【書籍】信頼を築くコミュニケーションと対話:風通しの良い組織へー青谷洋治氏
『1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』(致知出版社、2020年)のp397「12月20日:倒産危機に聞こえてきた母の声(青谷洋治 坂東太郎社長)」を取り上げたいと思います。
青谷氏が掲げる「親孝行・人間大好き」という温かな経営理念には、彼の人生経験、特に若き日に亡くした母への深い思いが色濃く反映されています。その背景には、幾多の困難を乗り越えてきた壮絶な道のりがありました。
青谷氏は農家の生まれでしたが、物心ついた頃、具体的には小学校時代から漠然と「社長になりたい」という夢を抱いていました。しかし、その夢への道は平坦ではありませんでした。高校進学を目前にした15歳の時、かねてから病気がちだった最愛の母がこの世を去り、さらに追い打ちをかけるように、父までもが病に倒れてしまったのです。一家の大黒柱を相次いで失った家庭環境は、とても「高校へ行きたい」などと言い出せる状況ではありませんでした。青谷氏は進学を断念し、姉と共に家業である農業を継ぐことになります。
昼間は慣れない農作業に汗を流す日々。それでも、心の奥底で燃え続ける「社長になりたい」という夢の灯火を消すことはできませんでした。青谷氏は、農業の傍ら、夜間の時間を使って飲食店での修業を始めます。いつか自分の店を持つ日を夢見て、食の世界で経験を積もうと考えたのです。
しかし、昼夜を問わず働き続ける生活は、若い彼の身体を確実に蝕んでいきました。無理が祟り、ついに体を壊して寝込んでしまった青谷氏。そんな彼の枕元に、当時高校二年生だった妹さんがやってきて、衝撃的な言葉を告げます。「私、きょう学校やめてきた。このままじゃ家庭が壊れちゃうよ。私が農家をやるから、兄貴は夜やっている仕事を昼間もやってよ」。
教師になるという自分の夢を諦め、家族のために高校中退を決断した妹さんの悲痛なまでの覚悟。その言葉は、青谷氏の胸に深く突き刺さりました。「何があっても、自分は夢を実現しなければならない」。妹の犠牲を無駄にはできない、その思いが彼の決意を一層固いものにしました。
「人が三年でやることを一年で覚える」。そう心に誓った青谷氏は、猛烈な勢いで飲食業のノウハウを吸収し、わずか三年数か月という異例の速さで独立への道を切り開きます。
しかし、次なる壁は資金でした。独立を決意したものの、店を開くための資金がない。銀行に融資を頼みに行っても、まだ二十四歳という若さでは信用の壁は厚く、門前払いに近い扱いを受けます。それでも諦めきれない青谷氏は、何度も何度も銀行に足を運び、自身の熱意を訴え続けました。
そして、実に11回目の訪問にして、ようやく700万円の融資を取り付けることに成功します。この貴重な資金を元手に、昭和50(1975)年、念願だった自身の店「ばんどう太郎」の第一号店をオープンさせることができたのです。
順調に事業を拡大していくかに見えた矢先、バブル経済の崩壊という時代の荒波が坂東太郎にも押し寄せ、会社は深刻な倒産危機に瀕します。青谷氏は、朝から晩まで文字通り身を粉にして働き続け、苦境を乗り越えようと必死にもがきました。そして、夜になると、亡き母の墓前に通い、ただひたすらに祈りを捧げる日々を送ります。「どうか、この危機を乗り越えさせてください」。三か月ほど祈り続けたある夜、ふっと、まるで母がすぐそばで語りかけるかのような、温かい声が聞こえた気がしたのです。「働いている人を大切にするんだよ。そうすれば人は辞めていかないよ」。
その声は、青谷氏に自身の経営姿勢を深く省みるきっかけを与えました。自分では従業員の幸せを考えているつもりだった。しかし、それは本当の意味で、心の底から彼らの幸せを願うものではなかったのかもしれない。そう痛感した青谷氏は、すぐに行動を起こします。三日後、全店舗を休業するという異例の決断を下し、すべての社員を一つの会場に集めました。そして、壇上に立った青谷氏は、社員一人ひとりの顔を見ながら、深々と頭を下げて謝罪したのです。「これまで、一所懸命みんなの幸せを考えてきたつもりだったけれど、まだ本気ではなかったのかもしれない。これからは、皆さんと膝を交えて、じっくりと話を聞きながら、一緒にこの会社を経営させてもらいたい」。
この真摯な謝罪と対話への呼びかけは、従業員たちの心を動かしました。そして、この日の集会が大きな転換点となり、後に年に四回、社長と社員が直接意見交換を行う「社長塾」へと発展していくことになります。青谷氏は、労務面での問題も抱え、まさに倒産寸前という最大のピンチを経験しましたが、その苦難があったからこそ、「働いてくれている人たちの幸せを本気で考える」という、経営者として最も大切にすべき原点に立ち返ることができた、と述懐しています。母の声に導かれ、従業員との絆を深めることで危機を乗り越えた経験は、現在の坂東太郎の礎となっているのです。
「一所懸命みんなの幸せを考えてきたつもりだったけど、まだ本気ではなかったのかもしれない。これからは膝を交えてみんなの話を聞きながら、経営をさせてもらいたい」この時の会がきっかけとなって、それ以後年に四回、社員と意見交換を行う社長塾へと発展していきました。ですから私も労務倒産しかけた時が一番のピンチでしたが、それによって「働いてくれている人たちの幸せを本気で考える」という経営の原点を教えてもらったと思っています。
人事の視点から考える
青谷氏の貴重な体験談を深く考察すると、日々の業務や組織戦略を考える上で、数多くの実践的な示唆と、改めて向き合うべき本質的な課題が見えてまいります。単なる美談として受け止めるのではなく、自社の状況に照らし合わせ、具体的なアクションに繋げるためのヒントとして捉えたいと考えます。
1. 経営理念の浸透と「自分ごと化」:組織文化の核をどう築くか
まず、「親孝行・人間大好き」という経営理念が、社長ご自身の原体験、とりわけ15歳という若さで亡くされたお母様への強い思慕から生まれたという背景は、理念に揺るぎない魂を吹き込んでいます。人事担当者として痛感するのは、多くの企業で掲げられる経営理念が、往々にして壁に飾られた額の中の言葉、あるいは朝礼で唱和されるだけの形式的なものに陥ってしまうリスクです。理念が従業員の心に響き、日々の行動指針として「自分ごと化」されなければ、組織文化の核とはなり得ません。
青谷社長のストーリーは、トップ自身の経験や思いを率直に語ることの重要性を示唆しています。これにより、理念は抽象的な概念から、共感を伴う具体的な物語へと昇華します。
自社の理念が生まれた背景や、それに込められた経営陣の思いを、多様なチャネルを通じて丁寧に伝え続ける努力が不可欠です。それは、社内報の記事かもしれませんし、入社時研修での社長メッセージかもしれません。さらに進んで、理念を体現している社員のエピソードを発掘し、社内で共有することも有効でしょう。「あの人のあの行動こそ、我が社の理念の実践だ」と誰もが認識できるようになれば、理念はより身近なものとなります。
加えて、理念を行動レベルに落とし込み、評価制度と連動させることも考慮したいところです。例えば、目標設定の際に理念に基づいた行動目標を加える、あるいは理念に沿った行動を称賛し、インセンティブを与えるといった仕組みです。ただし、これが形骸化したり、逆に従業員を縛るものになったりしないよう、慎重な制度設計と運用が求められます。人事としては、理念が現場でどのように受け止められ、実践されているのか、あるいは乖離が生じていないかを、従業員サーベイや個別面談を通じて定期的にモニタリングし、必要に応じて軌道修正を図る役割があるでしょう。
2. 従業員エンゲージメントの本質:「大切にする」ことの多角的アプローチ
倒産危機という極限状況で得た「働いている人を大切にするんだよ」という母からの(ように感じた)メッセージは、従業員エンゲージメントの本質を突いています。人事の立場から見ると、「従業員を大切にする」という言葉は非常に広範な意味を持ちます。それは、競争力のある給与や充実した福利厚生といった経済的な側面に留まりません。むしろ、精神的な報酬、すなわち、仕事への誇り、成長実感、良好な人間関係、会社への貢献感、そして経営層や上司からの承認や感謝といった要素が、エンゲージメントを高める上でより重要になるケースも少なくありません。
青谷社長が全社員の前で謝罪し、「膝を交えて話を聞く」姿勢を示したことは、従業員が「自分たちは尊重され、意見を聞いてもらえる存在なのだ」と感じる上で、何よりのメッセージとなったはずです。人事としては、この「大切にされている」という実感、すなわちポジティブなエンプロイー・エクスペリエンス(従業員体験)を、従業員が組織と関わるあらゆる場面で提供できるよう、継続的に見直しと改善を図る必要があります。
具体的な施策としては、まず、従業員一人ひとりの声に耳を傾ける機会の充実が挙げられます。定期的な1on1ミーティング、キャリア開発面談、あるいは匿名性を担保した意見箱やエンゲージメントサーベイなどが考えられます。重要なのは、集めた声に対して真摯に向き合い、可能な範囲で具体的な改善アクションに繋げ、そのプロセスと結果をフィードバックすることです。「言っても無駄」という諦めを生じさせないことが肝要です。
さらに、従業員の成長支援(研修機会の提供、資格取得支援、挑戦的な業務のアサイン)、多様な働き方を支援する制度(リモートワーク、フレックスタイム、時短勤務)、心身の健康を守る取り組み(メンタルヘルスケア、健康増進プログラム)、そして社内のコミュニケーションを活性化させる施策(部門を超えた交流イベント、社内サークル活動支援)など、多角的なアプローチが求められます。これらの施策が、自社の従業員のニーズに合致しているか、そして実際にエンゲージメント向上に寄与しているかを、データに基づいて効果測定し、改善を繰り返すPDCAサイクルを回していくことが重要でしょう。
3. コミュニケーションと信頼関係の構築:風通しの良い組織を目指して
「社長塾」の設立は、経営トップと従業員の直接対話がいかに重要であるかを示しています。このような場は、経営層のビジョンや考えを直接伝えることで従業員の理解と納得感を深めると同時に、現場の意見や課題を経営層が直接吸い上げる貴重な機会となります。これにより、組織内の情報の非対称性が緩和され、相互理解が深まり、結果として信頼関係が強化されます。これは、従業員が安心して意見を言える「心理的安全性」の高い組織文化を醸成する上でも極めて有効です。
このような対話の場が単なるガス抜きや形式的なイベントに終わらないよう、その設計と運営に細心の注意を払う必要があります。例えば、開催前にアジェンダを明確にし、従業員から事前に意見や質問を募ることで、より建設的な議論を促すことができます。当日は、誰もが気兼ねなく発言できるような雰囲気作り(ファシリテーション)が重要です。そして最も大切なのは、対話の場で出た意見や提案に対して、経営層がどのように受け止め、今後の経営にどのように反映していくのかを、誠実に、そして具体的にフィードバックすることです。約束したアクションは必ず実行し、その進捗を報告することで、対話への信頼性が高まります。
もちろん、トップとの対話だけでなく、組織内のあらゆる階層におけるコミュニケーションの質を高めることも不可欠です。特に、直属の上司と部下の間での日常的なコミュニケーション(1on1ミーティングの質の向上、フィードバック文化の醸成など)を支援するためのマネージャー研修や、情報共有の透明性を高めるための社内ポータルサイトの活用なども、人事として推進すべき重要な取り組みです。
4. 危機時における人事の役割と組織レジリエンス:困難を乗り越える力を育む
倒産危機という未曾有の困難に直面した際、社長が取った行動(従業員への謝罪と対話)は、組織の結束力を高め、危機を乗り越える原動力となりました。これは、危機時における人事の役割の重要性を浮き彫りにします。経営危機、大規模な組織変更、あるいは自然災害など、組織が困難な状況に陥った際、従業員は大きな不安や動揺、時には不信感を抱きます。このような状況下で、人事は従業員の心理状態に寄り添いながら、組織の安定と再生に向けて多方面から尽力する必要があります。
具体的には、まず、正確かつ迅速な情報伝達が不可欠です。不確実な情報やデマが飛び交うことを防ぎ、従業員の不安を最小限に抑えるよう努めます。経営層からのメッセージ発信をサポートし、その内容が誠実で、従業員の心情に配慮したものになるよう助言することも重要です。また、雇用に関する不安に対しては、会社の状況と方針を正直に説明し、可能な限りの雇用維持努力を示すとともに、必要に応じて再就職支援などのセーフティネットを用意することも検討します。従業員からの相談を受け付ける窓口を設置し、精神的なサポートを提供することも忘れないようにしたいところです。
さらに、危機は組織のあり方を見つめ直し、より強くしなやかな組織(レジリエントな組織)へと変革する機会でもあります。人事としては、危機を乗り越えた経験から得られた教訓を組織全体で共有し、今後のリスクマネジメント体制や事業継続計画(BCP)の改善に活かすプロセスを主導します。また、平時から変化への対応力や多様なスキルを持つ人材を育成し、部門間の連携を強化しておくこと、そして何よりも、困難な状況でも互いに支え合えるような信頼関係と相互扶助の文化を醸成しておくことが、真の組織レジリエンスに繋がります。
5. 採用と育成における価値観のマッチング:組織の未来を創る人を選ぶ
青谷社長自身の若い頃の苦労や、妹さんの自己犠牲といったエピソードは、単に感動的な話というだけでなく、どのような人材が組織にとって真に価値があるのかを考えさせます。それは、困難な状況に直面しても粘り強く努力できる力(グリット)、目標達成への強い意志、そして他者への貢献意欲や協調性といった資質です。採用活動において、学歴や職務経歴、専門スキルといった目に見える要素だけでなく、こうした人間性や、自社の経営理念・価値観への共感度を見極めることの重要性を再認識させられます。
採用ミスマッチは、早期離職による採用・育成コストの損失だけでなく、チームの士気低下や生産性の悪化など、組織全体に負の影響を及ぼします。これを防ぐためには、採用プロセスの各段階で価値観のマッチングを意識する必要があります。
まず、自社が大切にする価値観や求める人物像を明確に定義し、それを採用広報活動を通じて具体的に発信します。面接においては、過去の行動事例から応募者のコンピテンシー(行動特性)や価値観を探る質問(「困難な状況をどのように乗り越えましたか?」「チームで成果を出すために、あなたはどのような貢献をしましたか?」など)を効果的に用います。可能であれば、現場の社員との面談機会を設け、応募者が実際の社風や働く人々の雰囲気に触れる機会を提供することも有効です。
そして、採用はゴールではなくスタートです。入社後のオンボーディング(受け入れ・定着支援)プロセスにおいても、改めて自社の理念や価値観を伝え、組織文化への適応をサポートすることが重要です。育成段階においても、リーダーシップ研修やチームビルディング研修などを通じて、組織として大切にする価値観を共有し、浸透させていく取り組みが求められます。
まとめ
青谷社長の体験談は、企業経営と人事戦略において、「人」こそが最も重要な資産であり、その「人の心」にいかに寄り添い、その力を最大限に引き出すかが成功の鍵であることを、力強く示しています。私たち人事担当者は、制度や仕組みを設計・運用するだけでなく、経営層と従業員の間に立ち、時には触媒となり、時には潤滑油となりながら、血の通った、温かい組織を創り上げていくという使命を、改めて胸に刻む必要があると感じています。それは決して容易な道ではありませんが、この体験談が示すように、真摯な姿勢で従業員と向き合い続ける先にこそ、持続的な組織の成長があると思ったところです。

従業員に対して深々と頭を下げ、真摯に謝罪と決意を示す場面を表現しています。広々とした現代的な会議ホールで、経営者が従業員たちに誠意をもって語りかける姿はとても印象的です。
従業員たちが注視する様子や、表情に現れる驚きや共感は、真剣な対話への期待と信頼の再構築を象徴しています。
このような光景は、言葉だけではなく行動で示すリーダーシップの力を感じさせるものです。特に、危機的状況であっても真摯に向き合い、従業員の声を大切にすることが組織の再生と成長に繋がるというメッセージが強く伝わってきます。
1日1話、読めば思わず目頭が熱くなる感動ストーリーが、365篇収録されています。仕事にはもちろんですが、人生にもいろいろな気づきを与えてくれます。素晴らしい書籍です。
