【短編小説】浦島事変
天地開けしその昔、空は高かり海広し。
大海原の果て遠く、空と海との境目は、いづこにあるとも知れぬほど。
月は満ちればまた欠けて、潮は満ちればまた引きぬ。
太平謳う海鳥と、安穏徴す凪の原。
漁夫は網引き舟を出し、漁火沖にまた焚きぬ。
童は今日も家出でて、さやけき渚に戯れる。悪童どもが見る先に、波間に出でたる何某か、ぬらりと頭をもたげれば、わっせわっせと浜に着く。
「なんだあ、あれ」
「なにって、そりゃ亀さ」
「なんだって、今に」
それは夢見し晩のこと、月が満ちたる夜のこと、浜に寄せるは亀と波、白砂に刻むは涙跡、尊き命をつなげたり。されどももかくは過ぎ去りて、涙の跡は波の跡、をかしあわれも先のこと。
「ありゃあ、手先だろう」
「ああん? 誰のだい」
「そりゃあ、竜宮様のだ。見てみい、甲羅に紋がある」
青き黒き水の中、深き暗き海の下、光も届かぬ闇の底、わだつみさまのおわすとこ。どこ吹く風の便りによれば、蓬莱聳ゆる仙の境。
「それが、なんだって浜におる」
「さてな」
「そんなもん、人攫いじゃ」
「ああん?」
「人様を海の底さ連れてくってか」
「さなり。何でも、竜宮も人足さ要ると」
「はん、なんぞ海底に人があらんや」
「魚人はおるやもしれん」
童げらげら打ち笑い、たちまち亀を取り囲み、やいのやいのとあげつらう。海亀ほとほと困り果て、否よ否よと首振るも、これは悪童、外患捕らえてしたり顔。いとけなきは仕方なし、驕りたかぶり有頂天、亀の言い分耳も貸さず。我らが正義と心得て、棒きれ振るい悪を成敗。亀様たまらずうずくまり、鰭で頭を押さえたり。これは難儀な海の亀、甲に頭は隠せぬもので、痛い痛いと呻き声、ついに終いにゃ目元に涙、かくは望月夜のごとし。
「こら、何しとる」
「あ、浦島の」
これは浦島、名は太郎。村長の御子、猛き者。腕も立つれば気も強し。
童たちまち震えあがりて、此度の沙汰を申し開くも、思い定むは判官ごとく、浦島一蹴これを退く。もはや夕暮れ、帰れ帰れと怒ってみれば、蜘蛛の子散らして帰りたり。 感激するは海の亀、いたく悦び感涙す。
「このご恩は必ずやお返しいたします。ついては、ぜひ竜宮へ。盛大な歓待をお約束しましょう」
浦島思うは先の言、悪童どもの早合点、いかでかよもや正しかりけり。卑し亀公、深淵からの手先なり。もはや浦島怒髪天、脇差抜きて刃を向ければ、右往左往の亀の首、問答無用、斬り落としたり。たちまち咲くは紅い華、波に打たれて滲むれば、徒花ごとく消えにけり。
*
時はしばらく砂の浜、悪童今日も逍遙す。 貝だ蟹だを見つけては、小枝でつつき弄ぶ。
するとにわかに沖の裏、高き波濤が迫り来る。 大波統べるは老いた亀、大亀小亀を引き連れて、ついに浜まで至りけり。童皆皆波に呑まれて、冷えた塩水被りけり。
「浦島を出せ。竜宮が皇子を殺めた罪人よ」
げに恐ろしき、長老亀の嗄れ声、悪童揃ってちびりけり。誰ぞ動けず黙りたり。
「はようせい」
亀ども焦れて鰭を上げれば、沖に狂濤生まれたり。もはや波より海という、かくのごときに大きくなりて、天地丸ごと呑まん勢い。 俊足の童、急ぎ伝令仕るも、時すでに過ぎ遅かりし。あああわれ、 人の命の儚さや、人の栄えの徒や。漁夫益荒男、婦女童蒙、庵荒屋、生けるも死すも、酸いも甘いも呑み込んで、狂濤里まで至りけり。しかれどかくは幸か不幸か、揶揄か皮肉か、浦島この時里におらず、めでたく難を逃れたり。
泣く者あれば、伏す者もあり。あるべき者もあらざりけり。
「ただごとならぬ」
村長俯き、眉をひそめて嘆かわす。
「国際問題じゃ。皇子を殺めたとなっては」
曰くは長老、村の先行き憂いたり。
「この先いかにして、村を守るのだ」
誰も答えず、海を見つめる。
波は静かに、寄せては返す。
されども皆は、知りてぞ恐る。
静けき海の、底なる怒り。
「浦島を出せ」
海より聞こゆは空耳や、常世誘う波の音。
者どもそろい、恐れおののく。
やがて浦島腹を決め、同胞たちに宣いぬ。
「不肖、我が命を以て、償わせていただきまする」
村長伏して、顔を覆えり。
誰ぞ泣き出し手を合わせ、誰ぞ海辺を睨みつけたり。
時は廻りて月の宵、浦島忍び海を眺むる。使いの亀に導かれ、やがて前へと歩みたり、波間に姿を沈めけり。
向かうは深き海の底、哀も涙も溶けにけり。
*
ここは常世は竜の宮。
珊瑚の柱、玉の御殿、獄牢なりて、浦島捕う。
しかしてこれは神童浦島、捕虜の身なれども自由は死せず、暗き海から光明見出す。
人の世の技語り伝えて、者どもからの信を得たり。
文記す方、酒醸す様、鉄鋳るよし、舟造るすべ、宮の栄の便となりけり。
魚人と語らい、亀に阿り、乙姫と睦み――いつか浦島、客の歓待得たりけり。宴催し饗献り、貝の笛、海松の琴、亀甲鼓、歌舞を尽くして浦島もてなす。
されば浦島、まれびとなれど人の子なりて、いつしか心、竜宮へ寄せぬ。
憎しみ消えて、恨みは薄れ、海の底にも人の情あり。
かくて年月流れに流れ、姓は浦島名は太郎、幾十年を海底に住みぬ。
もはや人里かつての故郷、されど姿は人の子なりて、遥かは遠き在りし日のまま。
ある日乙姫、浦島呼びて、
「竜宮と人が憎しみ合う時代は終わりました。これもそなたのおかげ。今こそ我々は、友となるべきでしょう」
浦島聞けば、いたく喜び、
「これで故郷も安らぎましょう」
涙滴らせ答えたり。
乙姫頷き、箱一つをば贈りたる。
「いかなるものにてございますか」
「玉手箱にございます」
かくは素朴の木箱なり、蓋は紐にて結ばれて、中も得体も窺えず。
「開けて見てもよろしいでしょうか」
「いいえ、なりません」
乙姫笑みて、
「故郷へ帰って、皆様方とともにこそ、お開けください」
浦島頭を深く垂る。海の民にぞ見送られ、淵の都を去りゆきて、人の世にぞ浮き上がりたる。
*
かくて浦島故郷へ帰る。
見慣れし浜も知らぬ村里、家々変わり道さえ変わる。
されど海のみ、あの日のままぞ。
浜辺に一人、老いたる男。浦島声を掛けにけり。
「おい」
老爺振り向き、眼見開く。
「誰じゃ、おぬし」
「わしだ。浦島。浦島太郎じゃ」
老爺しばらく、声も出せずに、ただただ眺む。
「……浦島?」
これは老いぼれ翁爺、白髪頭に禿げ頭、叩き起こして思案顔、しばらく経てば声上げて、よもやまさかと心得る。
「馬鹿なことを。おぬしはとうに、溺れ死んだと思うておったものを」
「何。少し、留守にしていただけだろうて」
老爺目尻に皺をよせ、涙ながらに笑いたり。
その様見れば浦島の、昔の覚え蘇り、
「お前、あのときの童か」
「いかにも」
「老い耄れたな」
「ぬしが若すぎる」
またもや老爺皺作り、行きかう時に思い馳せたり。
やがて村人集まりて、何じゃ何じゃと浦島囲む。
大方見ぬ顔知らぬ顔、しかし中には在りし面影。
そこの翁がもてはやす、よくぞ帰った浦島や、主こそ村の勇士なり。者どもつられて褒めそやす、かくは浦島名は太郎、太平からの使節なり。
いつしか浜は祭りさながら、飲めや歌えやどんちゃん騒ぎ。
宴で語るは竜宮の日々、まことあやしき御伽の話、童も爺も虜なり。
浦島手には平包、開いてみれば玉手箱。
乙姫からの土産物、まこと珍し竜宮の品、者ども寄りて目を輝かす。
「何があるやら」
「宝ではないか」
「開けてみようぞ」
浦島頷き、皆の前にて、蓋へ手を掛く。
すると音して蓋は開き、白き煙ぞ立ち上る。
「なんじゃ、これは」
出でども出でども湧く煙、辺りを白に包みたり。
たちまち煙広がりて、あれよあれよと騒ぐ間に、潮風受けてたなびいて、浜から村へ、戸口を抜けて屋根越えて、ついには人の肺腑へ至る。
誰が叫べど是非もなし、光陰流れ矢のごとし、後に悔いるも役立たず。
老いも若きも咳こぼし、男も女ものたうち回る。果ては飛び出す断末魔、ばったばったと伏せにけり。大益荒男も倒れたり。
ついに浦島名は太郎、毒が回りて膝をつき、眼は曇り音遠く、息は苦しく声も出ず、自が末期を悟りたり。
眼閉じれば裏瞼、映るは母なる沖つ海。
耳を澄ませば鴎さえずり、潮騒歌う海の精。
浦島思うは宮暮らし。
笑い肩組み飲みし酒、歌い踊りて更けし晩、ああ泡沫は夢のごとし。
ああ友好は、真にあらず。芝居に戯れ、海がささやく空言なりけり。
故は竜宮、道がため、浮世滅ぼす大義がため。かくも万事はわだつみさまの思し召し。
浦島口端に泡吹きて、途切れ途切れに掠れ声、何かうわごと発したり。海は答えず物言わず、波寄せ返すばかりなり。
浜辺に残るは人の亡骸、つとめ果たした玉手箱。木蓋は開きて中は空、泡沫さえも残らざりけり。
今はさぞかし竜宮は、歌え踊れのどんちゃん騒ぎ。
毒の煙は村を越えゆき、野越え山越え、雲の上へと昇り至る。
これに怒るは高天原、竜宮めがけ雷落とす。
端を発すは海と空、神と神との戦なり。
これより先はあなかしこ、雲上海下の御伽噺、人の子らには与らざりて、語るべき是非もなし。
めでたし、めでたし。
