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【短編小説】彼岸の悲願

産まれたばかりの小さな命を
大事そうに抱く姿に何かがほどけていく。

まだ自分も知らず、世界もわからず
その暖かな愛の中で眠る新しい光の種。

この子はどんな花を咲かせるのだろう?

愛おしげに、でも少し畏れながらも
腕に収まる我が子を揺する彼女の顔は、もう「母」の表情だった。

ようこそ、世界へーーようこそ、此岸へ。



病室に入るとどこか懐かしい匂いを感じた。

6つ下の妹が出産を無事終えたと連絡があり、突然押し掛けても邪魔だろうと落ち着いた頃に顔を出した。

「よう」

「兄ちゃん、来てくれたんだ」

ベッドで身体を起こしていた妹とその横に置かれた小さなベビーベッド。

妹の腕の中には真新しいおくるみに包まれた
まだまだ小さな命。

「そりゃ、妹が出産したんだ、祝いの一言を言いに来るくらいはするさ」

わざとらしく肩をすくめて言う俺を
楽しげにクスクスと笑う妹。

「お袋と辰徳くんは?」

「お母さんは売店に飲み物買いに行ってる。辰徳は朝、顔を見せてそのまま学校」

「2学期も忙しいだろうし、大変だな、先生も」

「文化祭に修学旅行、それに受験の子たちもいるからね、しょうがないんじゃない?」

妹と同級生の旦那は中学校で数学を教えている。
今年は進路相談の担当者にもなったそうで、
自分の子どもに会う時間も少ないほどに忙しいみたいだ。

「月彦は?」

「月は、チャットだけ…それも一言「おめでとう」だけ」

「相変わらずだな、あいつも」

妹と双子の弟、月彦は昔から自由が好きなヤツだ。
カメラマンとして国内だけでなく、あっちこっちを飛び回っている。

連絡も淡白で大体は「うん」とか「了解」で済ませる弟に、妹は呆れたようにため息を吐いた。

「お宮参りと七五三の写真、撮らせようかな?」

「いいじゃん、それ。本職に撮って貰えるんだ、いい写真になるだろうさ」

いつものやり取り。
今までずっとしてきた会話のラリー。

何かが大きく変わった訳じゃない普通の日常。

ただ、その間も妹は腕の中の赤子を揺すりながら、時折俺たち家族には見せた事もない穏やかな表情を浮かべていた。

その顔を見てると不思議と俺の気も弛んでいく。

(ああ、こいつは俺の妹だ…そしてこいつは「母」になったんだな……)

不意にそんな言葉が出てきた。

静かに穏やかに我が子を抱く妹を見ていると
遠い、懐かしい記憶と重なっていくのを俺は感じていた。


あの日、弟妹が産まれた病室。
両親は同じように我が子を抱いていた。

愛おしげに、でも壊れものを扱うように丁寧な仕草であやしていたのだ。

それを病室の少し離れた所から見ていた俺を
両親は笑顔で呼んだんだ。

「ほら雪彦、あんたの妹と弟よ?」

「こっちに来て顔を見てみろ?小さいだろう?」

近づき、両親の腕の中を覗き込むように見る。

まだ真っ赤な顔をしてしわくちゃな顔。
何かを放さない様にぎゅっと握られた手。
何もかも小さな、小さなーー2つの命。

何を言えばいいのかわからない、そんな俺を見てた両親は顔を見合わせて笑っていた。

そして、父は妹を優しくベッドに寝かせると俺の頭に手を置いて目線を合わせてきた。

その目は優しくて、どこか強い力を感じるような目で。

「ちゃんと守ってやれよ?ーーお兄ちゃん?」

そう俺に告げた父の言葉は今も昨日のように覚えている。

あの時、俺はなんて返したんだろう?

何かを言った気もするし、何も言えなかった気もする。

でも、あの言葉を返した時ははっきり覚えている。

父の葬儀の日だ。

気丈に振る舞い喪主をしていた母の代わりに
まだ幼かった弟妹の面倒を見ていた。

沢山の大人たちが話しているのを横目に、左右の手につないだ小さな手を優しく潰さない様に握ったあの日。

穏やかに笑う父の遺影に向かって、俺は笑ったんだ。

「母さんも、こいつらも…俺が守るから」

小さな宝物を大事そうに抱く父に返せなかったあの日の言葉。
それを最後の別れの時に、俺はやっと返せたんだと思った。


「あら?雪彦、あんた来てたの?」

遠い記憶を思い返していると母が病室に戻ってきた。

だいぶ白くなった頭に、いつの間にか追い越していた小さな身体。
あの葬儀の頃より老けた母だが、3人の子どもたちを育て上げたパワーは衰えていなさそうだ。

「せめて祝いの言葉と顔くらいは出すさ」

「あっそ…妹や弟に先を越されたお兄ちゃんはいつになったら好い人できるのかしらねぇ?」

「またそれかよ…勘弁しろよ、母さん」

「あんたの面倒ばっかり見てられないのよ?可愛い孫の面倒見なきゃいけないんだから」

この人のエネルギッシュな会話には毎回着いていけない。

俺は両手を上げて降参するのであった。


母と妹、2人から逃げるように俺は帰宅の途についていた。

中古の軽自動車を運転しつつ、タバコに火をつける。
まだ平日の夕方前、河原沿いの道路は空いていた。

少し開けたウインドウから煙が逃げていく。
吐き出したそれはゆらりと揺れて車内から外へ。

道沿いにあったコンビニで飲み物とタバコを買って車内でぼんやりと川を見つめる。

母は年老いたがまだはっきりとしている。

妹も弟もパートナーに恵まれ、妹には守るべき宝物も出来た。

それぞれが、自分の道を自分の足で歩いている。

そこまで考えた時、俺の口からポツリとこぼれた。

「俺は、やり終えたんだろうか?」

別に亡くなった父から何かを言われた訳じゃない。

頼まれた訳でもない。

それでも……今日我が子を抱いた妹の姿を見た時、俺の中の何かが軽く、薄くなった気がしたんだ。

それはなんだったんだろうか?

新しく火をつけたタバコの煙をゆっくりと吸い込んでは吐き出す。

風は吹いていない、煙は揺れている。

軽くなったのは責任感?
薄くなったのは家族への感情?

それとも……父から託された願い?

そのどれでもない気がするし、そのすべてにも当てはまる気もする。

目を閉じるとあの日の父の姿が浮かぶ。

小さな宝物を抱く嬉しそうな父。
それがいつしか、俺自身に変わっていく。

まだ手のかかる幼子2人を抱いていた小さな俺。
その時、俺はどんな顔をしてたんだろう?

そしてそれはさっきまで見ていた妹の姿に重なっていく。
愛おしげに抱いているのは小さな小さな宝物。

やっとの思いで此岸へとたどり着いた新しい命。

それはーー父の悲願だったのかもしれない。

そこまで考えた俺は苦笑いを浮かべ、目を開いた。
今日はずいぶんと感傷に浸ってるなと。

最後にタバコを一口吸って揉み消した時、視界の端に映ったものに目を向けた。

視線の先では、小さな朱が静かに揺れていた。


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