高崎中学時代の橘外男 ――高崎中学校友会誌『群馬』に掲載された投稿について 湯浅篤志
※次に掲げた文章は、2022年5月5日に発行された、『新青年』趣22号(『新青年』研究会)に掲載された「高崎中学時代の橘外男 ――高崎中学校友会誌『群馬』に掲載された投稿について」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。

橘外男の自伝的な作品である『ある小説家の思い出』を読むと、最初の方は中学校時代の回想から始まっている。中学教師や両親への反抗的な態度を強い意志で書き連ねたものであるが、「私」の苛立ちや怒りとともに素直な気持ちもあり、揺れ動く「私」の心情をうまく表現している作品である。随所に大人たちの滑稽な様子も描かれていて、我の強い思春期の「青春文学」ともいえそうな内容になっていた。
勉強嫌いの「私」が、小説や紙屑屋で買った雑誌を読んでいるシーンがあった。その中で、両親が屑籠の中から探してきた「私」の「書き損じ」の小説について詰問する場面がある。両親の言葉に「私」はあきれてしまうのだが、この頃から、橘外男が文章を書いていたということが見えてくる。もちろんフィクションかもしれないが、しかし、実際には、橘外男は群馬県立高崎中学の校友会誌に文章を投稿していた事実があったのだ。
群馬県立高崎中学校(旧制、現在は高崎高校)は、明治35(1902)年6月から校友会誌『群馬』を発行している。発行回数は当時、年に二回だったようだ。橘外男は、その第14号と第16号に小文を投稿している。あまり知られていないと思われるので、ここで紹介してみたいと思う(注)。
まずは、『群馬』第14号(明治42年11月3日発行)に掲載された文章である。当時の校長、高山栄一が明治42年9月に逝去した。それに対して、哀悼を捧げた内容になっている。
高山先生を哀悼す
第二年生 橘 外男
嗚呼高山先生は逝かれたり、陸奥を殺し、井上を仆せる肺魔は更に鋭鋒を逞うして、遂に吾が忠実なる高山先生を奪ひたり。
吾が高山先生は大学を出で、育英の事に身を捧げられてより、春秋茲に十年、当年共に前途の光明を語りし同窓の或は学海に、或は官海に、身を顕要の地に置かむと願へるにも拘はらず、独り先生は草深き高陽の小天地に吾等青年を教育せらるゝを、自己の天職なりと確信せられ、鞠躬盡瘁、吾等を誘掖教導せらるゝを楽まれしも、今は早や過ぎにし夢とはなりぬ。
外に名利の心なく、内に栄達の念ひなき先生の美しき人格、潔き品性は、徒に栄華を夢想する常人の思ひ及ばざる所なり。
夫れ上の善き所下之に習はざるはなしとかや、宣なるかな、吾校が先生を校長に戴きてより、生徒の学業日に進み、操行日に改まり、真に日進月歩の校運を謳歌したりしに今や先生即ち亡し、嗚呼悲いかな
掲載号は、高山先生の追悼号となっていて、彼の来歴や遺稿、また他の学生たちの哀悼集、哀悼詩、哀悼歌なども多数載っていた。高山栄一は明治37(1904)年5月より、高崎中学の校長として赴任していて、謹厳実直なクリスチャンだったという。学生の取り締まりが、かなり厳しかったという話もある。橘は、理不尽なことをいう教師を嫌っているが、この文面からはそれが感じられない。かなり慕っていたようだ。
次は、第16号(明治43年11月2日発行)に掲載された菅原道真の漢詩「九月十日」の解釈文である。この詩は、菅原道真が延喜元(901)年9月10日の夜、九州太宰府に流されたときのものだ。
――昨年の今夜は、菊花の宴に招かれて「秋思詩」を詠んだのだが、今や藤原家に妬まれ、冤罪の罪を着せられ、都から遠く離されてしまった。しかし、帝の暖かいお気持ちを忘れないでいた。
訳文席題
去年今夜侍清涼、秋思詩篇獨断腸、
恩賜御衣猶在此、捧持日日拝餘香、
第三年生 橘 外男
嗚呼思へば悲しい事で有る。私も去年の今頃は雲深き九重の奧で、光栄を荷うて、清涼殿上、主上の御側に侍り、此月を眺めしが、其の折、主上には、私に、詩を賦せよと宣はれたのであつた。そこで私は仰せ畏んで拙い詩を一つ咏むで御覧に入れた。主上はこよなう御喜びなされて、勿体なや、御召物を一襲下された。嗚呼、其も、今思へば、皆涙の種で有る。私も今は配所に、身の不遇を歎ずる身となつて、其頃を忍ぶよすがとなるべきもの何一つ残つては居ないが、此御召物だけはたいせつに保存して有る何で此御召物を手離す事が出来よう。今でも此御召物を捧げて、毎日、餘香を拝して居るが、其度ごとに、涙は、又泉と湧いて、衣の袖を、うるほすので有る。彼の時の月、今の月、月に、かはりは、ないけれど……………。
嗚呼、人の身の上は、解らぬもので有る。
一読して思うのは、橘が、なぜ、菅原道真のこの漢詩を訳そうと思ったのかという疑問である。たまたま授業で取り上げられ、「席題」とあるので、橘のその場で発表した訳文がよかったから、『群馬』に掲載する方向で話が進んだのであろうか。あるいは、橘外男の身の上と、何か関係しているのであろうか。
校友会誌『群馬』は、当時の学芸部によって発行されていた校友会誌である。学芸部にいる学生が、この「訳文」を気に入り、掲載した可能性があるかもしれない。
このような詩心溢れる作品や高山校長へ思慕を文章にして発表する一方で、橘の高崎中学時代の素行の悪さはよく言われている。
並木行夫「伝記読物 小説橘外男」(『妖奇』昭和27年5月号)では、橘が下級生をナイフで脅かした事件により、「退校処分」を受けたとあった。それを最初に聞いたのが、森田順次郎先生であり、橘はこの先生とは馬が合わなかった。
しかし、『創立100周年記念 会員名簿 平成九年』(群馬県立高崎高等学校同窓会、平成9年5月発行)を見てみると、旧職員の欄には「森田順次郎」なる教師は見当たらない。代わりに「森田好太郎」先生の名前が掲載されていた。しかも在任期間が明治42(1909)年10月までなのだ。橘ともめていた森田順次郎先生が、仮に森田好太郎先生だとすると、橘は明らかに明治43(1910)年までは在籍しているので、話が合わない。
さらに、この会員名簿には、大正2(1913)年3月卒業(第12回・96名)の欄の逝去者のところに「橘外男」の名前がある。卒業したのであろうか。途中で「退校」しても、直木賞をもらった有名人だから、「卒業」扱いになるのであろうか。あるいは、入学したら同窓会の会員になるのだから、よいのであろうか。不思議である。

(群馬県立高崎高等学校同窓会、平成9年5月発行、非売品)
並木行夫の「小説橘外男」は、「小説」なので、フィクションは当然のようにあり、「伝記」といっても鵜呑みにはできない。また、橘自身が創作する実話でも小説でも、フィクションが含まれているので、彼自身の回想といっても当てにはならないだろう。橘外男の来歴は、すでに高崎中学時代から彼の作る「実話」の世界に覆われていたのである。
注 小林文庫オーナーのツイッターで簡単な言及があった
→https://twitter.com/KOBAYASHI_bunko/status/529299159321309184
