。
次に『ヤコブの手紙』第一章の中で、本文と最も関係のある章句は以下の箇所であろう。
Postulet autem in fide nihil hæsitans : qui enim hæsitat, similis est fluctui maris, qui a vento movetur et circumfertur :
いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。
ここでは「fide(信仰)」の重要性が説かれているが、このことはまさにカルヴァンが「certa fide(確かな信仰)」について述べていることに通ずると考えられよう。
深井訳では本文の内に聖書の参照指示が組み込まれているが、本来参照指示は欄外に置かれていた。本文内への参照指示の組み込みは、すでにペーター・バルト編『カルヴァン選集』(Joannis Calvini opera selecta, 1926)においてなされている。しかしながら、『キリスト教綱要』のラテン語原著初版(1536)を見ると、必ずしも編者による本文への組み込みが適切であるとは言い切れない箇所が散見される。この点については文脈に則して検証しながら考えてみたい。

『箴言』第十六章と『詩篇』第一四八編
ラテン語の原著では「uniuersa(すべてのもの)」の右側に『箴言』第十六章への参照指示がある。だが、どの具体的な章句を指しているのかは全く明らかではない。カルヴァンが具体的な章句まで書かなかったということは、本書の想定読者層はすでに聖書の大まかな文脈を知っていて、そこまで細かく言及する必要がなかったとも考えられる。
さしあたり「uniuersa」と最も関係があると考えられるのは以下の章句である。
Universa propter semetipsum operatus est Dominus ; impium quoque ad diem malum.
主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。
『詩篇』第一四八篇の参照指示は、「…quqe in coelo sunt et in terra, in eius gloriam creata…(天にあるものと地にあるものは、神の栄光のために創造された)」の横に置かれている。『詩篇』には実際に「caelum(天)」と「terra(地)」が登場する。
Alleluja. Laudate Dominum de cælis ; laudate eum in excelsis.
ハレルヤ。 天において 主を賛美せよ 。 高い天で 主を賛美せよ 。
Laudate Dominum de terra
地において 主を賛美せよ 。
こうした具体的な章句を示したからといって、本書の読解に役立つとは到底思えない。むしろ重要なのは、言及されている聖書の文脈から取り出されるその内容(その精神と言っても過言ではない)であろう。
(つづく)
註
*1:「キリスト教綱要」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社(コトバンク)。
*2: 「capita argumentorum, quae in hoc libro tractantur」(Calvin1536: 2)という箇所は、深井訳では「この書物が扱う主な問題」(深井訳8頁)と訳されている。「capita」は名詞「caput(点、章)」の中性複数主格である。「argūmentōrum」は名詞「argūmentum(議論)」の中性複数属格であり、「capita」にかかる。「tractantur」は動詞「tractō(取り扱う、議論する)」の直説法現在・三人称複数・受動態である。したがって、この箇所は「この書物で扱われる議論の要点」と直訳される。
*3: 「quod Decalogi explicationem continet」(Calvin1536: 2)という箇所は、深井訳では「そこには十戒の説明が含まれる」(深井訳8頁、強調引用者)と受動態で訳されている。「continet」は動詞「contineō(〜を含む)」の直説法現在・三人称単数・能動態である。したがって、この箇所は「それは十戒の説明を含む」と直訳される。
*4: 「(quod Apostolicum uocant)」(Calvin1536: 2)という箇所は、深井訳では「(それは使徒信条のことだが)」(深井訳8頁、強調引用者)と訳されている。関係代名詞「quod」は中性単数対格であり、先行詞に中性名詞「Symbolum」を取る。「Apostolicum」は名詞「Apostolicus(使徒信条)」の男性単数対格である。「uocant」は動詞「vocō(呼ぶ)」の直説法現在・三人称複数・能動態である。したがって、この箇所は「(我々はこれを使徒信条と呼んでいるが)」と直訳される。
*5: 「constat」(Calvin1536: 42)という語は、深井訳では「…で構成されている」(深井訳8頁、強調引用者)と受動態で訳されている。だが、「cōnstat」は動詞「cōnstō(〜から成り立つ)」の直説法現在・三人称単数・能動態であり、尚且つこの動詞は受動態をとらない。
*6: 「Haec vero de Deo nobis in praesentia discenda sunt. Primum, ut certa fide constitutum habeamus, ipsum infinitam esse sapientiam, iustitiam, bonitatem, misericordiam, veritatem, virtutem, ac vitam: ut nulla sit prorsus alia sapientia, iustitia, bonitas, veritas, virtus, et vita. Et quicquid earum rerum ubiuis spectatur, ab ipso sit.」(Calvin1536: 42)という箇所は、深井訳では次のように訳されている。「私たちが確かな信仰をもって神について知るべきことは、次のとおりだ。第一に、神は永遠の知恵、正義、善、憐れみ、真理、力、生命であり、神の他にはいかなる知恵、正義、善、憐れみ、真理、力、生命もありえない(『バルク書』第三章、『ヤコブの手紙』第一章)ということである。したがって、この世に見出されるあらゆるものは神から生み出されたもの(『箴言』第十六章)である。」(深井訳47頁)。深井訳はこの箇所で三重の誤訳を犯している。
第一の誤訳は、独立した二つのセンテンスの混同である。すなわち、深井訳では直前の「Haec uero de Deo nobis in praesentia discenda sunt.(実のところ、現在において私たちが神について学ぶべきことは次のことである。)」というセンテンスを文字通りに独立して翻訳しておらず、次のセンテンス「ut certa fide constitutum habeamus(私たちが確かな信仰をもって確立すべきことは)」と混同して翻訳しているのである。
第二の誤訳は、単純な訳語の誤りである。すなわち、深井訳で「永遠の」と訳されているラテン語は「īnfīnītam(無限の)」(形容詞「īnfīnītus」の女性単数対格)であり、「aeternam(永遠の)」ではない。「永遠」と「無限」とは言葉としても意味上においても明確に区別されるべき概念である。したがって、深井訳のように「īnfīnītam」を「永遠の」と訳すことはできない。
第三の誤訳は、解釈上の誤りである。すなわち、深井訳で「この世に見出されるあらゆるもの」と訳されているラテン語は「quicquid earum rerum ubiuis spectatur」である。指示代名詞「eārum(それらの)」は女性複数属格であり、これは「rerum(事物の)」にかかり、内容的には直前のセンテンスで述べられている「知恵、正義、善性、慈悲、真理、力、および生命」を指している。それゆえ、「rērum(事物の)」の範囲は「eārum(それらの)」という指示代名詞によって限定されている。にもかかわらず、深井訳はこの限定を無視して「この世に見出されるあらゆるもの」へと拡大解釈している。
*7: 「Deinde, uniuersa quqe in coelo sunt et in terra, in eius gloriam creata esse. Id'q; iure illi deberi, ut singula pro naturae suae ratione illi seruiant, eius imperium intueantur, maiestatem eius suspiciant, et parendo uelut dominu ac regem agnoscant.」(Calvin1536: 43)という箇所は、深井訳では次ように訳されている。「第二に、天地のすべては神の栄光をあらわすために創造された(『詩篇』第一四八編、『ダニエル書』第三章)ということである。そのため、すべての者は、神から与えられた神的本性ゆえに、神に仕え、神の法を守り、神の権威に従い、従順に神を主あるいは王と崇めることこそが神に対して最もふさわしい(『ローマの信徒への手紙』第一章)。」(深井訳47頁)。とりわけここでは被造物の「naturae」と神の「imperium」の問題について考えてみたい。
第一に、深井訳の「神から与えられた神的」に該当するラテン語が原文には見当たらない。「singula」は数詞「singulus(いずれも)」の中性複数主格である。前置詞「pro(〜のために)」は奪格支配であり、名詞「ratiō(理由)」の女性単数奪格「ratiōne」を取る。「nātūrae suae」はいずれも女性単数属格で「ratiōne」にかかるが、所有代名詞「suae」は「singula」を取る。指示代名詞「illī」は「ille」の男性単数与格であり、これは「Deus(神)」を指している。「seruiant」は動詞「serviō(仕える)」の接続法現在・三人称複数・能動態である。したがって、この箇所は「いずれもが自らの本性に応じて神に仕える」と直訳される。さて深井訳では「naturae suae」を「神から与えられた神的本性」と訳出しているが、これは一体どういう了見に基づいているのだろうか。とりわけ問題なのは、この「(神の被造物であるという)その本性(naturae suae)」を神的(divinae)と形容できるかどうか、換言すれば、カルヴァンの思想において、神の被造物が神性を有すると言えるのか、という点である。私は明確に〈できない〉と考える。なぜならば、神によって創造された「天にあり地にあるすべてのもの(uniuersa quqe in coelo sunt et in terra)」の「いずれも(singula)」が持っている本性(naturae)が神的(divinae)であるとは、カルヴァンのテキストには書かれていないからである。
第二に、深井訳で「神の法を守り」と訳されている箇所は、ラテン語原文では「eius imperium intueantur」である。「法」というからには、これは「lex(法律)」や「ius(権利)」の訳語に用いられるのが通例であるが、原語は「imperium」すなわち「支配」「統治」の意味であるから、これに「法」の訳語を用いている点に関して筆者は首肯しがたい。木村俊道(1970―)は「imperium」について次のように説明している。
「帝国」は、ラテン語で「命令」を意味する「インペリウム」(imperium)に由来する。それは当初、①執政官をはじめとする政務官の命令権や軍事指揮権を指していたが、のちに②支配権や至高の権力そのものを含意するようになる。そして、共和性から帝政へと移行する過程で、「インペリウム」は、現代における一般的な「帝国」の意味、すなわち③支配権が及ぶ広大な領域を示す概念としても用いられるようになった。
『キリスト教綱要』における「imperium」は、本来の古代ローマ共和政における「軍事命令権」や、ローマ法以来の「dominium(所有権)」と区別された「imperium(支配権)」のような政治概念とは異なり、内容的には「神の被造物である万物に対する神の支配」を意味していると考えられる。カルヴァン『キリスト教綱要』に出てくるラテン語を政治概念から読み解くことは、一見すると間違っているようにも思われるが、しかし『キリスト教綱要』初版が出た1536年は、マキアヴェッリ(Niccolò Machiavelli, 1469―1527)の没後、約一〇年が経過しており、近世政治思想の勃興期に差し掛かっていることも念頭に置いておきたい。その限りで、『キリスト教綱要』はただ単に組織神学の理論的な手引き書(institutio)として読まれるのみならず、ある種その時代の政治思想を反映した思想書としても読み解けるのではなかろうか。「imperium」を政治概念との比喩において理解するならば、これを「(神の)帝国」と訳しても差し支えなかろう。
なお深井訳で「崇めること」と訳されている原語は「agnōscant」であり、これは動詞「agnōscō(認める)」の接続法現在・三人称複数・能動態である。したがって、この箇所は「服従することによって〔神を〕主および王として認めること」と直訳される。
文献
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哲学・社会思想史研究
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