【物語】贅沢搾りのはじけた念慮
この物語はフィクションですが、
いつかどこかで実在した夜なのかもしれません。
とにかく急がねばならないのだ。
今のわたしには少しの余白もない。
込み上げてくるこの熱い喉元を
どうにかしなければならないのだ。
さもなくば、この閑静な夜の街並みに
際立って異質な存在になってしまうだろう。
コンビニに逃げ込むように入店した。
入り口が開かれた瞬間空調の効いた空間を感じる。
機械的な入店のチャイムは、
その日がどんな日であろうと変わらない音だ。
今日のわたしがどんなわたしであろうと
わたしを差別しない。
入店しようとする誰にでも
平等に鳴るもの。
わたしの存在にも例外はないようだ。
言葉にならない速度でそんなことをぼんやりと感じたせいか、ほんの少し、冷静になれる気持ちがした。
そうして気づく。
蒸し暑い夜は疲弊した体だけでなく
余白のないわたしのこころまで
さらに弱らせ蝕んでいたらしい。
ゆらゆら歩きながら向かった先は
アルコールが陳列されている棚だ。
無性に飲みたい気分だった。
今のわたしにとって
即効性のある特効薬になってくれる気がしていた。
蒸し暑い夜には爽やかさを求めがちだ。
ハイボール、よりはサワーだろうか。
そして柑橘系だとなお爽やかだ。
そんな気配のある方へ目線をやると、美味しそうに果汁を滴らせているピンクグレープフルーツの断面のパッケージと目が合った。
──────瞬間、口の中で想像した味が広まる。遠くの甘みに苦味と酸味だろうか。
悪くない──────
これを過ぎると優柔不断の根が足裏から生えそうだ。素早くそれを手に取り歩き出した。
そうだ、エナジードリンクも買っておこう。
夜を徹するならお供が必要だ。
一緒に飲むのは確か体に悪いと聞いた。
薬の服用間隔をあける気持ちで飲めばいいんだろうか。まぁ、今日くらい、いいか。
最近よく広告で見かけるロゴのエナジードリンクを手に取ろうとした時、なぜだかふと落ち着いた感情がぶり返してきた。
せきとめたはずの喉元の熱さがまた込み上げてくる。
────────夜を徹さねばならぬ理由。
退勤後も続く勤務。
言葉を選ばない人の言葉。
けれどその言葉が的を得ていると感じて
言い返せなかった光景。
飲み込んだ思考や感情が何だったのかもう思い出せもしない。
いつだかもそんなことがあった気がする。
そうしてそれらが引き金となって思い出された忘れていたはずの過去の陰湿な光景────────
こんな場所でいい大人が泣くわけにいかないのだ。ましてやなぜ泣きたいのかもはっきりせぬまま公然で泣くなど。
悔しかったのか
それとも不甲斐なさか。
今でも過去が悲しいのか。
勝手にまた傷ついてしまったのか。
どんな理由を並べ立てたとして、ここで泣いたら余計に何もかも許せない気がした。
まだ会計という最大の難関が残っている。
まともに振る舞わねばなるまい。意地でも。
せっかく余白のない感覚がぼやけていたのに。
ほんのり酔えば、また世界もぼやけてくれるはずだ。
会計までの辛抱だ。そう思い、
左手を袖で隠して爪を握り込んだ。
その痛みに神経を集中させる。
店員と視線を合わせないようにし、最低限のやり取りと会釈で会計を済ませることができるよう努める。
こういう時に思うことがある。
マスクという文化があってよかった。
………
挨拶に近い「ありがとうございました」は、実に汎用性の高い言葉のように思う。
そこに感謝があってもなくても、挨拶であり、形式であれば言うことに意味があるのだろう。
会計の後、店員から発せられる「ありがとうございました」の言葉がたとえオートマチックでマニュアル的なものであったとして、少なくとも今夜のわたしに受け取ることはできなかった。
わたしは帰り道に自分だけのために、現実から逃げ込むように入ったコンビニで、自分だけのためのものを買うために自分の都合で支払っただけだ。
それを有難いことだと感謝していただけるこの浅くも奥ゆかしい文化について考えるもつかの間。
その思考は、退店と同時に押し寄せた熱波を纏う夜の空気に溶けて行った。
────────夜は誰も差別しない気がする。
昼間と違って有耶無耶になる街並みに
紛れていることができる気がする。
特にこんな夜なら、普段ならできぬことも
少しだけできてしまうのかもしれない──────
わたしは衝動に任せるまま、帰り道を歩きながら缶を開けた。
ぐいっ、と飲み込む。
華やぐ香りとアルコールの風味。
はじける炭酸を感じてハッと正気に戻る。
わたしは初めて、帰り道を歩きながら飲酒をきめ込んでいる。
スーツ姿に異質な素行だ。
たまに道端で座りながら
飲酒している老男を見かけたり、
置き去りにされた酒の缶を見たりしては
「どうしてこんなところで酒を飲むのだろう。」と思っていた人間が、今は座るどころか歩きながら飲酒している。
と同時に、
ようやくわたしが泣いた。
その感覚は魔的なものがあって
贅沢、確かに贅沢な気分だ。
この夜道を肴にして、ほろ酔いに歩こう。
喉が渇いていたのだ。
そして、こころも渇き切っていたのだ。
とにかく急がねばならないのだ。
今のわたしには少しの余白もない。
込み上げてくるこの熱い喉元を
どうにかしなければならないのだ。
晴れてわたしは、この閑静な夜の街並みに
際立って異質な存在になっていく。
幸いなことと言えば、この閑静な帰り道に人影はないことだ。
この道は開けていて明るいが、車通りもとんと少ない。
この環境であれば、見知らぬ誰かにこんな女を目障りに思わせることもないだろう。
スキップなんてものを久しぶりに踏んだ。
当たり前に酒が溢れて、ひとりで笑った。
ヒールが邪魔だ。折ってしまいたい。
本当はスニーカーが好きだ。
誰もいない夜道でターンを踏み込んで泣いた。
────────この感情の名前は、きっと夜だ。
悲しみも
情けなさも
寂しさに似た感情があっても
誰にも見せたくないこの自分も
だから自分で自分をごまかすように
やけになって甘やかしている
結局、疲れ切った体には毒であるだろう聖杯(アルコール)を帰宅も待たずに飲み干さんとするエキゾチックな奇行──────────
あの日見かけた老男も
置き去りにされたアルコールの空き缶の主も
もしかして、こんな夜を見ていたのだろうか。
人はこんな夜を過ごす度に
生きながらにして息絶えるのかもしれない。
そして
不適合ないのちだろうと
思考と衝動を寝かしつけて
こんな夜を掴んで離さなければ
朝まで連れて行ってくれる。
ハイファットな持ち帰りの仕事。胃もたれするような出来事。栄養不足のこころは過去を消化しきれぬまま、デザートにはエナジードリンク。
いじけているんだと思う。なにもかもに。
まるで子どもだ。大人なんてどこにもいなかった。
わたしは、アルコールを飲めるくらい
歳を重ねた子どもだ。
泣いたっていいだろう。
嗚咽だろうが、呼吸には変わりない。
この夜を生きて、明日を迎えるために。

贅沢搾りのはじけた念慮
zeitakushibori no hajiketanennryo
誰にでも夜はある。夜が在るかぎり。
