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街から去り、書を拾う

今年の北海道の夏は、身構えていたほど暑さが来なかった。と油断していたら盆明けからにわかに熱い。

とはいえ天気予報を見る限りは今日がピークになりそうだ。

これから雨が増えて、気温がだんだんと下がっていく。

覚悟には「やらない覚悟」もある

日曜日のコーチャンフォー・ミュンヘン大橋店に行く理由はいくつかある。

家から程よく遠く、ちょっと体を動かしたつもりになる場所に、大きな本屋があるという魅力。

雑貨・文房具フロアも充実している。

ミスドがある。巨大な本屋とドーナツとコーヒー。これ以上の組み合わせがあるだろうか。

組み合わせに成功しすぎて、休日は長蛇の列になって席が埋まってしまう。

書籍フロアを歩いていたら、自己啓発コーナーでは「覚悟」っていう文字が目についた。

手には取らなかった。私には覚悟があるからだ。

知りたいことを深める覚悟は、「知っておいたほうがいいかもしれない」というレベルの好奇心を断捨離することにもつながる。

幅広い教養を持った人、博覧強記、文武両道、才色兼備、そういった美徳もある。

でもAに取り組んでいる時間にBをやることはできない。トレードオフだ。


読書好きって言葉、範囲広すぎ問題

サウンドスケープの提唱者、R・マリー・シェーファーの「世界の調律 サウンドスケープとはなにか」を読み終わった。

買ったのは去年の暮れで、サウンドスケープについて考えた小説を書きあげた後だった。

本気で読み終えようと思ってから2~3週間かかった。

「サウンドスケープとはズバリこれだ」と書いてあるわけではなくて、全ページにわたって「音の風景を捉えるための様々な切り口や測定・記録方法」が延々と書いてあるから、読み通して概念を掴む系の本なのだ。

常にこのボリュームの本を読んでいるわけではないけど、このペースで行くと、年間の読書量は100冊にはとても及ばない。

たまに年間〇百冊読書してます、っていう人を見かける。

読んでる本の種類まで公開してほしい。

どちらがすごいかっていうことではなくて、私の読書とあの人の読書を、切り分ける言語がいまだに発達してないのはどういうことか。


テキストを残すという行為と、認められたい欲望

北海道新聞文学賞にまつわる読書、というよりは勉強で、文芸評論家の川村湊氏の著作を読んでいる。

創作・評論部門審査員の他の3名は作家だけれど、川村湊氏は立ち位置が違う。

著作には、『村上春樹をどう読むか』(作品社、2006年)、『村上春樹はノーベル賞をとれるのか?』(光文社新書、2016年)などの論評もある。

村上春樹の功績と共に、どこかすんなりとは心の置き所を見つけにくい感覚を解き明かしてくれてるのだろうか。期待が高まるが、テーマがはっきりしてるぶん、デザート的に読むのでもいいかなぁと思い、他の、カロリーが高そうな本から読んでいる。

川村湊氏は、朝鮮文学や在日文学、詩人である左川ちかに関する書籍など、文芸界において評価が難しい作者・作品群に光を当てている。(再評価をするためには作品数が少なかったり発展途上だったり、歴史・文学史上の文脈整理が必要という意味で、評価が難しい、と今のところ位置づけている)

引きにくい境界線を見つけ出して、文芸の世界の地図を書き込んで行くような緻密さ、ときに空白地帯を埋めるような仮説や直感を駆使するさまにダイナミズムを感じ、川村湊氏の面白さを見出している。

その中でも「黒い水/穀雨 河林満作品集」を異色に感じた。河林満著、川村湊編集。インパクト出版から2021年に発売。

河林満氏は2008年に57歳で病没している。

今日いろいろと調べてみたら、河林氏の「渇水」は2023年に映画化もされたのだそう。

作家の死後に評価が高まるのはたびたびあるのかもしれないが、「河林満作品集」の解説や、あとがきで川村湊氏の距離感を伺うと、創ることと、評価されることには、作家自身、ある程度の折り合いをつけていたほうが長く書き続けられるのだろうな、と思った。

長く書くということは、承認欲求を作品を駆動する欲望から、作品の中で観察される対象にしていく、ということだと思う。

「評価されたい」より「作品を良くしたい」に重心を変えていく局面があるということだ。

川村湊氏の視点では、河林氏の作品はまだまだ磨いたり深めたりする必要があったということだろう。それよりも文学界への人脈づくりにエネルギーを割いてしまっている印象が強かったらしい。

川村氏の見解では、文芸雑誌の新人賞をとったあたりでは、作家としてのパスポートを得たことにさえならない、らしい。これは桜木紫乃氏が「砂上」で「三冊くらい単著を出版して初めて、客観的に見ても作家という認識を持ってもらえる」って書いてあったのと通じる。

河林氏の物憂げな作品世界と相まって、私にはこの作品集はある種のホラーに映る。

一連の作品群の後に、作家の生き様や創作を冷徹に見つめてきた第三の目(評論家)の存在がそっと置かれているからである。私は何を受け取ればいいのか。

骨を拾ってくれる人は必ず現れるので、作ることに集中しろっていう理解でいいだろうか?

若くして成功する作家と大器晩成型の作家の違いを検証したよ、の論文

noteの更新頻度が下がってきているので、独立して書こうと思ってた記事ネタをここに置く。

2004年に発表された、David W. Galenson(以降ガレンソン)の論文、「A PORTRAIT OF THE ARTIST AS A YOUNG OR OLD INNOVATOR: MEASURING THE CAREERS OF MODERN NOVELISTS(芸術家の肖像 若き革新者、あるいは老練な革新者:現代小説家のキャリアを評価する)」に書かれた、才能の分類について。

ヘミングウェイ、ディケンズ、ヴァージニア・ウルフ、マーク・トウェインなどのリアリズム系英米現代文学が対象なので、ジャンル小説の文脈からは外れるかもしれない。

論文は、ウィリアム・フォークナーが述べた作家のキャリアについて、ガレンソンが疑問を呈する形で始まる。

フォークナーは「作家の人生には……言葉を換えれば、肥沃な時期がある。……彼が『熱い』時、それはもちろん永遠には続かない」。しかし、その最高の瞬間(matchless time)がいつ訪れるのかについては、「誰にもわからない」と結論づけている。けどそれってホントなん? っていうのを、統計的な手法を用いて解き明かしていく。

計量経済学者のガレンソンは、近代文学の巨匠12人のキャリアを対象に定量分析を行った。

「予測不能」とされる創造性のピークを、作家ごとの「執筆スタイル」によって数学的に予言できるのでは? と考えた。

ガレンソンは、作家を「概念型(Conceptual)」と「実験型(Experimental)」の2つのタイプに分類し、それぞれ「発見者(Finders)」と「探索者(Seekers)」として説明する。

概念型(発見者)明確な目標と確信を持ち、計画的に執筆するタイプ。アイデアを理論化し、象徴やプロットを重視する。代表例として、メルヴィル、フィッツジェラルド、ヘミングウェイが挙げられる。彼らは執筆を「あらかじめ用意した答えの出力」と捉える。

実験型(探索者)目標は曖昧なまま、書きながら答えを見つけていくタイプ。観察や描写、キャラクターの造形を重視し、試行錯誤(トライ・アンド・エラー)を繰り返す。代表例はディケンズ、マーク・トウェイン、ヴァージニア・ウルフ。彼らにとって執筆そのものが「発見のプロセス」となる。

キャリアのピークに「13年」というズレがある

概念型作家(若き天才): 28歳で黄金期に入り、32歳でピークを迎え、38歳でその時期を終える。
実験型作家(大器晩成): 41歳で黄金期に入り、45歳でピークを迎え、53歳で終える。

実験型が「最高傑作を書き始める年齢(41歳)」が、概念型が「最高傑作を書き終える年齢(38歳)」よりも後であるということがわかった。

もちろんこの研究は性格診断や適正判断を行うものではないし、現代に生きる作家勢の運命を予言するものでもない。

若き天才と大器晩成って、なんとなく比較されることではあるけど、それを具体的に検証してくためには、どういうプロセスを踏めば論理的と言えるのか、っていうことの見本として読むのがいい気がする。

作家群はもはや古典に位置づけられているから、論文内で紹介されている作品を代表作として、文豪の作品を読むためのブックガイドにもなる。


ぼーっとすることが増えた

私は今何を考えてるんだろう? っていうところから形にならない日が続いている。

鬱屈してるのかと言えばそういうことはなく、今年の夏は人生で最高くらいに楽しめている。

海にも行ってないしビヤガーデンも通り過ぎるだけだったけど。

自分を取り戻した、みたいな感覚に近い。その自分を傷つける人ももう誰もいない。

「あなたの夢が叶うまで、あと10年かかる」と誰かが言いにきても、

「私もちょうどそう思ってた」って言える感じ。

それではまた!


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