天才と論証、教育の違和感~浪人受験はするな~

 短い記事に挑戦(3千字)。


 「論理的」というのは、高等教育のキーワードとなっている。

 少なくとも筆者と同世代ならば、恐らく高校辺りから俄かに「論理的」を要求され始める。そして大学に入れば、徹底的に叩き込まれるようになる。

 それは「学問(science)」に必要だからである。
 学問を真に “実践(practice)” するために、学問が学問たるために。
 科学が科学的たるために、とも言い換えられるだろう。


 さて、これら「教育」というものを一つの「社会的システム」と見た時、私はそこに多くの違和感を抱いてきた。その内の一つを語る。

 教育は、論理的であることを重視するが、一方それへの認知が歪んでいるかのように振る舞っている。



 言わずもがな、学問の歴史は「一握りの天才」達の頭脳が牽引してきた。
恐らくここまでは、皆が認めるべきだろう。

 私が思うに、天才の「論理的」の利用法の実際はこうだ。

左上は「いらすとや」様より。

なお「周囲」には「自分以外の天才」が含まれている。ここ重要。
天才同士の共通言語」として機能。

 天才は「天才の閃きや直感」が初手なのである。ゆえに天才なのだから。
この時点では、まだ論理的ではない。それを論理で後から舗装するのだ。


 これが「論理」の使い方の実際である、とさせてもらって良いならば、
 教育はこの事実をひた隠しにしている。そういうことになる。

 具体的には次のような構図を “強調” して、世の人をミスリードしている。

左上は「いらすとや」様より。

 何が良くないか。
 直球に言えば、「天才でない者にとっての “論理的” が神話化する」という状況を、間接的に肯定している。


「論理」は、凡人のための「天才の閃き」を代替する道具ではない。

 天才にのみ活用用途の開かれた、鬼用の金棒である。



 以前、YouTubeのコメント欄で、こんな言説を目にした。
 数学の問題を取り扱ったShorts動画だったか。

「これは閃きが無いと解けない問題だから好きじゃない。」
学問は、天才の閃きが無くても、問題を一律に解決できる方法を提供すべきものだ。」

 一字一句は覚えていないが、こんな旨だったと思う。


 これは、先までの言葉で言い換えれば、
“天才の所業” への漸近を可能にするのが学問」ということかと思う。
「学問を学ぶことで、誰もが天才に近づける」ということだ。

 のみならず、学問の神髄は、あっと驚く神秘的な解法ではなく、解の公式の方だと。


 別にそう信奉することは個人の自由だ。
発言主が天才側なのか、そうでない側なのかも、ここからでは分からない。

 だがあえて、私の感想を寄せるならば、

・その「学問の恩恵」を借りて凡人がやる作業は、今後AIがこなす。
・【学問】を特定の営みの名称・ある種の「現象」として、クールに扱っていない。「実態を観察→描写」せず、理想で曲げようとしている。

 先程までの話は、私なりの「実態の描写」の話だった。

 


 私が言いたいことは何か。

天才は天才の役割を、そうでない者はそうでない者の役割を務める」ことを、もっと徹底した方が良い。

「そうでない者の仕事の重要性は低い」とは一言も言っていないぞ。
むしろ「そうでない者の役割」として重要視すべきだと言いたい記事。

物流系は人手不足だし、向こう50年、あるいは永久に完全機械化できんぞ。

 教育行為は、百歩譲って「天才を発掘する」営みを含んでいても良いが、「天才でない者を、天才に “育て上げる”」類の試みは大概にすべきだ。

「天才性」とは、再現性が無いことの形容に他ならない。
 教育次第で再現可能であるならば、クラス皆が各々ノーベル賞を取れる。


 なぜこんなにもドライに、夢の無い話を、現実を見せつけるようなことを忠告しなければならなくなったか?

 少なくとも最大の決め手は、皆がAIを礼賛して、この世界に氾濫を許したからだぞ。AIという存在が仕向ける『冷徹な役割分担』である。

尚、これは「AIの意思」ではない。違う。
この話題には、そんな存在を仮定する意味は無い。

その手のアナロジーで理解したいなら、
これはむしろ「人類の本能」が招いた結末だろう。

ヒトの本性は「何も考えたくない」。
その本能でAIを生んだし、本能でAIをジャスティスだと感じる。



 そろそろ副題を回収して終わるが、

自動車免許の試験は、「車に乗って良い者」と「車に乗ってはいけない者」を分けるためのテストである。テストとしての質は酷く疑問だが。

ここでは「どういう人間が “車に乗ってはいけない者” か」については触れずに突き進むが、まぁ仮にソレが定義できるとして、
「車に乗ってはいけない者が、努力して自動車免許の試験に受かる」のは、大変な迷惑行為である。

 だってそうだろう?
視力が悪かったり、虫歯があったりしたら、他にどんな才能を持て余そうが飛行機パイロットにはなれないのだ。

 パイロットになれる条件が厳しいのは、危険を伴う乗り物だから。

 旅客機に比べたら確かに「危険の範囲」は局所的だろうが、普通車だって大変な凶器である。“熱意” で運転を許されるのは、大概にすべきだ。


 さらに実害を伴わない例には違いないが、これは入学試験だって、本質は同じなのである。
 試験が難しいのは、その難しい試験を突破できる性質を、集めたいから。課題ではなく篩

 「分相応でないレベルの学校に、何浪もしてでも入学する」のは、学校側からしての迷惑行為である。
 本来 学校側がテストしたいのは、「無理して出した上振れ値」ではなく、「自然で平常のステータス」である。



 大学受験のみならず高校、中学、小学、ひいては幼稚園受験など、もはや「篩」ではなく課題、言わば「従順性の養成カリキュラム」に変質したものとして考察しないと、訳がわからなくなる。それが現代だ。

 この限りに於いて、「勉強は役に立つ」「学んだことは無駄にならない」などという言い草は、システムが仕掛けた “甘い罠” である。

 天才はむしろ、この「従順性プログラム」からドロップアウトするタイプの中に多い。
 この場合の “教育” は、個性を画一化&天才を凡人化するコンベアである。

教育は「教育の失敗(非理想的稼働)」によって、天才を輩出している。
もとい “取り逃して” いる。

 “受験” システムによる治安維持は、もう既に「旧時代に有効だった制度」になりつつある。ざくっと言えばグローバル化によって。

多分 世界的に見て日本だけなんよ、そんな仕組みで治安が守れていたのも、そんな仕組みを無自覚で成立させる民族も。



 悪いことは言わん。
入試は、「そう無理せずに受かる所を見つける目的」で選んで受けろ。
人生を決めるのは「どこに行くか」よりも「行った場所で何をするか」だ。

 全員、受験勉強に青春なんか捧ぐな。
 ストレスで価値観が歪むだけだ。

 なべて高卒の方がロクな大人になる。
 大学なんて場への適応は、「社会人としての社会への適応」と、真反対の努力だからだ。

大学は、社会に出てお金も溜まった後の、余生の娯楽に向いた環境である。
そしてそういう「裕福な研究姿勢」こそが、天才の閃きを醸成する土壌だと思っても良いだろう。

音楽分野の場合、事情が真逆。
高価な設備など不要だし、「定期的に研究成果を求められる」ことが余計。
何も強制されていない今の私が「最も裕福」な状態である。

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