「HRは収益部門である」—投資家の視点から学ぶ、企業価値を高める人的資本経営の実践ー日経ビジネス記事からの考察
日経ビジネス記事「レオス藤野氏×市川祐子氏「人的投資ができない会社は淘汰される」(2025年10月7日公開)を拝読しました。
本記事は、ファンド「ひふみ」シリーズを運用するレオス・キャピタルワークスの藤野英人氏と、企業IRコンサルタントの市川祐子氏の対談形式で、投資家が企業の「人への投資」をどう見ているかを掘り下げています。
藤野氏は、自身の運用哲学が「10年先の未来をつくる」という長期的な視点に基づいていると語ります。短期的な業績よりも、企業が持続的に成長できるかを重視しており、その根幹をなすのが「人的資本」であると指摘します。
「人は財なり」—企業価値を左右する人的投資
日本の株式市場で問題視されている「PBR(株価純資産倍率)1倍割れ」の企業が多い現状について、藤野氏は「人こそが長期的にお金を生み出す力であることへの認識の差の現れ」だと分析します。物的資産の価値よりも時価総額が低いということは、マーケットから「資産を生かして稼ぐ力がない」、すなわち働く「人」の付加価値が低く評価されている状態を意味します。かつて「人はコスト」という見方が主流でしたが、少子高齢化による労働力不足が深刻化する現代において、その考え方は企業の存続すら危うくします。これからは賃上げや教育投資といった「人への投資」を的確に行える企業だけが競争に勝ち残り、そうでない企業は「人手不足倒産」に陥る可能性があると警鐘を鳴らしています。
投資家が見る「人への姿勢」と情報開示の重要性
藤野氏は、投資先を選別する際、定量データだけでなく、企業文化や従業員の雰囲気といった定性的な情報も重視します。企業訪問時にすれ違う従業員の挨拶や表情、企業のホームページに実際の社員が生き生きと登場しているかなど、細やかな点から「人」を大切にする姿勢を読み取ると言います。特に、ゴールドマン・サックスの事例を挙げ、ハラスメントへの厳格な対応や、採用・育成の費用対効果をデータで示し「HR(人事)は収益部門だ」と断言する文化を称賛。これは、心理的安全性の確保と人材への投資が、直接的に企業の利益に繋がるという思想の表れです。
また、人的資本の情報開示については、SHIFT社や日本瓦斯社の事例を紹介。単にデータを並べるだけでなく、自社の課題(例:退職率)を正直に開示し、その改善に向けたストーリーを示すことの重要性を説きます。投資家は完成された姿だけでなく、課題を認識し、変わろうとしている「伸びしろ」にこそ投資妙味を感じるのです。人事部門は、もはや管理部門(コストセンター)ではなく、企業の未来を創る「収益部門」であるという気概を持ち、投資家と対話していくべきだと結論づけていました。

企業人事の視点から、内容をどう活かすか
この記事は、投資家がどれほど深く「人」と「組織」に関心を持ち、それが企業価値評価に直結しているかを改めて認識させてくれる、人事担当者にとって非常に示唆に富む内容です。私自身、企業人事として、この対談から得られた視点を日々の業務や経営への提言に活かしていきたいと考えます。具体的には、以下の4つの視点から考察を深め、アクションに繋げることができます。
1. 「HRは収益部門」という意識改革と実践
藤野氏が紹介したゴールドマン・サックスの「HRは収益部門だ」という言葉は、私たち人事担当者が胸に刻むべきマインドセットです。これまで人事部門は、給与計算や労務管理、社会保険手続きといったオペレーショナルな業務が多く、「コストセンター」と見なされがちでした。しかし、本記事が示すように、人材の採用、育成、定着、そしてエンゲージmentの向上は、企業の持続的成長を支える根幹であり、直接的に収益を生み出すドライバーです。
この意識を実践に移すためには、人事施策のROI(投資対効果)を可視化し、経営層や事業部門に説明することが不可欠です。例えば、新入社員のオンボーディング研修にかかる費用に対し、研修を実施した場合としなかった場合の1年後、3年後の離職率を比較・分析します。離職率の低下が採用コストや再教育コストの削減にどれだけ貢献したかを具体的な金額で示すことができれば、研修は単なる「コスト」ではなく、将来の損失を防ぎ、生産性を高める「投資」として認識されるようになります。
同様に、エンゲージメントサーベイの結果と、ハイパフォーマーの生産性や部署の業績との相関関係を分析することも有効です。エンゲージメントスコアが1ポイント向上すると、生産性が何%向上し、売上にいくらのインパクトがあるのか。こうしたデータドリブンなアプローチによって、人事部門は「感覚」ではなく「事実」に基づき、経営の意思決定に貢献する戦略的なパートナーへと変貌できるのです。
2. 投資家を惹きつける「ストーリー」としての人的資本開示
2023年3月期から有価証券報告書での人的資本情報の開示が義務化されましたが、「義務だからとりあえず開示する」という姿勢では、投資家の心には響きません。本記事で紹介されているSHIFT社や日本瓦斯社の事例は、開示とは単なるデータ報告ではなく、自社の未来を語る「ストーリーテリング」の機会であることを教えてくれます。
人事が主導すべきは、自社の経営戦略と人材戦略を一本の線で結びつけ、そこに説得力のある物語を描くことです。例えば、SHIFT社が退職率というネガティブな情報さえも包み隠さず、その原因分析と対策、そして改善結果をセットで開示したように、自社の「弱み」や「課題」を正直に認め、それに対してどう向き合い、乗り越えようとしているのかを示すことで、むしろ誠実さと未来へのポテンシャルを伝えることができます。
私たち人事担当者は、IR部門と緊密に連携する必要があります。自社が抱える人材面の課題(例えば、次世代リーダーの不足、特定のスキルを持つ人材の枯渇、多様性の欠如など)を特定し、その課題を解決するためにどのような育成プログラム、採用戦略、制度改定を行っているのか。そして、その施策が3年後、5年後にどのような組織の姿を実現し、ひいては事業成長にどう貢献するのか。この「As-Is(現状)」から「To-Be(あるべき姿)」への変革の道のりを、具体的なKPI(重要業績評価指標)と共に示すことが、投資家が求める「伸びしろ」を感じさせる開示に繋がります。
3. 採用ブランディングにおける「社員の顔」の重要性
藤野氏が「企業のホームページに現役社員の顔がまったく出てこないのは考えられない」と述べた点は、採用活動の在り方にも大きなヒントを与えてくれます。求職者、特に優秀な人材ほど、給与や待遇といった条件面だけでなく、その企業で働く「人」や「カルチャー」を重視します。プロのモデルが握手しているようなフリー素材の写真では、企業のリアルな魅力は何も伝わりません。
自社の社員こそが最高の採用広報担当者であると認識し、彼らが自社の魅力を語る場を積極的に創出していくべきです。採用サイトやオウンドメディア、SNSなどで、様々な部署、役職、年齢、バックグラウンドを持つ社員のインタビュー記事や動画コンテンツを発信することは、非常に効果的です。成功体験だけでなく、仕事の難しさや乗り越えた壁、チームとの協力体制など、リアルな働き方が見えることで、求職者は自身がその組織で働く姿を具体的にイメージできます。
これは、藤野氏が指摘する「多様性」を示す上でも重要です。女性管理職比率といった数値を公表するだけでなく、実際に活躍している多様な社員の姿を見せることで、ダイバーシティ&インクルージョンが単なるスローガンではなく、企業文化として根付いていることを証明できるのです。企業の「顔」である社員一人ひとりのストーリーを丁寧に紡ぎ、発信していくことが、これからの採用競争力を大きく左右します。
4. 企業文化の礎となる「心理的安全性」の徹底
「廊下ですれ違った従業員の方が、来客に会釈もせず、プイッと顔を背ける」という藤野氏の体験談は、些細なことのように見えて、企業文化の本質を鋭く突いています。従業員が安心して、前向きな気持ちで働けていない組織では、そうした小さな綻びが随所に現れ、最終的には顧客満足度の低下や業績の悪化に繋がります。いわゆる「コックローチの法則」です。
ゴールドマン・サックスが、どれだけ稼ぐ社員であってもハラスメントに対しては即解雇という厳しい姿勢を貫いているのは、心理的安全性が確保されて初めて、社員は最大限のパフォーマンスを発揮できることを理解しているからです。私たち人事部門は、ハラスメント防止研修の実施や相談窓口の設置といった形式的な対応に留まらず、問題が起きた際に役職や実績に関わらず公正かつ厳格な対応がなされるという信頼を組織内に醸成する責任があります。
従業員が上司や同僚からの不当な言動を恐れることなく、自由に意見を述べ、挑戦できる。失敗しても非難されるのではなく、そこから学ぶことが奨励される。そうした心理的安全性の高い文化を築くことこそ、社員のエンゲージメントと定着率を高め、イノベーションを生み出す土壌となります。そして、その健全な組織文化は、自然と従業員の明るい表情や前向きな言動となって表れ、藤野氏のような投資家や、顧客、そして未来の仲間となる求職者にも伝わっていくはずです。人事として、この見えざる、しかし最も重要な資本である「企業文化」の醸成に全力を注ぐべきだと、本記事を通じて改めて強く感じたところです。

