稲荷信仰の変遷
【伏見稲荷と平安時代】
和銅四年(711年)初午の日に秦 伊呂具が射た鏡餅が白鳥となり、京の西南にある伊奈利山三ケ峰に落ちたため、そこに秦氏の氏神であるウカノミタマを鎮座させ、伏見稲荷明神としたという故事から全国三万とも五万とも言われる稲荷社。
初期のウカノミタマは稲穂を荷なう老爺の姿で描かれてますが、稲作と紐付け出来る記述はこの御姿だけでして、東寺に伏見稲荷を勧請した時もこの姿となります。そしてこの時期にウカノミタマと荼枳尼天が習合してますね。
ウカノミタマが女神になったのも、狐を従えるようになったのは平安時代中期以降になり、荼枳尼天と習合したのも関係するかなと考察してます。
そして平安時代には平将門や藤原純友調伏の祈祷なども行われたりしてたそうで、平清盛の出世にまつわる逸話にも荼枳尼天が登場します。
他にも玉藻の前の伝説、そして安倍晴明の母とされる葛の葉の伝承も平安時代であり、平安時代は稲荷信仰の黎明期かつ拡大期であったと思われます。
また、稲荷明神にはウカノミタマと荼枳尼天の他に、出雲のオオゲツヒメや伊勢のトヨウケオオカミや熊野のアマノオシホミミなども習合し、神仏習合の概念も完成してました。
また枕草子等にも伏見稲荷の記述が見られ、平安時代の娯楽的な一面があったと思われます。
そして室町時代の嘉吉元年(1441年)には三州妙嚴寺(豊川稲荷)にウカノミタマが分器されました訳です。
【豊川稲荷と武士の時代】
平安時代末期、保元の乱と承久の乱を経て鎌倉時代に入ります。
鎌倉時代には神仏習合の概念が深化し、全国的に稲荷社は広がりますが、それはあくまでも支配者側のものでした。
そして南北朝時代。伏見稲荷は北朝側となった為に室町幕府では変わらない隆盛を誇りました。
そして増えすぎた公家や武人等は地方へと都落ちをし、その拠点に稲作と地の神である稲荷社を勧請するようになります。
しかし応仁の乱の最中、骨皮道賢の本陣となった事により伏見稲荷は荒れ果てます。
そして戦乱の時代へ移行する訳ですが、このあたりから神社や寺院のみならず、城塞や武家屋敷の鎮守として稲荷が鎮座するようになるわけです。
稲荷明神の内、荼枳尼天の剣を持つ姿が武神的な雰囲気を持っていたのも原因かも知れません。
この戦乱期。豊川稲荷こと三州妙嚴寺は、今川義元により伽藍を寄進され、現在の形に近くなります。
その後豊川稲荷は伊勢の九鬼水軍により崇敬されまました。室町時代には伊勢神宮外宮に稲荷社が建立されましたが、もしかしたら鳥羽を拠点にした九鬼水軍の影響があったかも知れませんね。
元々豊川吒枳尼天は寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師が文永4年(1267年)に遣宋船での渡航中に嵐に遭い、吒枳尼天の加護のもとに無事帰国出来たと言う縁起があり、その辺からも九鬼嘉隆から崇敬されたのかもしれません。
そして豊川稲荷は徳川家康と共に西は大坂から東は関東一円まで広がります。
【江戸時代の庶民信仰】
やがて江戸時代には東海道を中心に稲荷明神は流行神として爆発的に増える中、伏見稲荷神家の荷田春満により国学が始まり、これが後の復古神道を経て皇道神道となる流れを造りました。
そしてこの江戸時代中期に「稲荷、伊勢屋、犬の糞」と呼ばれるほど稲荷社が増えます。
そして新しい稲荷社には当時に流行った妖怪ブームと絡んだかの様な民話が付随し、狐娘という現代でも通じる萌文化的な物まで生み出すわけです。
稲荷社と言えばいなり寿司となります。私も初午大祭に奉納した後に神饌として頂きますが、起源は江戸時代という意外には分かってません。
神狐の好物とされる油揚げを甘く煮しめ、中に酢飯を詰めた姿は米俵を模しているとも言われますね。
こうして江戸時代に稲荷信仰は庶民文化へと変化し、明治維新の神仏分離政策以降も寺社内社を残すなど、神仏習合の形を取り続けるわけです。
【稲荷明神の正体】
信仰の変遷を見ると、稲荷信仰が常に世の中の中心になる層から支持されているのが分かります。
そしてその信仰形態は、寺社や個人単位から中心の稲荷明神に向かっており、中心の御柱から外に向かう御柱信仰から見て異質なんですね。
この辺はプロテスタントの万人祭司論と似た部分があります。
というのも本来、稲荷社に鎮座していた明神は勧請した者の生業に対応していた信仰対象であり、そこに流行神としての稲荷明神の名を付けたからだと思われます。
この辺は私の持論ですがね。
