官能小説 『傾く天秤』 43
第43章:『漆黒の意志、体験入隊の夏』
卓也を学校へと送り出した後、加奈子は自宅を出て駅へと向かった。
結婚前に勤めていた職場のつてで、臨時職員として働き始めることになったのだ。卓也との将来のために少しでも蓄えを作りたい――その健気な想いがいよいよ形となって動き出していた。
職場に姿を現した加奈子は、35歳にして全盛期の雌の美しさと艶やかさを放っており、社内の男性社員たちの注目の的となった。食事や飲み会への誘い、探るような視線が絶え間なく注がれたが、加奈子の心には卓也以外の男が入る余地など微塵もなかった。
「あいにく家事で忙しいので」
柔らかい笑顔で、しかし付け入る隙を一切与えない完璧な流し方で、加奈子は群がる男たちを軽やかにかわし続けていた。
◇
夏休みも目前に迫ったある日、地本の漆原から卓也のもとに魅力的な提案が持ち込まれた。
「一ノ瀬、夏休み期間中に陸上自衛隊で2泊3日の体験入隊があるんだが、参加してみないか?」
実際の隊員たちが送る規則正しい生活や訓練の一端を、肌で体感できるプログラムだという。卓也は二つ返事で参加を決めた。
夕食時、加奈子に体験入隊の件を相談すると、彼女は愛おしそうな笑顔で快く背中を押してくれた。
「行ってらっしゃい、卓也。しっかり体験してくるといいわ」
実は、ちょうどその3日間は涼子から羽を伸ばす小旅行に誘われていたタイミングでもあった。加奈子にとっても、卓也が夢に向かって進む姿を見守りつつ、自身も羽を伸ばせる絶好の機会となった。
◇
体験入隊当日。朝早く、自宅前に迎えに来た漆原の業務車に乗り込み、卓也は指定の駐屯地へと向かった。
指定された集合場所には、県内の各高校から集まった約30名ほどの男子生徒たちが顔をそろえていた。もちろん、卓也の学校からの参加者は他にいない。中には漆原の出身校である、あのガラが悪く目つきの鋭い不良校の生徒の姿もちらほらと見受けられた。しかし、「自ら望んで自衛隊の門を叩いた」という共通の志があるためか、どこか異質な、独特の連帯感が全体に漂っていた。
昼前に全員が集まり、簡単な自己紹介を済ませた後、一同はまとまって広大な隊員食堂へと向かった。ズラリと並ぶ一般隊員たちに混ざり、ボリューム満点の定食を胃袋に流し込む。
午後からは全員に迷彩柄の戦闘服が貸与され、一斉に着替えた。引き締まった戦闘服に身を包むと、それだけで身が引き締まる感覚がある。その後は広大な駐屯地内の施設を見学し、敷地内に並ぶ車両や各種装備品についての詳しい説明を受けた。
初日の夜は、グラウンドの一角で隊員たちを交えた懇親のバーベキューが催された。肉を突き合いながら本音で語り合い、夜は隊員たちと協力して設営した野外テントの中で、雑のうを枕にして眠りについた。
◇
翌朝、静寂を切り裂くけたたましい非常ラッパの音で叩き起こされた。
眠気眼を擦りながら素早く整列し、朝日を浴びながらの自衛隊体操、洗面を済ませて朝食をいただく。午前中は講堂に集まり、自衛隊の中に存在する様々な職種(普通科、特科、機甲科など)や、災害派遣・国際貢献活動における実際の役割についての講義を受けた。
午後は屋外に出て、基本的な立ち振る舞いや動作を叩き込まれる「基本教練」の体験指導だ。
「気をつけ!」「休め!」「右向け右!」
参加者たちは自ら志願して来ているだけに意識が高く、教官の鋭い号令に対して真剣そのものの表情で身体を動かした。訓練の合間の休憩時間には自然と打ち解け合い、将来の夢や志望する職種について熱く語り合う仲間となっていった。
最終日、3日間の総括として「体験入隊に参加して感じたこと」を主題とした小論文の作成が課された。卓也は迷いのない力強い文字で、己の覚悟と決意を原稿用紙に叩きつけた。
すべての日程が終了し、参加者たちはそれぞれの担当広報官の車に乗って帰路へとついた。
助手席に卓也を乗せた漆原は、彼がすでに揺るぎない確信を得ていることを察していた。バックミラー越しに卓也を見やり、静かに問いかける。
「どうだった、一ノ瀬。……それで、最終的な入隊区分はどうする?」
卓也は車窓の外をまっすぐ見つめたまま、迷いなく答えた。
「自衛官候補生からいきます。一番底辺から、自分の力だけでどこまで登りつめられるか試したいんです」
幹部候補としてのエリートコースではなく、泥をすすり、現場の叩き上げとして最速で最強の男になる道。それが卓也の選んだ答えだった。漆原は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにニヤリと力強い笑みを浮かべた。
「そうか……いい度胸だ。お前ならそう言うと思ったよ」
◇
夕方、久しぶりに我が家の玄関を開けると、家の中には甘く芳しい匂いが立ち込めていた。
靴を脱ぐ間もなく、奥から駆け寄ってきた加奈子が、弾むような身体で卓也の胸へと飛び込んできた。
「おかえりなさい、卓也……! すごく寂しかった……っ」
涼子との小旅行から戻り、卓也の帰りを待ちわびていた加奈子は、狂おしいほどの一途な愛おしさを全身から溢れさせていた。卓也は飛び込んできた加奈子の細い腰を強く抱き寄せ、その体温を確かめるように深く抱きしめ返した。
己の腕でこの女を一生守り抜く――そのために選んだ過酷な道への確信が、腕の中の温もりによって、より一層強固なものへと変わっていくのだった。
