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【書籍】『致知』2025年12月号(特集「涙を流す」)読後感

 致知2025年12月号(特集「涙を流す」)における自身の読後感を紹介します。なお、すべてを網羅するものでなく、今後の読み返し状況によって、追記・変更する可能性があります。



巻頭:宇宙船地球号という一つ船に乗り合わせた兄妹として
 青山俊董さん(愛知専門尼僧堂堂頭)p2

 青山氏は、釈尊が12月8日の未明、明星を見て悟りを開かれた「成道」の言葉から話を始められます。その中心にあるのが「大地有情同時成道」という考え方です。これは、私たち人間だけでなく、一本の草や一匹の猫に至るまで、この世のすべてのものは、天地宇宙すべての総力をあげたお働きによって、それぞれの生命を営んでいる、という意味です。

 しかし、私たちは往々にしてその事実に気づきません。秦慧玉禅師は「道始めより成ず(道は初めから成っている)」と、すべてが最初から宇宙の働きに支えられている(過去完了形)と読まれました。一方で、その事実に「気づく」(未来形)こともまた大切です。気づかなければ、その生命を軽んじ、現代の戦争のように、平気で他者を傷つけてしまうからです。

 道元禅師は「無情の説法」という言葉を引用されます。草木国土、つまり言葉を持たない自然や万物が、実は常に私たちに語りかけている、その声を聞け、というのです。香厳禅師が庭掃除中に石が竹に当たる音で悟ったり、霊雲禅師が桃の花を見て疑問が解けたりしたように、人類の文化とは、こうした天地の声、つまり「無情の説法」をどう聞いてきたかの歴史とも言えます。

 現代において、私たちは「宇宙船地球号」という一つの船に乗り合わせた兄弟姉妹です。それなのに、人類の利益だけを優先した結果、地球温暖化や動植物の絶滅といった深刻な問題を引き起こしています。道元禅師は「声なきを恨まず、耳なきを恥じる」と仰いました。今こそ私たちは、心の耳目をしっかりと開き、万物が出している「声なき声」に耳を傾け、どうあるべきかを真剣に考え、実行に移さなければならないと、強く訴えられています。

人事としての活かし方

 この「巻頭の言葉」は、企業人事の在り方にも深く通じるものがあると感じます。人事の仕事は、まさに「無情の説法」に耳を傾けること、そして「心の耳目」を開くことに他ならないからです。

 社員が言葉にする「声」(要望、不満)はもちろん大切です。しかし、それ以上に重要なのが、言葉にならない「声なき声」です。例えば、勤怠データ、サーベイの数値、1on1でのふとした表情、会議での発言回数の変化。これらはすべて、組織や個人が発している「無情の説法」です。

 私たちは「耳」で聞こえる言葉だけに対応するのではなく、道元禅師が言うように「眼処に聞く」姿勢、つまりデータや行動の背景にある真意やコンディションの変化を鋭敏に察知する力が求められます。なぜなら、本当に大きな問題は、声高に語られることよりも、静かな兆候として現れることの方が多いからです。

 また、「大地有情同時成道」の教えは、組織の多様性とインクルージョンの本質を示しています。組織は、一部のスタープレイヤーだけで成り立っているのではありません。一見目立たない業務を担う人も含め、すべての社員がそれぞれの持ち場で「生命のいとなみ」をしているからこそ、組織は健全に機能します。

 人事として、その一人ひとりの働きを軽んじず、尊重し、誰もが「自分もこの船(組織)の一員である」と感じられる環境を整えること。それが「宇宙船地球号」における、持続可能な組織運営ではないでしょうか。私たちは「耳なきを恥じる」ことなく、常に社員と組織の「声」に真摯に耳を傾け、あるべき姿を実行していく覚悟が必要だと、改めて感じたところです。


リード:藤尾秀昭さん 特集「涙を流す」 p8

 人生には様々な涙があり、特に「悲しみの涙」は、時に人を絶望させ、人生を誤らせる危険もはらんでいます今回の記事では、この深い悲しみを乗り越えた二人の人物が紹介されています。

 一人は、釈迦の時代に生きたキサーゴータミーという母親です。彼女は産んで間もない赤ん坊を亡くした深い悲しみから、釈迦に「生き返らせる薬」を求めます。釈迦は「薬のために、今まで一人の死者も出したことのない家から芥子の種をもらってきなさい」と彼女に伝えます。ゴータミーは村中を必死に探し回りますが、どの家も「芥子はあげられるが、うちでも〇〇が死んだ」と言い、死者を出していない家は一軒も見つかりません。その時、彼女ははっと気づきます。「大切な人を失う悲しみは、自分だけではなかった。誰もがその悲しみに耐えて生きているのだ」と。この気づきによって彼女は悲しみから解放され、救われたといいます。

 もう一人は、江戸時代の俳人・小林一茶です。ユーモラスな句とは裏腹に、その人生は悲しみの連続でした。幼くして実母と死別し、継母にいじめられ、父の死後は遺産争いを経験します。52歳で結婚し、4人の子宝に恵まれますが、その子たちは次々に幼くして亡くなっていきました。特に愛娘さとの死に際して詠んだ「露の世は露の世ながらさりながら」という句には、無念と深い悲しみが滲み出ています。やがて妻にも先立たれ天涯孤独となりますが、一茶は絶望しませんでした。すべてを阿弥陀仏に任せるという「あなた任せ」の信仰に目覚め、次々と襲い来る不幸や大火事による財産の喪失さえも受け入れ、動じない「ほどけた人」として晩年を過ごしました。

 釈迦は「常に深い悲しみを心に抱き、その悲しみを大切にして歩み続ける人は、ついに悟りに目覚める」と言ったそうです。悲しみに打ちひしがれ、涙を流す経験は、決して無駄ではなく、むしろ心を浄化し、魂をより高い境地へ導くための道程なのかもしれません。

人事としての活かし方

 この記事の内容は、企業で「人」と向き合う人事の視点からも、多くの示唆を与えてくれます。社員もまた、私生活での家族との別れや病気、あるいは仕事上での大きな挫折、信頼していた仲間の離職、望まぬ異動など、日々さまざまな「悲しみ」や「喪失感」に直面しているからです。

 まずキサーゴータミーの物語を参考にしてみます。社員が深い悲しみを抱えている時、その苦しみを否定せず、共感し、受け止めることが第一歩となります。しかし、釈迦が「芥子の種」の教えで気づきを与えたように、ただ同情するだけではなく、次のステップに進むための支援が求められます。面談やカウンセリング支援、あるいは休暇制度の案内などを通じて、「その苦しみはあなた一人だけではない」「会社はサポートする」というメッセージを伝え、孤立感を和らげることが大切です。

 また、小林一茶の人生は、逆境からの「レジリエンス(回復力)」の重要性を示しています。次々と襲い来る不幸を受け入れ、「あなた任せ」の心境に至ったように、社員が直面した厳しい現実(失敗、降格、異動など)を、一度ありのまま「受容」するプロセスは、立ち直りのために不可欠です。人事は、社員がその経験から意味を見出し、次のステップに進むための「内省」を支援する伴走者であるべきでしょう。

 悲しみや涙(感情の吐露)をタブー視するのではなく、それらを安全に受け止め、吐き出せる「心理的安全性」のある職場環境を整えること。それこそが、社員の心の浄化を助け、困難を乗り越える力(レジリエンス)を育み、結果として働く意欲や人間性を成長させる道につながるのだと思います。


喜びも悲しみも、すべてを人生のギフトに 大山峻護さん(元総合格闘家)、官野一彦さん(パラサイクリング選手)p10

 元総合格闘家の大山峻護氏と、パラサイクリング選手の官野一彦氏。人生の大きな山坂を経験してきたお二人の対談は、困難を乗り越え、自らと人を生かす道筋を力強く示してくれます。

 お二人の出逢いは2020年、共通の友人を介したものでした。当時、官野氏は苦難の渦中にいました。2016年のリオパラリンピックで車いすラグビー日本代表として銅メダルを獲得した後、東京パラでの金メダルを目指し、競技に専念していました。しかし、努力もむなしく日本代表に選ばれず、ふと周りを見渡すと、誰もついてきてくれていないという孤独感に苛まれます。焦りと不安から鬱状態になった官野氏に、大山氏はZoom越しにこう語りかけました。

「人は誰かが喜んでくれるからこそ自分も嬉しい。官野君、人のために走りなさい」

 この言葉は官野氏の人生を大きく変えました。自分を支えてくれる数少ない家族や友人を喜ばせるために挑戦し続けることこそが「人のために走る」ことだと結論づけ、車いすラグビーを引退。パラサイクリング選手として新たなスタートを切ったのです。苦しい時には応援してくれる人たちの顔を思い浮かべることで、もう一歩を踏み出す力を得られると言います。大山氏自身も、現役時代に自分のエゴではなく「皆を喜ばせたい」という思いでリングに上がった時こそ、良いパフォーマンスができた経験を持っていました。

 その大山氏もまた、新たな試練に直面しています。引退後、格闘技を応用した企業研修「ファイトネス」の普及や社会活動に尽力する中、難病「アミロイドーシス」を宣告されました。尊敬するアントニオ猪木氏も罹患したこの病は、進行性で治療法はまだありません。「死」を身近に感じたことで、残された時間が愛おしくなり、趣味だった絵画にも「一つでも多く作品を残したい」と本気で向き合うようになりました。大山氏は、この難病すらも自分を成長させてくれる「ギフト」だと感謝して受け止めていると語ります。

 官野氏の人生が大きく変わったのは22歳の時でした。プロ野球選手になる夢を諦め、夢中になっていたサーフィン中の事故で頸椎を損傷。医師から「今後歩くことはできない」と告げられ、生きる気力を失い「死にたい」とさえ思いました。そんな官野氏を絶望の淵から救ったのは、母親の存在でした。病室で付き添う母は、昼間は気丈にケラケラと笑っているのに、夜中にふと目を覚ますと、息子のために一人すすり泣いていたのです。その姿に気づいた時、幼い頃からの母との思い出が溢れ出し、「お母さん、ごめんなさい」と涙が止まりませんでした。

 「母を悲しませない」。その一心で、事故のわずか6日後からリハビリを開始します。寝たきりの状態からベッドを20度起こすだけで気絶してしまうほどの壮絶なリハビリでした。しかし、一日も早く自立した生活を送るため、諦める気持ちは一切なかったと言います。退院後、偶然出逢ったのが車いすラグビーでした。車いす同士が激しくぶつかり合い、倒れても誰も助けてくれないその競技に、障がい者として優しくされることに苦しさを感じていた官野氏は、「自由と心地よさ」を見出し、のめり込んでいきました。

 一方、大山氏の原点は、幼少期に憧れたウルトラマンでした。体が小さく弱虫だった少年は、「強くなって誰かに勇気や感動を与えたい」と柔道を始めます。大学卒業後は実業団に進みますが、25歳の時、PRIDEで見た桜庭和志選手の死闘に魂を揺さぶられ、「俺はあのリングに上がる」と決意。安定した実業団を辞め、プロ格闘家への転身を果たしました。

 しかし、その道は順風満帆ではありませんでした。憧れのPRIDEデビュー後は負けが続き、右目、左目と二度の網膜剥離、腕の骨折など、度重なる怪我との戦いでもありました。当時の大山氏は「自分さえ勝てばいい」と本気で思うほど我(が)の強い人間でした。しかし、怪我という試練を通して多くの人の支えを実感し、「皆に喜んでもらうためにリングに上がろう」と意識が変わっていったのです。

 官野氏にも同様の転機がありました。車いすラグビーを始めて1年で日本代表に選ばれるも、「自分は天才だ」と慢心し、代表から落選してしまいます。そんな時、スポーツ心理学者から「夢である限り叶わない。その夢を目標に変えられますか?」と問われます。官野氏は「パラリンピック出場」という夢を「目標」に変え、ゴールから逆算して「いま何をすべきか」を徹底的に考え、行動に移しました。その結果、ロンドンパラ出場(4位)、そして次のリオパラでは念願の銅メダルを獲得。「意識が変われば行動が変わり、結果も変わる」ことを実感しました。

 対談では、「誰かのために」という思いが引き出す力の大きさも語られました。大山氏は、お金がなくて妻に結婚指輪を買えなかった頃、優勝賞金のかかったトーナメントに出場。強敵にダウンを奪われ「これまでか」と思った瞬間、妻の顔が浮かび、全身に力が漲って逆転KO勝ちを収めたエピソードを披露。まさに「誰かのために」という思いが勝利を引き寄せたのです。

 官野氏は、「人を喜ばせる道は自分を幸せにする道」だと語ります。大山氏から教わった「人のために走りなさい」という言葉を胸に、応援してくれる仲間たちと喜びの涙を流すため、全力を尽くすと誓います。

 最後に大山氏は、「人に喜んでもらうこと」を人生軸にすれば、誰もが幸せな人生を送ることができると断言します。かつては「すべてを力に」という言葉を好んでいましたが、難病という最大の苦難をも「ギフト」だと感謝して受け止められた今、「すべてをギフトに」という言葉こそがしっくりくると言います。この対談は、人生で起こるすべてを成長の糧(ギフト)として受け止め、他者の喜びを自らの力に変えていく生き方を教えてくれます。 

人事視点で読み解く「すべてをギフトに」

 このお二人の対談は、企業の人事・組織開発の観点からも非常に多くの示唆に富んでいます。特に「利他の精神」「目標への転換」「試練の受容」という3つの要素は、現代の組織運営と人材育成における重要な鍵となります。

 第一に、官野氏が「人のために走る」と決意してから飛躍したように、社員のパフォーマンスは「自分のため」という動機だけでは限界があります。給与や昇進といった外発的動機付けも重要ですが、それ以上に「顧客のため」「チームメンバーのため」、ひいては「社会に貢献するため」という「パーパス(存在意義)」への共感が、社員の内発的動機付けを強力に引き出します。人事は、企業理念やパーパスを絵に描いた餅にせず、日々の業務と結びつけるストーリーテリングや仕組みづくりを通じて、組織の求心力を高める役割を担っています。

 第二に、官野氏が「夢」を「目標」に変え、逆算思考で行動を具体化したプロセスは、まさに目標管理(MBO)やOKRの本質です。会社が掲げるビジョン(夢)を、各部署、各個人の具体的な「目標(やるべきこと)」にまで落とし込むことが不可欠です。人事は、その目標設定が具体的かつ挑戦的であるか、そしてビジョンと連動しているかを確認し、達成プロセスを支援する伴走者であるべきでしょう。

 最後に、お二人が示す「すべてをギフトに」という姿勢は、ビジネス環境における「レジリエンス(再起力)」そのものです。プロジェクトの失敗、予期せぬ異動、市場の急変など、組織も個人も必ず逆境に直面します。その時、それを「失敗」とだけ捉えるか、大山氏のように「成長のギフト」と捉え直す(リフレーミングする)かで、その後の行動は大きく変わります。失敗を許容し、そこからの学びを称賛する文化を醸成するとともに、逆境体験を血肉に変えるための研修や1on1ミーティングの質を高めていくことが求められると感じました。


人生の悲愁を越え命を見つめて生きる 鈴木秀子さん(文学博士) 本郷由美子さん(グリーフパートナー歩み代表)p20

 私たちは人生で、時に受け入れ難いほどの悲しみや苦しみに直面することがあります。2001年6月、大阪教育大学附属池田小学校で8人もの児童の命が奪われた事件は、日本社会に大きな衝撃を与えました。当時、小学二年生だった愛娘・優希さんを失った本郷由美子さんは、深い悲嘆の中から、現在は人生の苦しみや悲しみを抱える人々に寄り添う活動を続けています。

 本郷由美子さんと文学博士・鈴木秀子先生との対談「人生の悲愁を越え」は、人が絶望的な悲しみにどう向き合い、それと共に生きていくのか、その深遠なプロセスを静かに、しかし力強く示してくれます。

 この対談は、二人の不思議な縁から始まります。事件後、本郷さんの叔母(講談社・野間佐和子元社長を介した間柄)の依頼を受け、鈴木先生は亡くなった8人の子供たちのために静かにミサを挙げ、祈りを捧げ続けていました。また、本郷さんが出版した手記を読んだ鈴木先生は、その深い内容に感銘を受け、叔母宛に心のこもった手紙を送っていました。本郷さんはその手紙を「再生の扉への招待状」として、二十数年経った今も大切なお守りにしていると言います。鈴木先生の長年の祈りと、本郷さんの静かな敬意が、対談の場を温かく包み込みます。

 事件から24年。「残酷でもあり、寛容でもあった」と本郷さんは歳月を振り返ります。悲しみと向き合い続ける中で、人の温かさを知り、物事の捉え方が柔軟になれた側面もあると語ります。生きていれば31歳になる優希さん。ミミズが安全に道を渡りきるのを真剣な眼差しで見守っていたという優希さんの優しさに満ちた姿は、今も本郷さんの中に鮮やかに息づいています。

 事件当日の記憶は、今も胸を詰まらせます。娘とクッキーを焼く約束をし、スーパーに向かった矢先のことでした。学校に駆けつけ、混乱の中で目にした光景。正門前に運ばれた動かない少女が優希さんだったと知ったのは、後のことでした。「なぜ自分の子に気づけなかったのか」という悔いは、「変わり果てた姿を見たらママは生きていくのが辛くなるだろう」という優希さんの導きだったのではないかと、今は受け止めています。

 病院で対面した優希さんは、微笑んでいるようにさえ見えました。そして、事件の詳細が明らかになるにつれ、傷の深さから即死と思われていた優希さんが、最後の力を振り絞って廊下を68歩も歩いていたことが判明します。本郷さんはその廊下を何度も訪れ、娘の思いを感じ取ろうとしました。

 事件直後、本郷さんは五感が麻痺し、目に見えるものすべてが灰色に見える「精神的な瀕死状態」に陥ります。しかし、その状態の中で、「何か大きな命の流れの中に守られている」という感覚を抱いたと言います。

 再生への転機は、不思議な体験として訪れます。いつものように優希さんが歩いた学校の廊下を訪れた時、笑顔の優希さんが「ママ!」と叫びながら走ってくる姿を見ます。「よく頑張ったね」と強く抱きしめた瞬間、いのちが呼応し、「娘とは繋がっている」と実感します。その時、「命の価値は長い短いではなく、自分の命を精一杯生きること、人生をどう歩むか、そこに命の価値があるのではないか」という、優希さんからの「無音の言葉」が心に響きました。本郷さんは誓います。「優希が最後の力を振り絞って歩いた六十八歩。私も同じように生きていきます。神様、どうかお願いします。優希と一緒に手を繋いで六十九歩目を歩ませてください」と。

 この誓いを胸に、本郷さんは心の支援の道へ進みます。当時はまだ犯罪被害者の人権が守られていない時代。ヘンリ・ナウエンの「傷ついているからこそ人は神の愛を自覚できる」という言葉に支えられ、2005年に「精神対話士」の資格を取得。上智大学グリーフケア研究所で専門的に学び、「ケアは技術ではなく、一人ひとりの人生とどう向き合うか」を徹底的に深めました。

 対談の中で、鈴木先生は本郷さんが「我が子の命を奪った相手の立場まで理解するようになられている」点に深く感銘を受けます。本郷さんは、当初は犯人を徹底的に憎み、「周りの人も同じ目に遭えばいい」とさえ思ったと、自らの内なる感情を率直に告白します。「一歩間違えたら加害者になってもおかしくなかった」と。

 しかし、加害者の生育歴(親からの存在否定や暴力)を知った時、もし自分が同じ環境なら「自分を大切にできず、人にも優しくできなかっただろう」と思いを馳せます。多くの人に支えられる中で「恨みからは何も生まれない」と気づき、「加害者ももともとは悲しみを抱えた被害者だったのではないか」「誰かが『かなしみ』に寄り添うことができていたら、事件は起きなかったのではないか」と考えるようになったのです。

 現在、本郷さんの活動はピア・サポートから、グリーフケアの講演、研修、そして「ひこばえ」(切り株から出る新芽)と名付けたグリーフケアライブラリーの運営など多岐にわたります。また、小学校で児童のサポートも行っており、子供たちの日常の姿に大きな喜びを感じていると言います。鈴木先生は、本郷さんが池田小事件の被害者を「ひと括り」にせず、「八人一人ひとりの命を輝かせよう」としている姿勢を賞賛します。本郷さん自身、事件後に「ひと括り」にされる悲しさを経験しており、「それぞれが輝いて生きていたことを伝えたい」という思いを新たにします。

 対談では、心に残る出会いも語られました。少年鑑別所で本郷さんの手記を読み更生した少年。妹を亡くした経験を持つ漫画家の松本零士先生が、本郷さんの次女を見て「999に乗せて優希ちゃんと会わせてあげたいね」と涙したこと(後に松本作品に「ホンゴウユキ」という乗務員が登場)。ドキュメンタリー映画の上映会で、本郷さんの「皇室の方々の在り方はグリーフケアそのものです」という言葉に、目に光るものを見せられた秋篠宮皇嗣紀子妃殿下のこと。本郷さんは、これらの涙を「深い安らぎを含んだ温かい涙」であり、立場を超えて悲しみが響き合った瞬間だったと振り返ります。

 鈴木先生は、最も辛い悲しみの一つとして「我が子の自殺」を挙げ、自責の念に苦しむ母親たちの例に触れます。そのような人々にとっての救いは、「さりげない優しさ」であり、周りが「自分を責める必要はない」と受け入れ、本人が自分を許せるようになることだと語ります。そして、見守る側には「押し付けるのではなく、さりげなく一緒に探し、強い忍耐心を持って、その場に居続ける」ことが大切だと説きます。本郷さんも、事件後に黙って切った野菜を届けてくれた人々の「静かに寄り添って黙って見守ってくれた」存在に支えられたと深く同意します。

 本郷さんは、「悲しみを乗り越える」という言葉を使いません。悲しみは現在進行形であり、「悲しみの根源には愛情と愛着がある」からです。悲しみ尽くし、自分なりに折り合いをつけた時、根源にある愛に気づき、「悲しみの涙の質が変わり、安らぎを得た温かい涙として流れてくる」と言います。また、事件後は笑うことに罪悪感を覚えていましたが、落語で人目を気にせず笑えた経験から、「悲しみの中でも安心して笑う」ことの重要性も伝えています。

 最後に、鈴木先生は「どうしようもなく辛く悲しい時、大切なことは涙を流すこと」だと強調します。安全な場で徹底的に号泣し、心が空っぽになると、新しい考えが浮かび、自分を導いてくれる、と。

 そして、すべての出来事はニュートラルであり、「それをどのように捉え、どのように生かすか」が重要だと説きます。本郷さんが「いま私はとても幸せです」と語るように、幸せは「人間の心の奥深いところに隠されている」のです。本郷さんは、耐え難い体験を「自分に何を教え、どういう方向に導こうとしているのか」という視点に変えることで、ご自身を大きく成長させました。

 この対談は、悲しみは克服するものでも、消し去るものでもなく、深く抱きしめ、愛おしきものとして「共に生きていく」ものだという、人間の再生の真実を教えてくれます。

人事の視点から:私たちができる「寄り添い」

 この重層的な対談は、人の生死という究極のテーマを扱いながらも、組織で「人」と向き合う私たち企業人事にとっても、非常に多くの示唆を与えてくれる内容です。

 企業活動の中にも、社員が直面する大小様々な「喪失体験(グリーフ)」が存在します。ご家族との死別やご本人の病気といった深刻なものから、期待していたプロジェクトからの離脱、降格や望まない異動、信頼していた上司や同僚の退職、あるいはハラスメントの被害体験なども、広義のグリーフといえるでしょう。こうした時、私たちはどのようなスタンスでいればよいのでしょうか。

 第一に、本郷さんが「八人ひと括り」にされることに悲しさを覚えたように、私たちも「あの部署の人は大変だ」「あの人はメンタル不調だ」といったレッテル貼りで当事者を理解した気になっていないか、自問したいところです。一人ひとり異なる背景、価値観、そして固有の「かなしみ」の物語に、丁寧に耳を傾ける姿勢が求められます。

 第二に、支援のあり方です。鈴木先生が語った「忍耐強く、その場に居続ける」こと、そして本郷さんが救われた「黙って野菜を届けてくれる」ような「静かな寄り添い」は、人事や管理職の面談のあり方を考える上で重要なヒントとなります。私たちはつい、解決策を提示し、「頑張れ」「早く乗り越えろ」と励ましてしまいがちです。しかし、本当に必要なのは、性急なアドバイスではなく、当事者が自ら立ち上がる力(ひこばえ)を信じて、「安全な場」を提供し続けることなのかもしれません。

 本郷さんが「一歩間違えたら加害者になっていたかもしれない」と自らの憎しみの感情を率直に語ったように、ネガティブな感情を抱くこと自体を否定せず、一度受け止めること。対談で語られた「泣くこと」や「笑うこと」の重要性は、組織における心理的安全性の確保が、いかに個人のレジリエンス(回復力)にとって不可欠であるかを物語っています。

そ して、鈴木先生の「出来事はニュートラル」という言葉。私たちは、社員のキャリアや人生で起きた出来事を「成功/失敗」「良い/悪い」でジャッジしがちです。しかし、大切なのは、その経験から当事者自身が「何を学び、どう生かすか」という「意味づけ」を見出していくプロセスです。その対話をサポートすることこそ、私たちが果たせる役割の一つではないでしょうか。

 本郷さんが「ケアしていると思っていても、実は自分がケアされお互いに支え合っている」と語ったように、支援する側/される側という二元論ではなく、対話を通じてお互いが学び、成長していく。そうした地道な関わりこそが、変化の激しい時代において、しなやかで強い組織の土台となっていくのだと感じさせられる対談でした。


人生に無駄なことは何一つない—薬物依存症の母との40年の闘いが導いたプリズンドクターの道 おおたわ史絵さん (総合内科専門医/法務省矯正局医師)p40

 総合内科専門医であり、法務省矯正局医師としても活動されている、おおたわ史絵氏。彼女は現在、刑務所や拘置所で受刑者の診療にあたる「プリズンドクター」としての道を歩んでいます。プリズンドクターは日本全国の医師のわずか0.086%しかいない、非常に稀有な存在です。おおたわ氏は非常勤で月に十日ほど、刑務所でがんや生活習慣病、精神疾患などを患う受刑者たちの継続治療にあたっています。

 受刑者たちの犯罪歴は様々ですが、彼女は「怖いと思ったことは一度もない」と言います。診療には刑務官が立ち会い、彼らは武器を持っていないからです。それ以上に、「彼らが無事に出所する日まで懲役作業が務められるように。入ってきた時よりも一つでも好転しているように」という強い願いを持って、医師としての役目を全うされています。

 しかし、彼女がこのプリズンドクターという道に至るまでには、薬物依存症の母親との四十年にわたる凄絶な闘いがありました。

 おおたわ氏は開業医の一人娘として生まれ、物心ついた頃から父親と同じ医師の道に進むことを期待されて育ちました。特に元看護師の母親は、彼女が医師になることを切望し、小学校受験を境に「教育ママ」へと変貌します。習い事は常に一番でなければならず、勉強のノルマはストップウォッチで厳しく管理されました。制限時間を少しでも過ぎれば物が飛んでくるのは日常茶飯事で、石の灰皿が額を直撃し流血したこともあったといいます。当時は他の家庭を知らず、「世のお母さんはこんなものだろう」と思っていたそうです。

 家庭の歯車が狂い始めたのは、彼女が小学校高学年の頃。元々気分の浮き沈みが激しかった母親が腹痛を訴える度、医師である父親が痛み止めを処方していましたが、次第に効かなくなりました。そこで当時発売されたばかりのオピオイドという注射製剤を処方したところ、劇的に効いたのです。

 医師である父親ですら、その薬がもたらす恍惚感に気づいていませんでした。母親が勉強を見なくなった空白の期間に、注射の頻度はエスカレートしていきます。事の重大さをおおたわ氏が知ったのは、医大に進学し、病院実習に参加した時のことでした。厳重管理されているその薬が、麻薬に似た化合物で、強い多幸感と共に依存症になる人が後を絶たないと知ったのです。「母親はいけない薬を使っている」。目の前が真っ暗になり、ここから家族の長い闘いが始まりました。

 すぐに父親と話し合い、注射を取り上げようとしましたが、すでに依存が深刻化していた母親は激しく抵抗します。母親に泣き落とされ、父親がしぶしぶ薬を与えてしまうこともありました。1980年代は依存症治療が確立されておらず、専門家を探して精神科の隔離病棟に入院させても、その場しのぎで病状は悪化する一方でした。「もう薬をやめる」という母親の言葉に信じては裏切られる日々に疲れ果てたおおたわ氏は、研修医として働き始めたことを機に、逃げるように実家を出て距離を置きました。

 転機が訪れたのは三十代、医師としてのキャリアと並行し、メディアでの仕事も増え始めた頃です。父親から「ママが暴力をふるうようになった」と連絡が入ります。駆けつけた実家には使い終わった注射器が散乱し、母親は薬を止めようとする父親に殴りかかるほど暴力的になっていました。必死で専門家を探し、ついに依存症の権威である故・竹村道夫先生と出会います。

 竹村先生からの提案は、耳を疑うものでした。「まずはあなたとお父さんが入院しなさい」。長年依存症に巻き込まれてきた家族もまた病的な状態に陥っており、まず家族が自分自身を取り戻すことが不可欠だと説得され、父親と共に群馬の医療施設に二週間入院することになりました。

 施設では、薬物やアルコール、ギャンブルなど様々な依存症患者の家族と話し合うミーティングが毎日開かれました。そこで依存症への理解を深めるとともに、「辛いのは私たちだけじゃない」と気づけたことが、何よりの心の救いになったと言います。

 この入院で学んだことの一つは、「母親を変えることは難しくても、自分たちが変わることはできる」ということでした。それまでの家族は、母親への情けから薬の供給を断ち切れず、結果的に「依存の支え手」になっていたのです。この負の連鎖を断ち切るため、父親は関係薬剤の仕入れを一切止めました。母親は最初こそ薬を探し回りましたが、やがて諦めたように求めなくなりました。

 しかし、母親が二十五年以上続いた薬物依存から抜け出そうとしていた矢先、今度は父親が肝臓がんを患います。一年間の闘病の末、2003年に76歳でこの世を去りました。死に際、父親が流した一筋の涙には、別れの寂しさと母親への無念が詰まっていたように見えたそうです。

 共に闘ってきた戦友である父親を失い、おおたわ氏は強い孤独感に苛まれます。一方、母親は依存対象がテレビショッピングに移り、父親の葬式にも姿を見せませんでした。父親の死を境に、母親の常軌を逸した言動はさらに過激化していきます。一日に何十回も電話をかけ、出ないと救急車を呼んで騒ぎを起こす。親戚や知人に、おおたわ氏に関する事実無根の嘘を言いふらす。父親から引き継いだ診療所を必死で守ろうとしているにも関わらず、迷惑行為は続きました。

 ついに我慢は限界に達し、「このままでは、母を殺してしまうかもしれない」という考えが脳裏をよぎった瞬間、彼女は母親との関わりを捨てるしかないと決意します。ヘルパーに母親の世話を任せ、約五年間、ほぼ絶縁状態となりました。そして2013年、母親は心臓発作により一人で亡くなりました。奇しくも父親と同じ76歳でした。その死に顔は、記憶の中のどの表情よりも平穏で、どこかほっとしたように見えたと言います。薬物に翻弄され、家族を傷つけながら生きた人生は、彼女自身にとっても苦しいものだったのでしょう。

 両親を亡くし、自分を繋ぎ止めていたものがなくなった時、おおたわ氏は「このまま医師を続けていいのか」と深く悩みます。悩んだ末、2017年に父親から引き継いだ診療所の閉院を決断。そして、「これに落ちたら潔く医者を辞めよう」と退路を断ち、内科医で最難関と言われる総合内科専門医の資格試験に挑み、半年間の猛勉強の末、見事合格を果たします。

 「もう少し医師を続けてもいいかもしれない」。そう考えていた矢先、知人から矯正医官の仕事に興味はないかと声をかけられました。塀の中で働くことなど考えたこともありませんでしたが、実際に刑務所を見学し、自分に向いているかもしれないと直感します。麻薬犯罪の話を聞いても、母との経験のおかげで、すべて理解できたからです。「ここでなら、薬物依存症の母を持って生きてきた稀有な体験を活かせるかもしれない。私はこの仕事をするために医師になったんだ」。ようやく答えを見出せたように思え、彼女はプリズンドクターとしての道を歩み始めました。

 医療設備が十分でない環境にも、かつて北アルプスの山頂で夏山診療を経験していたため、臆することはなかったと言います。「そう考えると、苦しかったことも結果的には必ず何かの役に立つ。人生に無駄なことは何一つない」と、彼女は実感しています。

 受刑者の診療では、一般的な医療に加え、「人としてきちんと生きていけるように導く」ことを心懸けています。朝起きて、昼間は働き、規則正しい食事をする。そうした「当たり前の大切さ」を伝えるようにしているのです。

 その一環として、2019年には受刑者の社会復帰支援として「笑いの健康体操」を日本で初めて刑務所に導入しました。これはインドの医師が考案した笑いヨガをベースにしたもので、精神の安定など様々な効用が立証されています。かくいうおおたわ氏自身も、母親と闘っていた頃は全く笑えず、元来笑うことが嫌いでした。しかし、この体操を通じて「笑うことも悪くない」と思えるようになった経験から、所長に直談判して導入に至りました。

 受刑者たちも、笑うことを知らずに生きてきた人が多く、最初はなかなか笑えません。それでも声を出しながら運動するうちに表情がほぐれ、最後には皆が晴れやかな顔で笑うようになります。「笑うことを忘れていたけど、気持ちよかった」と前向きなコメントも多く寄せられています。外の世界に戻れば、腹が立つことや嫌な目に遭うことも多いでしょう。しかし、辛い時こそ笑うことで気分が落ち着き、再犯を未然に防げるかもしれない。彼女はそう願っています。

 若い頃は苦しくて、「テレビに出て恵まれた人生で羨ましい」と言われる度、「そんなに羨ましいなら私の人生と代わってくれ」と心の中で泣き叫んでいたと言います。しかし、人間は不思議なもので、「どれもこれも大したことじゃなかった」と思える日が必ず来る、と彼女は語ります。母親と向き合い続けた日々があったからこそ、晴れ渡った空や道端に咲く花の香りといった日常の小さなことに感謝を抱き、心の底から幸せだと実感できるのです。

 「母親一人さえ変えることができなかった」という経験から、誰かを変えようとは思いません。しかし、「目の前のことを一所懸命やることはできる」。おおたわ氏は、そうした信念を胸に、「たとえ九十九人が駄目だったとしても、百人目は何かが変わるかもしれない」と信じて、今日もプリズンドクターとして受刑者たちと向き合っています。

人事としての活用

 おおたわ史絵氏の壮絶な人生と、そこから天職を見出されたお話は、企業人事が組織と個人に向き合う上で、非常に多くの示唆を与えてくれます。

 第一に、「レジリエンス(再起力)と経験のリフレーミング」の重要性です。薬物依存の母との葛藤、教育虐待、両親との死別と絶縁という経験は、キャリアを中断させてもおかしくないほどの深刻な困難です。しかし、おおたわ氏はその「稀有な体験」こそが、プリズンドクターという仕事において誰にも真似できない強みになると捉え直しました。

 人事として、社員が直面する私生活上の困難や仕事での大きな失敗を、単なる「ネガティブな出来事」として処理してはもったいないです。1on1などを通じて、その経験から得た痛みや共感力、困難を乗り越えたプロセス自体が、その人の人間的な深みや、将来のキャリアにおける独自の価値(=強み)になり得るという視点(リフレーミング)を共有し、支援することが重要です。

 第二に、「コントロールできることへの集中」です。彼女は「母親を変えよう」として長年苦しみましたが、最終的に「母親を変えることはできない」と受け入れ、「自分たちが変わる(依存の支え手をやめる)」ことを選択しました。そして現在は、「誰かを変えようとは思わない。目の前のことを一所懸命やる」という姿勢で受刑者に接しています。

 組織では、多くの社員が「上司(部下)が変わってくれない」「組織風土が変わらない」と悩み、疲弊しがちです。人事として、コーチングや研修の場で、「他者と過去」は変えられないが、「自分と未来」は変えられるという原則を伝えることができます。おおたわ氏が「笑いの体操」を導入したように、他者を変えようとするのではなく、自分がコントロールできる範囲で「当たり前の大切さを伝える」「環境(仕組み)を整える」といった具体的な行動に集中するよう促すことが、本人の主体性と組織の改善に繋がります。

 最後に、「ウェルビーイングの基盤となる『当たり前』の再構築」です。彼女が受刑者に「朝起きる、働く、規則正しい食事」という当たり前の大切さを説く姿は、現代の企業人事に通じます。リモートワークの普及などで生活リズムが崩れがちな社員に対し、パフォーマンスを求める以前に、人としての土台となる基本的な生活習慣(ウェルビーイング)の重要性を啓発し、支援する施策が求められています。
 おおたわ氏の「笑い」の導入のように、一見業務と無関係に見えるポジティブな感情体験や、心理的安全性の高い環境づくりこそが、社員の心身の健康を守り、再犯(離職やメンタル不調)を防ぐ基盤となるのです。


日本再生への祈り 後藤俊彦さん(高千穂神社宮司)、葛城奈海さん(ジャーナリスト)p54

 高千穂神社宮司・後藤俊彦氏とジャーナリスト・葛城奈海氏の対談「日本再生への祈り」は、現代に生きる私たちが失いかけている「日本人としての根幹」について、深く考えさせられる内容でした。

 戦後80年という節目を迎え、葛城氏は、いまの日本人が「大切なものを守るために戦う気概」を失ってしまったのではないかと憂慮しています。かつて神武天皇が掲げられた「八紘為宇(はっこういちな)」という建国の理念は、好戦的なスローガンではなく、「すべての人々が一軒の家の中に住むように仲良く暮らしていこう」という素晴らしいものでした。しかし、戦後の教育によって、この精神は誤解されたままです。
 後藤氏も、戦争はなぜ起きたのか、どうすれば防げたのかという本質的な議論が欠落し、ただ「戦争は悲惨だ」という表面的な議論に留まっている現状を指摘します。

 GHQの占領政策は、日本の「軍事的な武装解除」と同時に、「精神的な武装解除」を徹底的に行いました。後藤氏によれば、その目的は「二度と日本が欧米に逆らわないようにする」ことであり、特に日本の歴史、神話、古典の教育を禁止し、ご皇室と神道の弱体化を図ったのです。葛城氏は、現代の若者がアイデンティティを見失いやすい背景には、こうした教育によって日本人としての「根っこ」を失い、誇りを持てなくなってしまったことが重大な背景にあると述べています。

 両氏は、神話の重要性を強調します。後藤氏が子供たちに神話を語り聞かせた際、彼らの目がキラキラと輝いたエピソードは、理屈抜きに神話が日本人のDNAに刻まれていることを示しています。イギリスの歴史学者トインビーの「神話を失った国は滅びる」という言葉通り、民族の魂の原点に触れなければ、人は「根無し草」のように、様々な思想に左右されてしまいます。
 葛城氏は、戦中の国語教科書が神話で始まっていたことに触れ、そこには日本人にとって本来大切だったお祭りや神社、共同体といった要素が詰まっていたと語ります。戦後、それらが「墨塗りの教科書」で消されたのは、GHQがご皇室を中心とした日本人の強い団結力を恐れたからにほかなりません。

 一方で、日本の「神道」には、世界を救う可能性が秘められていると両氏は語ります。後藤氏は、神道はキリスト教のような一神教とは異なり、天地自然の中から神も人も生まれたという考え方であり、自然と一体であると説明します。災害時に宗教を問わず協力し合ってきた共同体の在り方こそが神道の起こりであり、その包容力は、トインビーが伊勢神宮を評した「諸宗教の根源を為すもの」という言葉に象徴されます。葛城氏も、神道の多元的価値を受け入れ調和を尊ぶ精神こそが、現代の戦争や環境問題を解決に導く鍵であり、日本人にはその使命があると訴えます。

 また、対談では「柱」という言葉が印象的に使われました。葛城氏は、人気アニメ『鬼滅の刃』で最強の剣士が「柱」と呼ばれることに触れ、神を「ひと柱」と数える日本古来の感覚との繋がりを指摘します。さらに、宮大工から「柱(木に主)」の「主」は神様だと教わった経験を語り、かつての日本家屋には大黒柱や神棚、仏壇があり、家が先祖や地域社会と繋がる神聖な場であったことを振り返ります。後藤氏は、伊勢神宮の「心御柱(しんのみはしら)」や五重塔の構造にも見られるように、「柱」は日本文化の中心的な概念であると述べ、戦後のマンション建築などが、そうした日本の家族制度や共同体を意図的に破壊するものであった可能性を指摘します。

 日本の「大黒柱」とは何か。両氏は、それは「天皇陛下」であると一致します。葛城氏は、天皇陛下が日々国民の幸せを祈る「四方拝」や、仁徳天皇の「かまどの煙」の逸話、皇居勤労奉仕で体験した民への配p慮と民からの尊敬という「君民一体」の姿を紹介します。後藤氏は、昭和天皇が敗戦時、マッカーサーに対し「自分の身はどうなってもいい。国民を救ってほしい」と伝え、後にマッカーサーが「日本の民主主義をつくったのは天皇陛下だ」と語った逸話を引き、天皇と国民が一体であった日本の国柄を強調します。

 最後に、日本の国体を守るために、後藤氏は「武士道の復活」を提言します。それは侍だけのものではなく、一般の人々も持っていた「人の道」であり、古典や歴史教育を通じて先人の精神性を学ぶことが重要だと述べます。葛城氏は、ペリリュー島で日本軍が島民を守るために戦った歴史や、拉致被害者が放置されている現状に触れ、先人たちが命を懸けて守った「大和魂」をいま一度取り戻し、平時においても特攻精神を堅持して国のために尽くす覚悟が必要だと強く訴えました。

 いまの日本を見て、先人たちは何を思うでしょうか。神話や古典を通じて正しい歴史を学び、日本人としての誇りを取り戻すこと。それが、先人たちに無念の涙を流させない国づくりに繋がるのだと、対談は強く訴えかけているように感じました。

人事視点で考える「企業の心の背骨」

 この対談は、国家観や歴史観にとどまらず、現代の企業組織運営においても極めて重要な示唆を与えてくれます。企業の人事担当者として、私はこの記事を「組織のアイデンティティと共同体意識の構築」という観点で読み解きました。

 対談で指摘された「神話を失い、根無し草になった」状態は、企業における「理念やパーパス(存在意義)の形骸化」と全く同じです。GHQが歴史教育を禁止して日本人の精神を弱体化させようとしたように、もし企業が自社の「創業の精神」や「歴史(社史)」、「経営理念」を社員に語り継ぐことを怠れば、社員は「何のためにこの会社にいるのか」という根っこを見失い、目先の利益や個人の都合に左右される「根無し草」の集団となってしまいます。

 まさにこの「企業の神話」を語り継ぎ、社員のDNAに刻みたいところです。理念やパーパスを、ただの「お題目」ではなく、日々の業務や意思決定に結びつく「心の背骨」として機能させること。それがインナーブランディングの核であり、組織エンゲージメントの源泉です。

 また、「柱」の概念も、組織論に直結します。企業において「柱」とは、経営理念を深く理解し、体現し、組織のために自己の能力を最大限発揮できる人材のことでしょう。人事は、こうした「柱」となる人材を見出し、育成し、正しく評価する仕組みを構築する責任があります。

 そして、神道の「包容力」や「お祭り」に象徴される共同体意識。現代の企業は、ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)を推進しますが、それは単に多様な人材を集めることではありません。神道が多様な神々や人々を包摂するように、企業も多様なバックグラウンドを持つ社員が「理念」という一つの「八紘為宇」のもとに集い、協力し合える「共同体」であるべきでしょう。

 目先の業績や効率化だけを追うのではなく、自社の「歴史」と「理念」という「心の背骨」を社員と共有し続けること。それが、変化の激しい時代においても揺らがない、強い組織をつくる人事の最も重要な使命であると、本対談から改めて痛感させられました。


節を越え、人も会社も成長する 小路明善さん(アサヒグループホールディングス会長)、渡邊直人さん(王将フードサービス社長)p64

 アサヒグループホールディングスの小路明善会長と、王将フードサービスの渡邊直人社長。お二人は、渡邊氏が「師と仰ぐ」と公言するほど深い信頼関係で結ばれています。出会いは2011年、アサヒビールと餃子の王将の懇親会でした。当時社長に就任されたばかりの小路氏に対し、渡邊氏は「おっかなそうな人」という第一印象を抱きつつも、勇気を出して話しかけたと言います。
 一方、小路氏は、全飲料をアサヒグループ製品で揃える王将の取り組みに驚き、当時から実質トップとして指揮を執っていた渡邊氏に「その秘訣を聞きたい」と強く思っていたそうです。小路氏は渡邊氏を「やさしくて怖い人」と評し、その言葉の端々に熾烈な外食産業を率いる並々ならぬ覚悟を感じ取りました。

 お二人の関係を決定づけたのは、2013年に王将フードサービスの前社長が凶弾に倒れた、あの痛ましい事件でした。渡邊氏が緊急取締役会で社長を拝命し、人生で最も辛い一日を過ごした翌日、真っ先に京都の本社へ駆けつけたのが小路氏でした。
 小路氏は「アサヒビールはどんなことがあっても、いままで通り御社と渡邊さんに寄り添わせていただきます」と伝えました。商売上の取引を超えた「寄り添う」という人間味あふれる言葉に、渡邊氏は心魂を揺さぶられ、涙が流れたと言います。小路氏は、この大事件の後に社長を継ぐ渡邊氏の胸中を思い、「生涯の友として一緒に歩んでいきたい」という気持ちが自然に湧き上がってきたと振り返ります。

 両氏の経営哲学には、それぞれの強烈な原体験が色濃く反映されています。渡邊氏の原点は、王将の創業者・加藤朝雄氏との出会いです。「餃子で世のため、人のために役立つことがしたい」と、初対面の学生に熱く夢を語る創業者の迸る情熱に心を揺さぶられ、「この人と一緒にやっていこう」と入社を決断しました。入社後はハードな環境で厳しく指導されましたが、その根底にある深い愛情が、現在の経営の糧となっています。

 対する小路氏の原点の一つは、アサヒビール入社後、28歳から10年間務めた労働組合の専従時代にあります。当時、会社は「夕日ビール」と揶揄されるほどの業績低迷期。社内は荒れ、賃上げ交渉ではイデオロギー闘争を仕掛けられるありさまでした。小路氏は『資本論』やプロレタリア文学まで読み漁り、自分なりの理論を構築して対等に議論できる関係を築きました。しかし、この時期に最も心に突き刺さったのが、約500人の「肩叩き(希望退職の勧奨)」を行った経験です。ある社員から言われた「残るも地獄、去るも地獄」との言葉は、小路氏に「二度とこんな事態を招いてはいけない。人を大切にする会社にしたい」と固く誓わせました。

 経営者に不可欠な「決断と覚悟」についても、両氏は若き日の経験を語ります。渡邊氏は20代で東京エリアを任された際、現場の確信から関西より高い値上げを提案。役員から猛反対されますが、創業者に「できへんかったら弁償します。ローンを組んででも払います」と直談判し、覚悟を見せました。結果は増収増益。小路氏は、この「覚悟」は若いうちから経営者意識を持って仕事に打ち込む中で培われるものだと指摘します。

 小路氏自身も、アサヒビール中興の祖・樋口廣太郎氏から多くを学びました。特に「スーパードライ」発売時、古いビールを全量廃棄するという前例のない決断を下した樋口氏の姿は強烈でした。当時、労組の書記長だった小路氏はコスト面から反対し、烈火のごとく叱責されます。しかし樋口氏は、住友銀行副頭取の職を辞してアサヒに来た「退路を断った」覚悟で莫大な投資を断行し、社員の一体感を生み出しました。また、労組と対立していた小路氏が復職する際にも「よかったな」と温かく迎え入れる「人を大事にする」姿勢にも深く感銘を受けたと言います。

 両氏のキャリアは順風満帆だったわけではありません。小路氏は、入社1年目での仙台異動、樋口氏に激怒された時、そして50歳で赤字のアサヒ飲料へ「片道切符」で転籍した時と、三度の挫折を経験しました。しかし、どの環境でも「骨を埋める」と覚悟を決め、目の前の仕事にベストを尽くしました。アサヒ飲料では自ら自販機子会社の社長となって現場を駆けずり回り、黒字化を達成。「行った先々で自分のベストを尽くす先に道が開けていく」と実感しています。
 渡邊氏も、入社当初は理不尽なイジメに遭い、何度も辞めようと思いました。しかし、「ここで辞めたら先輩に人生を変えられたことになる」と踏みとどまり、「自分が成長するために与えられた試練だ」と捉え直すことで道を切り開いてきました。

 渡邊氏は社長就任後、小路氏から「社員を大事にしなさい」「品質向上はゴールなきテーマ」という二つの助言を受けます。これを「世のため、人のため」の経営と肚落ちさせ、改革を断行。当時破格の1万円のベースアップや深夜営業の廃止で「社員の安心」を追求。同時に、コスト増を覚悟で主要食材の国産化を進め、国内農家の支援と「食の安全」を実現しました。小路氏はこれを「安全(サービス品質)」と「安心(社員のエンゲージメント)」を両立させる見事な経営だと称賛します。

 小路氏も、ホールディングス社長時代に「このままでは社員の未来を築けない」という危機感から、グローバル化という大きな挑戦に踏み切りました。「チャンスは貯金できない」という樋口氏の言葉を胸に、辞職覚悟で約2.4兆円の海外M&Aを推進。結果、海外売上比率を13%から50%超へと劇的に成長させました。この挑戦から、小路氏は「未来は待つものではなく、つくるもの」「期待を超えるものをつくることが肝心」だと学びました。

 最後に、両氏は「涙」と「成長」について触れます。渡邊氏は、経営の孤独に布団の中で涙した悲しみの涙と、株主総会で温かい言葉をかけられた感動の涙を経験し、「悔し涙で枕を濡らした時」に人は成長すると語ります。小路氏も、経営トップは人前では泣かず「心で泣く」ものとしながらも、労組時代に肩叩きをした辛い経験こそが「社員は会社の命」という経営の基になっていると明かします。「空振り三振を評価せよ。見逃し三振は評価しない」。失敗を恐れず挑戦し、悲哀の涙に向き合い乗り越えていくことこそが、人を強くなさせると、二人の経営者は静かに語り合いました。

人事としての活かし方

 このお二人の経営者の対話は、人事にとって深く胸に刻むべき示唆に満ちています。特に「人」をめぐる哲学と実践は、そのまま私たち人事パーソンのミッションステートメントになり得るものです。

 まず、「社員の安心が、顧客の安心を創る」という視点です。渡邊社長が断行したベースアップや労働環境改善は、単なる福利厚生ではなく、「社員を大事にする」という経営の覚悟の表明です。小路会長が指摘するように、社員が安心を感じ、会社を信頼してこそ良い人材が集まり、それが顧客の安心に繋がります。人事としては、目先のコストや効率性だけでなく、こうした「安心の連鎖」を生み出すための環境整備や制度設計を、経営の最重要課題として提案し続けたいところです。

 次に、「試練こそが人を育てる」という育成観です。小路会長の労組専従やアサヒ飲料への転籍、渡邊社長の若手時代の理不尽な環境。これらは一見「キャリアの挫折」ですが、お二人はそれを「人生の源流」「成長の糧」と捉え、ベストを尽くすことで乗り越え、経営者としての器を形成されました。人事は、社員のキャリアを画一的なエリートコースで測るのではなく、多様な経験、特に困難な環境での経験こそが人を強く、深くすることを理解し、そうした「空振り三振を恐れない」配置や挑戦を後押しする文化を醸成すべきです。

 最後に、「人を動かすのは『エゴ』のない大義である」という点です。渡邊社長が創業者の「世のため、人のため」という情熱に惹かれたように、また小路会長が「社員の未来」のためにグローバル化を決断したように、人を本気で動かすのは、個人の成功(エゴ)を超えたパーパスです。
 人事としては、自社のパーパスや理念を、ただの「お題目」に終わらせず、採用、評価、育成といった人事のあらゆるプロセスに組み込み、社員一人ひとりが「何のために働くのか」を実感できる仕組みを構築することが、これからの時代、最も重要な役割となると思います。



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