この世とあの世の境
さて、あたし自身、人生もそろそろ「着陸態勢」に入った昨今ですが、最近とみに思うのが、
「死んだら、どこに行くのかね?」
という、実に素朴な疑問です。
身辺でも、結婚式よりお葬式のほうが、やたらと多くなりました。
「香典代も結構きついなぁ」
などと不謹慎なことも考えておりますが、コロナ禍以降、「小さなお葬式」とでもいうようなものが一般化し、家族葬も増えました。新聞の死亡広告を見ても、すでに「葬儀終了」と記されているものが珍しくありません。
いいことなのか、悪いことなのか。
人付き合いの煩わしさが減ったとも言えますが、一方で、人の死というものが以前より見えにくくなったような気もして、少し複雑な思いがします。
このように、人が亡くなった後の扱いさえ「多様化」している昨今だからこそ、改めて「この世とあの世」「死者と生者」の関係について考えてみようと思ったわけです。
世界各地の民族や宗教は、この二つの世界をどのように捉えてきたのか。そして、そこにはどのような行動心理や、根本的な死生観が存在するのか。
少しじっくり考えてみようと思います。
内容は決してオカルト的なものではありません。宗教史・民俗学・思想史などを手がかりにした、いたって真面目な考察です。多少堅い話にもなりますが、そのあたりはご容赦ください。
そもそも「死生観」とは何でしょう。
突き詰めれば、今、私たちが現象として認識している「現世」と、そこを離れた者が存在するかもしれない「あの世」とは何なのか――という問いに行き着きます。
すなわち、
「死んだら、どうなるのか?」
という未知への問いです。
しかしこれは、逆さまにしてみれば、
「では、私はどこから来たのか?」
という問いとも、どこかでつながっているのかもしれません。
死後を考えることは、生まれる以前を考えることでもある。
つまり「死」を考えているつもりが、いつの間にか「生とは何か」を考えているわけです。
そこで、とりあえず世界各地の「信仰」を整理してみたところ、人類の死生観には、いくつかの類型があることに気づきました。
ひとつずつ見てみましょう。

①「輪廻型」
まず、仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教などにみられる「輪廻型」です。
大ざっぱに図式化すれば、
生 → 死 → 生 → 死 → 生……
と循環する。
つまり「死」は完全な終点というより、次の生への「乗換駅」に近い捉え方です。
ただし、仏教では、この循環そのものを決してめでたいものとは考えません。
生まれ、老い、病み、死に、そしてまた生まれる。
これを延々と繰り返すことが「輪廻」であり、その根底には「苦」があると考えます。
したがって仏教の究極的な目標は、この循環列車に永久に乗り続けることではなく、そこから離れることにあります。
これを「涅槃」と呼びます。
まあ、たとえて言えば、
「いつまでその電車に乗っとるんじゃ。そろそろ降りんかい!」
ということでしょうか。
いや、降りたあと何に乗るのか――などと考えてはいけません。
そもそも「乗り続けなければならない」という状態そのものから自由になる。
そこが大事なのです。
日本では、この「涅槃」や「悟り」「成仏」という言葉が重なり合いながら受け取られてきました。その結果、「死んだら仏になる」という、かなり日本的な死生観も生まれてきたのでしょう。
ただし、本来の仏教では、単に肉体が死ねば自動的に悟りに至る、というわけではありません。
そこで登場するのが「業」と「縁起」という考え方です。
人間の行為――つまり「業」は、それだけで完結するのではなく、さまざまな条件や因果関係の中で次の生へとつながっていく。
その仕組みから抜け出せなければ、再び生まれ、また「苦」を経験し、そして死ぬ。
これを繰り返すのが輪廻です。
一方、日本の浄土教、とりわけ浄土真宗では少し違った展開を見せます。
そこでは、自分自身の修行の力だけで悟りに到達しようとするよりも、阿弥陀仏の本願に身を委ね、浄土に往生して仏となることが強調されます。
つまり、
「自分の力だけで何とかしようとするな」
という思想でもあります。
肉体を持った現世の自分を絶対視せず、もっと大きなはたらきの中に自己を委ねる。
これは、後で取り上げることになる「宇宙」というものの捉え方にも、どこか通じるものがあるように思います。
もちろん阿弥陀仏の「本願」と物理学上の「宇宙」を同一視することはできません。
しかし、
「自分という存在は、自分だけで完結しているのではない」
という感覚には、どこか共通するものがあるのではないでしょうか。
こうして考えると、仏教を中心とする東洋の「輪廻型」の死生観とは、
死とは終わりではなく、因果の中にあるひとつの通過点である。
そして究極的には、
その循環そのものを超えることが救いである。
という考え方だと言えそうです。

