1970〜1975年の「価値観変革革命」をめぐる小さな年代記 ①
気づき先行の女性と理念滞留の男性の足跡
1970年代前半の日本、日本人の足跡を振り返るとき、一つの身も蓋もない結論に行き着きます。
❶ 先に気づいたのは女性 👩🦰
❷ 最後までしがみついていたのは男性 👨🦱
高度成長の熱気がまだ残る中で、若い女性たちは、すでに静かに動き始めていました。一方の男たちは、相変わらず「大義」や「正しいロックのあり方」をめぐって声を張り上げていました。
この五年間、1970年から1975年までを、「女性生活先行→男子理念滞留」という、あえて乱暴なラベルで振り返ってみると、日本の価値観変革革命が驚くほどクリアに見えてきます。
1.1970年創刊の『anan』が可視化した、「女性の早期気づき」現象
① 1970年 『anan』創刊
1970年代前半の価値観変化を考えるとき、最初に名前を挙げるべきは、やはり雑誌 anan です。
1970年5月、パリやロンドンの空気をまとった anan は、都市の若い女性たちに向けて、「親や会社の期待とは別の生き方」をはっきりと可視化しました。誌面に並んでいたのは、服やコスメだけではありません。
・ひとり旅
・友人との旅
・都会でのひとり暮らし
「どこへ行くか」「誰と過ごすか」「自分の稼ぎを何に使うか」を自分で選ぶことが、自然なこととして描かれていました。

『anan』は1970年5月創刊
ここで重要なのは、この変化が「大義」や「闘争」という大きな言葉からではなく、日々の生活、ライフスタイルから始まっている点です。
いい娘、いい妻、いい母という役割から、半歩だけ外側に出てみる。
その小さな身のこなしが、結果として、親や会社や国家が用意した「唯一の正しさ」から距離を取る動きになっていました。
同じ1970年11月、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決します。
いわゆる三島事件です。
戦後日本への怒りや、自衛隊への決起を呼びかけるあの演説は、「男の大義」や「武士道ロマン」が最も劇的なかたちで燃え上がった瞬間であり、同時にその終焉を告げる出来事でもありました。
カレンダーの上で並べると、順番はこうです。
❶ 1970年5月 :『anan』創刊。
・若い女性たちは、すでに生活レベルで価値観のシフトを始めていた
❷ 1970年11月:「三島由紀夫事件」
・男の大義と武士道ロマンが、最も派手なかたちで散った
つまり、女性は三島事件より前から、変化を先取りしていたことがわかります。後から振り返ると、三島事件は、女性たちが静かに離れつつあった「男の物語」が、最後に上げた大きな花火でもあったように見えてきます。

② 1971年 『non-no』創刊
その翌年、1971年には non-no が創刊されます。
anan で可視化された新しい価値観を、より等身大の若い女性の日常へと引き寄せる雑誌でした。
この non-no の空気は、すでに三島事件の印象も含め、「ああいう大義にはもう付き合えない」という時代感をかなり素直に反映していた思われます。

1970年という年には、こうした時間差が内包されています。
女性たちは、男の大義の花火が散る前から、
静かに価値観のシフトを始めていた。
ここで始まった「女性先行」の小さなずれが、のちに日本全体を巻き込む価値観変革革命の、実は最初の一歩でした。

2.1971年 日本最後の「男性中心の理念滞留」、それが『邦詞ロック論争』
ー最後の男性中心の「理念滞留」論争は見事に空振りー
1970年に anan が若い女性たちの価値観シフトを可視化していたちょうどその頃、男たちは別の場所で、まったく別の「正しさ」をめぐって戦っていました。
① 邦詞ロック論争
それが邦詞ロック論争(所謂日本語ロック論争)です。
1970年末から71年にかけて、『ニューミュージック・マガジン』や『新宿プレイマップ』などで、「ロックはで英詞(英語の詞)で歌うべきか、邦詞(日本語の詞)で歌ってもよいのか」をめぐる論争が相次ぎました。
表向きのテーマは「邦詞でロックは可能か」でしたが、
しかしその実態はかなり泥臭いものでした。

所謂「日本語ロック論争」だが、日本語の本質を問うていた論争ではない
② 英詞(英語の歌詞)派の主張
❶ ロックのグルーヴとサウンドは英語に最適化されている
❷ 日本語は母音が多く、ハードロックやR&Bのビートに乗せるとダレる
❸ 無理に日本語でやると、結局フォークソングになってしまう
といった論調で、邦詞ロックを切って捨てます。
「本場のロック」にどれだけ近いかで序列をつけたがる、典型的な男性視点の理念中心の教条主義です。
③ 邦詞(日本語の歌詞)派の主張
一方で、邦詞ロック側にも、別種のヘタレな核がありました。
英詞派が本質的に問うていたのは、
🗣️「ハードロック級のグルーヴとダイナミクスを、日本語の歌詞で本当に保てるのか?」という、かなり技術的でシビアな問いでした。
ころが邦詞派の代表格のはっぴいえんどが実際に提示したのは、
❶ ロックの上に、フォーク寄りの語り口の日本語を乗せる
❷ グルーヴよりも、詞の情景や文学性で聴かせる
という「フォークロック」路線です。

つまり、英詞派と邦詞派の論議が全く噛み合っていなかったのです。
(英詞派)「ハードロックのグルーヴを日本語で維持できるか」の問いに
↓
(邦詞派)「フォークロックならこうやれば成立します」と答えた。
これは、質問の土俵ごとすり替えていた訳です。
これを通常のロック(サウンドwith 詞)とは全く違う、"文学詞 with サウンド"という革新的なアイディアの「文学ロック」、あるいは都市派フォークロックという新たなジャンルのロック定義であったのなら、彼らの試みはひとつのあり方として十分に意味があったでしょう。
しかし、それを「ロックの根本問題に対する決定的な回答」であるかのように持ち上げた瞬間、邦詞側もまた、別理念の滞留に陥っていきました。
そして、この論争にはさらに痛烈な結末が待っていました。
あれだけ「邦詞か英詞か」でやり合ったにもかかわらず、どちらの陣営も、ほどなくして自壊していくのです。
❶ 1972年、はっぴいえんどの解散
邦詞ロック派の象徴とされたはっぴいえんどは、1972年の解散をもって活動を終えます。
フォークロック路線は、バンドとしてはたった3年で幕を閉じました。
❷ 1972年、奇想天外な『キャロル』の登場
英詞ロック派の「本場志向」も、同じ1972年にデビューしたキャロルの登場で、あっさり別の方向から突き崩されます。
早口・巻き舌、日本語と英語をごちゃまぜにしたチャンポン詞。
彼らは英詞か邦詞かという二者択一そのものを無効化してしまいました。

英詞か邦詞かのムダな論争をあっさりクリア
こうして振り返ると、邦詞ロック論争は、見事なまでに「無駄な闘争」だったことがわかります。
❌ 英詞派は、米英ロックの「本場への忠誠」というかたちで教条的だった
❌ 邦詞派は、「文学性」と「フォークロック」で別視座を展開した
⭕️ 両者がこだわった土俵ごと、キャロルのチャンポン詞に吹き飛ばされた
つまりこの論争は、
❌ 日本のポップス史の夜明け というよりも、
⭕️ 古い男性中心の理念滞留 が最後に空振りした黄昏のドラマ
として読んだほうが、むしろ筋が通ります。
にもかかわらず、音楽評論家はここから都合のよい部分だけを切り出して、
💢 日本語ロックの夜明け
💢 洗練性、先見性、革新性の象徴
といった誤解誘導ラベルを無闇やたらに貼り続けてきまた訳です。
この「黄昏」に真正面から光を当ててしまうと、はっぴいえんど史観で語られてきた「洗練性」「先見性」「革新性」「先進性」といったラベルが、いかに古い価値観に支えられた平板でチープな物語だったかが、はっきりと見えてきます。
👩🦰 女性生活先行、男性理念滞留 👨🦱
すでに女性たちは anan ・ non-no を通じて、親や会社や国家が用意した「正しいコース」から静かに離れ始めていました。
そのすぐ横で、男性たちは「本場のロック」「正しいロックのあり方」という別種の「唯一の正しさ」をめぐって、最後の大立ち回りを演じ、そして自分たちで勝手に幕を閉じていった。
このねじれを正面から描くことこそ、「女性生活先行→男子理念滞留」で読み直す1970年代ポップス史の、一番おいしいところです。
3.【Tips】 『邦詞』とする理由
なお「日本語」ではなく、「邦詞」という理由は、この論争は日本語の文法体系を学術的に研究する論争ではなく、単に歌詞を英詞、邦詞のどちらかで歌うかの単なる詞の選択問題であったことに基づきます。
英詞と邦詞は、ちょうど洋楽と邦楽、原題と邦題、日本語と国語、英和と和英に対応した言葉になります。
日本語という言い方は、通常外国人に向かってラベルです。日本に在住する外国人に対する「やさしい日本語」がその使い方の事例になるでしょう。日本人に対して"やさしい日本語"というのは不自然すぎます。
そのため日本語の歌詞としての邦詞、邦詞ロック論争とラベルしています。

見事な日本語で歌い上げた英語圏のロックバンドの「クイーン」
こう考えると、日本語ロックの始祖は、邦詞の『手をとりあって』を日本語で違和感なく歌い上げた英語圏のロックバンドの「クイーン」ということになります。
お知らせ
第1回は、とりあえずはここまでになります。
第2回は、1972年価値観変革事件から1975年のニューミュージック元年を熱く語り、価値観変革の核心に迫っていきます。
