音楽理論を知れば知るほど、音楽はつまらなく見えてくるよ
「音楽を“勉強”する」というような名目の元に括られる具体的な行いには、その性質・方向性が全く逆である2つのベクトルが内在しています。
音楽の神秘性を高めるか、音楽の神秘性を解体するかです。
「音楽理論」と呼ばれる全ては、そう呼ばれる以上は後者を目的としています。
お判りでしょうか。それを知り、真っ当に理解するほど、色々な曲が味気無く・特別性の無いものに見えてきます。順当な結果です。
少なくとも、そういう「視野」を手にするための手助けを果たすはずで、むしろそうする目的に基づいてこそ、採用すべきものです。
それは、時には「作り手」にとっては、有用なものと言えます。
音楽学のジレンマ
現在、音楽にも「音楽学」と呼ばれる領域が存在しており、芸術系の大学にはそういう学科もあります。
音楽学(楽理)と呼ばれる学科は、演奏実演も作編曲もメインとしません。
それらの知識・技術を前提としつつ、やるのは他分野でいう所の、歴史学・社会学・哲学などです。
※ただし、純・物理学的な問いや純・心理学的な問いよりは、
「文化的側面が関わるテーマ」が暗黙の了解だろう。
「音楽学」として、例えば特定の曲について研究をする。
実際にある所のそういう事例に於いて、その音楽学者は、その曲のことが好きなはずです。普通、好きだから研究対象として選ぶはずです。
しかしその “研究” という行いは、基本的に「その作者・その作品の神秘性を高める」ことは無く、反対に「権威性を解体し、背景や内部を洗いざらい詳らかにしてしまう」ことの方へ向いています。
進めていけば、自然に、次第にそう向いていきます。
愛するがゆえに狩る?という心理?
なんだか知らないが、もしこの通りならば、倒錯的に思えてきますよね。
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音楽史として残されている、過去の学者や広く評論家の言説は、今の我々の感覚からすると、お世辞にも「科学的」な態度とは評せないものも、多くあります。叙情的で、観念的で、主観的で、時には狭量ですらある言説。
それは「科学哲学が未発達だった時代の産物だから」として、当時なりの最大限「科学的」の限界点なのだと弁護する向きもあるかもしれませんし、「言葉尻は重要じゃない。捨象して読めば良い」とも言うことは出来ます。
政治的な圧力に従ったことだってあったでしょう。
しかし、私はそこに一つ「穿ち」を入れたくなります。
彼らは、音楽を科学的な視点で解析すればするほど、神話が瓦解していく方向にしかならないことに程なくして気付き、狼狽えたのではないか。
気が付きながらも、「深入りしないことにする」という決断は取れずに、目を背けながら・腫物を避けるようにしつつ「学者」を続けざるを得ない、という心理状態(あるいは社会的状況下)にあったのではないかと。
クラシックの“学問癖”
ここまでの言い分に、反対意見の方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。
例えば J.S.バッハ。
「彼の複雑な対位法楽曲は、分析すればするほど驚嘆できるし、声楽・器楽 問わずに用いられた数々の修辞技法は、予備知識なしには味わうことができない。」
数秘術を用いた作品、一聴しただけでは把握不可能な音列技法、各言語の音名によるアナグラム、逆行・反行を含む複雑なカノン、アナライズ必須なレベルの変奏技法、巧妙な過去作品の引用……etc.
こういう趣味は、俗に「クラシック」と呼ばれる所の西欧芸術音楽にとりわけ顕著です。(今時 ゲーム音楽とかボカロでもやってるんだけどね)
私は、音楽作品に「これらの趣向が凝らされること」自体には、特に批判を抱きません。時折、特に「何でも良すぎるので適度な縛りが欲しい時」に私自身やることですから。
↑ 依頼時の「白虹」というキーワードから着想した、
「7つの白鍵」の音を全て鳴らすベルトーンによる曲冒頭。

最後に8音目の Bb も鳴るんだけどね。契機にしただけだもの。
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しかしそれはそれとして、(その早い時期の潮流として)クラシックには何故このような趣味が根付いたのか。
答えを「明らかにする」ことは難題なので出来ませんが、私は少なくともその一因は「芸術音楽の学問趣味」にあると思うのです。
第一に学問ぶら※なくてはならないから、科学的思考に晒す・晒される。
科学的思考が発達し、近代化すればするほど、音楽は窮地に追い込まれる。
それらcriticalな科学的思考に晒されても尚、面白味が生き残るようにするために、音楽は複雑/晦渋にならざるを得ない。直感的・表面的な快不快ではなく、真髄を二層構造の内に置かなくてはならない。
時に感覚すら信用せず、数字上の算数的な美に逃避しなくてはならない。そうしなければ神が死んでしまうから。
※現在でこそ「学問ぶる」というような言い回しが可能だが、当時の人々の感覚としては「まさに学問をやっていた」のかもしれないことには注意。
本記事で言う “学問趣味” は、芸術音楽が「のちに獲得した性質」ではなく、
むしろ「そこから出発した」ものに近い。
現代に至る過程で、そこを離れたもの。
そもそも「音楽の解体」に社会的な需要は無い
クラシック鑑賞は、世間的(もっと言えば面接的)には「意識高い趣味」の一つです。
当事者である西欧の国々では事情が変わるかもしれませんが、クラシックを「輸入」し、ぎこちなく教育し続けた日本に於いて、そのような評価からかつて大きく脱したことは無い。
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人々は「ガチのクラシック鑑賞は億劫(かつ前述のように面倒)」だが、一方で「自分の好きなアーティスト」こそが最も特別だと願う。
自分の信奉対象は高尚であると、自己暗示をかけます。
「こんな曲は/歌詞は、この人にしか書けない」は、様々なアーティストの曲動画でよく見るコメントの一つです。
よく見るコメントの一つなのですが、それらに事実性や根拠など、全ては野暮です。
それらは本題的には「神格化のプロセス」であり、消費する側が自己存在を(メンタルを)安定させるためのおまじないです。
自尊心のためにある、それらはまさに「時代に合わせて変化した宗教」と言い得るものです。
人は「たまたま出会ったアーティストが推しになった」ではなく、しばしば「推しが欲しいから推しを探し」ます。
時に、その神格化を ““客観的”” にするための儀式として、音楽理論っぽいワードや理屈が、不適切に援用されることが往々にしてあります。
(動画投稿者側であることも頻繁にあります。)
それ系のコメントっておよそ言ってること滅茶苦茶なんですが、不幸にもこの記事を読みに来てしまったあなた達以外に、知る必要も無い事柄です。
ポスト事実の時代に、旧時代の “事実” 概念なんて無用です。
大部分のヒトは、科学という概念ですら、迷信を補強したい時にしか顧みません。
ならばこの世に、“迷信” などありません。
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世間における「音楽の需要」の現実がそうある中で、「あの名曲も、実は普遍的で平凡な要素から出来ていて、作曲者も普通の人間なのだ」とか、「我々聴き手は、巧みに騙くらかされているだけなのだ」と主張する営みに精を出すことを、『学者の使命』などとできますでしょうか?
今日(こんにち)の音楽は、科学とは違って「芸術分野(エンタメ)」で、
自然法則の真理とは違って「頭から足先まで全てがヒトによる虚構」です。
仮にそうだとして、一般の消費者はそんな学者たちの主張を「跳ね除け」て、好きな音楽にお金を使って経済を回す方が、何倍も社会貢献的です。
私は、だから、他チャンネルと比して「非常に抑制的に」しか、音楽理論コンテンツを制作しておりません。特定の楽曲のみをフィーチャーする分析動画もありません。
勿論「学者」なんて肩書きは、最も望まないものの一つです。
そして曲作るマンとしても、積極的に「感覚派作曲」であることを強調しています。
そんなのは作曲家にとって自分の首を絞める行為です。
ただ、私は嘘はつけない。あなたの神様役も御免。
もし私が「作曲家の視点」の分析動画をちゃんと作ったら、標的の楽曲の「ここがすごくない」という結論にしかなりません。
そこには「すごい部分というのは、分析によってどうにも説明がつかない部分である」という、動画体裁の矛盾となる厄介事が内在しています。
↑ 理論オタクや分析オタクには、この動画のアキラさんのトークに対して文句が山積みになるだろうが、これは諸君らに向けた動画ではない。
アキラさんは「どこからは語るべきでないのか」を総合的に非常に考えて喋っている・あるいは稀有な本能によって理解し、これを実現している。
“音楽の力”、“音楽の神秘”の正体
先述のような、世間の多数派の潮流に、あなたはどうしてか抗いたいのですね?そうでなければもうこの記事を閉じている筈です。私はあなたの神に対して、獰猛で加害的な文章を書いています。充分な篩にかけたはずだ。
もうこの時点でレッスン検討していただくこともおススメだけれども、(何故なら “問診” は一対一のキャッチボールが最も適しているから)
もう少しだけ、一般論で対応します。
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音楽理論を「当人の現状に必要と考えられる以上に」過剰に摂取してしまった人間の末路は、“数学度” が多く占める世界に活路を見出すために微分音や特殊調律に走るか、ライブ性・超絶技巧に活路を見出すために即興演奏に走ります。時に自動作曲の研究に走ります。
彼らの多く――特に本質的には天才の仲間ではない者――の音楽人生は、もう長くはないのでしょうね。音楽って、狭苦しく、底の浅い芸術です。
音楽は、薄っぺらいですよ。
奥深いのは、音楽を享受する者たちの頭の中・想像力です。
「音楽の力」だと信じられているモノの正体は、「音楽を受容するヒトの側の力」です。
音楽に心動かされて立ち上がるのは、時に戦争さえするのは、ヒトです。
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音楽は、科学的思考によっていとも容易く陳腐になります。
そうならないとすれば、それは「ヒトの音楽の聴き方があまりにも気まぐれだから」「音楽の評価が物凄くいい加減なものだから」に由来します。
つまり「ヒトの行動・ヒトの好みのランダム性」が、音楽の複雑性を代理して見せている、というのが現実です。
音楽の研究は、気付けば「ヒトの気まぐれ」の研究です。
音楽理論の構築が一筋縄で行かない…あるいは「完璧な音楽理論」が存在し得ない――あらゆる事項に例外が多いのは、結局はそれを享受しているのが人間だから・すなわち人間が非・論理的に評価しているからです。
皆も気付かぬ内に、ダブルスタンダードのオンパレードです。
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お気づきでしょうか。
ヒトの思考の側が「非科学的」になる時に、音楽は面白いのです。
それを追いかけるために整備された所の「音楽理論」と呼ばれる大半は、実例が先、経験則ありきでまとめられたものです。
数学など他の科学分野でいう「理論」とは、存在が違います。
(誤解を生むので、実際に別の名称で呼ばれても良いと思っています。)
音楽理論が実際には自然科学的な意味での理論ではないことは少しでも勉強してれば自明になるけれども、そうでない人にとってはだいぶ最悪な名称であることは認める。理論面してるんじゃないよ!まぁそれ言うなら元ポストの「属人化」の曖昧さも結構やばいと思うけど。
— 関健斗(作曲/指揮) (@kosekiseki) November 26, 2025
※「元ポスト」のくだりは、本記事の上では辿らなくても大丈夫です。
すごく雑な言い方をしてしまえば、音楽理論は歴史的に成功した技法のカタログに過ぎない。十二音技法なんかも比較的「理系っぽい発想」で新しい体系を組み立てているけど、独自の規則体系を提案しているだけで、自然科学のように「自然界の法則」を発見してるわけではない。
— 関健斗(作曲/指揮) (@kosekiseki) November 26, 2025
🔹
ちょっと「派閥が矛盾」するような話を交えてしまったので整理します。
🔹今 言った「音楽理論は主にヒューリスティクス」だということ。
🔸しかし音楽理論は宗教/信仰側でなく、科学/解体側の陣営には在る。
両方を反映した、音楽理論の実態(正体?)は、以下のような代物です。
――音楽・特に作曲領域に於ける “理論” のほとんどは、「こういう言い方をすれば、既存の実例に最もよく合致する気がする」の集積物・それ以上でも以下でもありません。――
――“優れた” 音楽理論 =「物は言いよう」のレベル100 です。――
しかし「その視点・視座が(作曲などに)役立つ」から、
別に「科学フレーバー」や「オプションの論理装甲」が付いてなくて良いのです。
「試しにこう考えてみたら、法則性が見えて来ない?」が 音楽“理論” の成立過程。
それが「レベル100」な所に、有意義性は認められ得る。
音楽理論の学習に最も重要なことは「適量」
我々が音楽家であり続ける(音楽に飽きず、楽しみ続ける)ために必要なことは、音楽理論という神殺しの調合薬を、自身の目的・性質に合わせて、適量だけ摂取することです。
しかし喰ってみないと分からないのが毒見ですから、私のような「異常に薬剤耐性の高い体質の人間」に、アドバイスを求めて下さい。
〓まず世の大半の人間は、薬を飲んでも効かないか、関係の無い薬を飲み、ほとんど何も変化がありません。
〓2割の人間は、薬の効能を信じ過ぎます。(その人に客観的効果が見受けられるかは両パターンあります。)
〓1割が、薬物依存症になります。
〓残る1割が、適切な薬を自力で見つけることができ、用法・用量までをも悟ります。
私は、ウイルス用PCをもう一台持っているタイプの中部出身です。
※ ↑ 特に関係の無い好きなチャンネル
終わりに(フォロー)
原則的に「作り手に回るならば」という風にお話してきましたが、そうでなく弾き手、あるいは聴き手に徹する立場にあっても、俗に音楽理論と呼ばれるものを「知って良かった」という体験をするケースは勿論あり得ます。
それらは、「とりわけ不足していた栄養素を補った」と比喩できるようなケースに当たることでしょう。(すなわち個人差であり、普遍性は無い。)
「(平均値に対し)余計に備わっていた偏見を取り除けた」とか、「今まで注目していなかった部分に注目できるようになった」など。
また演奏者の方の場合は、曲を分析・分解することにより暗譜(曲を暗記すること)が容易になるケースには一般に期待でき、より演奏表現の方向に脳のリソースを割けることに直結するため、作り手の場合と同じように知ることが推奨できる場合もございます。
原則的に、音楽には「音楽力」という一つのパラメータしかありません。
歌が上手い人は楽器演奏も上手く、演奏が上手い人は編曲も達者で、編曲の知識は作曲に活かされ、有能な作曲家はマルチプレイヤーです。
必須アミノ酸の桶の比喩のようなものです。
これらに唯一、反比例しがちな音楽の力が、「音楽を純粋に楽しむ」才能と言えるでしょう。
ゲーム制作を知ることは、「純粋な娯楽目的のプレイヤー・消費者目線では居られなくなる」
そういう人生を選択することである。
🔸
そもそも「純粋に楽しむ」とは何か?
と思ったあなたは、理論オーバードーズ予備群には含まれるでしょうね。
そんなのは普通、考えないことです。
あなたは、適切な “器用さ” を身につけなければ、きっとあらゆる音楽を、ただただ冷笑する人間になります。
(もしかすると、それが未来の「知的生命体として高度」なことなのかもしれませんが。)
おまけ
音楽学が「健全に社会と関われる」形を見出すために、きっとこのようなスタンスを打ち出すことになっていったのだろうな……と勝手な想像ながら感じられて、良い文章を紹介させて下さい。
!最後に要注意!
注意:
本記事は「音楽学の世界に恐らく存在してきた思惟と苦悩」を引き合いに出しはしたものの、「音楽学者の研究対象は専ら音楽理論のみ」ということを印象付けたいのではありません。それは私の知る限り実態と異なります。
どうか誤解なきよう。
そして誤解を招いてしまったのであれば、真摯に謝罪いたします。

